新「日雇」考 ― 『論座』の論争に寄せて
   「希望は、戦争」フリーターの心情
                                深山 和彦

 論座二〇〇七年一月号に赤木智弘という若者が、「『丸山真男』をひっぱたきたい」という見出しで、フリーターの心情を吐露している。「戦争は、希望」はその副題である。六月には、それへの諸人士の批判に対する反批判という形で、続論も掲載している。今回は、これを扱ってみたい。
 ここでの私の問題意識は、新日雇層の運動をどう組織していくか、というところにある。われわれは、一九七三年以来、釜ヶ崎を軸に寄せ場における日雇労働運動に関わってきた。この経験と運動の蓄積は、社会全体の寄せ場化という事態が現れ・進行するなかで、活かすことができるし、日雇労働者の生活・就労形態、社会的地位、要求と心情、運動・組織の在り方が独特であることを考えるならば、その責務もあるだろう。しかし、旧日雇の運動から新日雇のそれへと踏み出すには、越えるべきハードルは決して低くはない。まず問題意識を高めることが重要である。
 
 1、「市民社会=敵」論

 赤木氏は、「平和とはいったいなんなのだろう?」と自問して、語り継ぐ。「一方、私はと言えば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。」「『子供の安全・安心のために街頭にカメラを設置して不審者を監視する』とアナウンサーが読み上げるのを聞いて、『ああ、不審者ってのは、平日の昼間に外をうろついている、俺みたいなオッサンのことか』と打ちのめされる」「夜遅くバイト先に行って、それから八時間ろくな休憩もとらずに働いて、明け方に帰ってきてテレビをつけて酒を飲みながらネットサーフィンして、昼ごろに寝て、夕方目覚めて、テレビを見て、またバイト先に行く。この繰り返し。月給は十万円強。」「そして何よりもきついのはそうした私たちの苦境を、世間が全く理解してくれないことだ。『仕事が大変だ』という愚痴にはあっさりと首を縦に振る世間が、『まともな仕事につけなくて大変だ』という愚痴には『それは努力が足りないからだ』と嘲笑を浴びせる」と。
 実家との関係を強く残している分、開き直りを欠くが、おおむね寄せ場労働者と共通する一面が吐露されているのではなかろうか。新日雇層は、その多くはまだ彼のように、実家との関係を多かれ少なかれ残しているようである。その分、孤立を余儀なくされている。
自尊心をすり潰され、経済的自立が難しく、なおかつ孤立した状況に押し込められている。その結果、「現状のまま生き続けたとしても、老いた親が病気などによって働けなくなってしまえば、私は経済的基盤を失うのだから、首を吊るしかなくなる」といった絶望に陥る。そして「平和」という名の忌まわしい社会の安定を拒否し、「戦争というカタストロフィー」を「願望」する。
 これは、かつて寄せ場の運動の中にあった「市民社会=敵」論の現代版と言える。かつてのそれは、寄せ場労働者の集団的反抗の指針であった。寄せ場労働者の運動の爆発においては一定の役割を果たしたが、寄せ場労働者だけで革命をやれる訳もないから、早々に行き詰った。
これに対して彼の論は、社会の流動化を戦争によって実現するという主張である。しかし、戦争で日本の社会が流動化するのは、日本の国家が戦争に負けた場合だけであり、そのさい民衆が既存の国家を解体するとき最高度に実現されるものである。戦争そのもの、特に勝ち戦さはカタストロフィーではなく、支配秩序の固定・強化に帰結する。「市民社会=敵」論の現代版は、彼の意図とは逆に、支配秩序の固定・強化に与するものとなる。

2、惨めさを売り物にする思想

 彼は、二〇〇六年七月に放送された、NHKスペシャル「ワーキングプア 働いても働いても豊かになれない」を見て違和感を覚えたという。「番組では、働いてもそれに見合った給料が得られず、生活もままならない人たちが、ワーキングプアとして並列的に紹介されていた。…『元サラリーマン』『イチゴ農家』『仕立屋』といった経済成長世代と、「ホームレスになってしまった三〇代の若者」『フリーターである私』というポストバブル世代の間にある大きな差異を、見過ごしている。」「前者には少なくともチャンスがあった。後者は社会に出た時点ですでに労働市場は狭き門になっており、チャンスそのものがなかった。それを同列に弱者であるとする見方には、私はどうも納得がいかない」と。
 確かに、ワーキングプアとひと括りにできない現実がある。違いを認識することは大切だが、惨めさを競うことは、お互いになんの益もない。
 かつて寄せ場の運動の中において、「市民社会=敵」論とセットで「惨めさを売り物にする」思想が存在した。この「惨めさを売り物にする」思想は、俺たちは日本経済を最底辺で支えている最も労働者らしい労働者だ、最も革命的たりうる労働者だ、と寄せ場労働者の自尊心を組織する思想と表裏のものだった。それはそれで、運動の初期には大きな役割を果たしたのである。しかしそれは、差別され、貧困に苦しむ社会的集団の間で問題の解決が問われた際に、俺たちこそ最も虐げられている存在だと開き直る態度となって表出した。惨めさを売り物にする思想は、団結できない思想なのである。
 もっとも彼の思想においては、民衆の団結は、考慮の外にある。他力本願、国家へのお願い路線が、その特徴である。彼は、国家が戦争をやってくれれば、「国民全員が苦しむ平等」が実現され、平和の下での屈辱から抜け出せると考える。
だが現実には、日常の屈辱から抜け出したい非正規の若者が、高給をえさに狩り集められ、前線に投入される。アメリカ帝国のため、米軍の補助、弾よけになることが、その主たる役割である。戦争が拡大すればするほど、グローバルな規模で重層的な支配構造が発達し、その末端でフリーター出の若者が民衆の殺害に従事しつつ勝つことのありえない侵略戦争の泥沼にはまっていくのである。戦争は、「全国民が苦しむ平等」を実現するどころか、重層的不平等構造を極限にまで拡大する。団結できない思想は、戦場で、フリーター出の若者と内外の民衆との敵対関係として実現されることになるのである。

 3、革命への虚無的態度
 
 彼は言う。「革命という思想は、主張や行動が受け入れられるという社会への信頼が前提となっている。私の現状は、そうした信頼をすべて奪い取られた上にある」「正社員で、もしくは非正社員でも生活に十分な給与を確保している安定労働者層という多数派に、小さな企業の正社員や、派遣労働者や、フリーターといった貧困層という少数派が支配されている現状において、革命などは絶対に成就しない」と。
 革命への虚無的態度である。彼の置かれている現状からすれば、妥当な感性でもある。とはいえ、現状は日を追って変化する。
 そもそも社会全体の寄せ場化といわれる事態がなぜ現出したのか。簡単なことである。世界史的に産業(生産手段)が成熟段階に入ったこと、そのことによって資本が拡大再生産するのに必要なフロンティアが消滅したことによる。時代の軸心が、産業(生産手段)の発達の時代から人間(労働力)の自由な発展の時代へと移行し、育児、学習・就労、予防医療、介護・福祉、環境保護などの活動領域を豊かに発展させる時代に入ったのである。しかし資本主義は、一つの奴隷制であり、搾取制度であるから、人間の自由な発展を保障するシステムではない。それゆえ資本は、実体経済から遊離してマネーゲームの世界を肥大化させ、その対極に膨大な失業者群を拡大再生産する。また資本は、実体経済の領域においては、その蓄積運動を継続するために、自然環境や国境や社会のありとあらゆる制約を破壊してその搾取体系の網を押し広げ、増大する失業者群を利用して低賃金の使い捨てシステムを発達させるのである。資本間の激化する競争がこうした傾向を強制し加速する。資本主義は、社会を崩壊させつつ生きながらえるサイクルに陥っているのである。東アジアなどに見られる資本主義の生命力は、世界史的傾向の観点からすると部分的である。これらを政治的に支えているのが一つの超大国を主柱とする国際反革命同盟体制(「アメリカ帝国」)である。
 要するに、社会全体の基底における新日雇層の形成と増大は、寄せ場を超えた野宿労働者(ホームレス)層の形成とともに、資本主義の仕方では社会を存立させていくことができなくなってきている時代情勢の一つの現れだということである。革命主体形成の困難性という問題は、そのことを確認した上での話である。
 困難性はあるだろう。しかし、新日雇の多くが「実家」に閉じ込められて孤立している状況は、長くは続かない。寄せ場に「転落」しまいと踏ん張れる状況も長くは続かない。早晩、彼ら・彼女らが路上にたむろする地域が各地に生まれるだろう。立地の良い寄せ場は、その一つとなるに違いない。小規模の暴動が日常茶飯事となるだろう。世界標準化である。
 困難性には、彼も指摘しているように、正規による非正規の支配、正規労働者の利益を優先する労働運動と左派、新日雇の少数派性、などの現実もあるだろう。しかし、非正規を切り捨てては、労働運動は無力であることが明らかになってきているのも現実である。重要なことは、非正規労働者自身が団結して立つことである。少数でも、今日の資本主義の問題性を根底から撃つ質を持つのであれば、大きな政治的影響力を持つことができる。力を持ち、利害を調整し、大きな団結を作り上げていく。それは困難であるが、可能であり、現状を打破するただ一つの道である。
 彼は、「流動性を必須のものとして人類全体で支えていくような社会づくり」を一生ものの宿題にしたいと言う。この思いには同意できる。いまや分業の各分節に人が固定化されることのないネットワーク社会は目前に迫ってきている。私的所有の桎梏を取り払うことで、変革への道が大きくに開かれることだろう。(了)