自衛艦インド洋撤退かちとり、日本外交転換へ
  テロ特措法も新法もいらない

 十一月一日で無効となるテロ特別措置法は、安倍辞任による国会空転によって、いっそうその延長が不可能になった。福田新内閣は臨時国会でテロ特措法に代わる新法を成立させるとしているが、アラビア海・インド洋で米英等の多国籍軍への給油活動等をしている自衛隊艦船は、すくなくとも一時的撤退が避けられそうにない状況になってきた。
 十一月からの全面撤退を実現させるならば、反戦平和闘争における日本の労働者人民の大きな勝利である。福田政権は、一時的中断を早期に克服すべく、臨時国会延長・通常国会において給油新法を通そうとするだろう。そのときには、給油に限定せず、国連決議との関連を整理した恒久的派兵法案として提出し、民主党との調整をすすめようとする危険性もあるだろう。
 しかし、一時的にせよ自衛隊艦船が撤退せざるをえなくなることは、自民・公明連立政権の軍事・外交路線の破綻として内外に印象付けられる。流れは変わった、次はイラク戦争からの自衛隊全面撤退だ、となるべきである。
 自公連立政権の外交的失敗は、はなはだしいものがある。六者協議での日本の孤立も、その一つである。アフガン問題での九月の国連安全保障理事会決議についての、日米の画策もかえって失策に終わった。いわゆる治安支援部隊の延長のためのこの決議に、日本の給油活動を念頭に「海上阻止活動への感謝」なる文言を前文に入れ込んだことは、ロシアや中国の反発を呼んでしまった。給油活動がブッシュ有志連合に偏ったものでしかないことが、より明らかになったのである。
 またこのかん、日本の給油活動がイラク侵略にも使われていること、このテロ特措法違反が歴然と明らかになった。米空母キティホークが、補給艦「ときわ」から米補給艦を通じて間接給油されていた。米揚陸艦には、直接給油されていたことも明らかとなった。米軍の第七艦隊、第五艦隊がイラクとアフガンで使い分けられていないのだから、当然でもある。政府は九月二八日に初めて給油実績を公表したが、給油量の55%が米英を主とする補給艦への給油であるという。その米英補給艦はどこの戦争に給油するのか、知ったことではないとしている。
 現在のミャンマー(ビルマ)での民主化闘争とそれへの武力弾圧という事態にも、日本政府は責任を取ろうとしていない。軍事政権の最大援助国は、経過的には日本である。一九八八年の民主化闘争への大虐殺の後もクーデター政権をいち早く承認し、日本の利権を計ってきた。日本人記者射殺(九月二七日)に抗議してみせても、親日軍事政権を手放すつもりはない。日本のアジア「独自」外交の破綻である。なお、ブッシュ政権は中国を牽制しつつ、ミャンマーについても「人権外交」を叫んでいるが、自分の人殺しをまずやめてからにせよ。
 テロ特措法にも新法にも反対し、日本外交の転換を実現しよう。(A)


安倍辞任と自民総裁選
  化けの皮は剥がれた


 世間知らずの大言壮語

 臨時国会の所信表明演説が終わり、さあ、代表質問という間際の九月十二日、安倍晋三は政権を放り投げた。この無責任さには、大方の自民党支持者でさえ、あきれ果てた。その後、安倍は入院したが、それでも首相臨時代理を置かなかった。これもまた、世間常識とはかけ離れた愚劣な行動であった。
 あまつさえ、安倍は総裁選の翌日二十四日、病院で記者会見し、政権放り投げの主因が民主党との党首会談ができなかったからではなく、自らの体力の限界にあったと訂正した。つまり、以前はウソを言っていた、というのである。そして、今後については、ぬけぬけと、一議員として政治家をつづけたい、と放言している。政権を放り投げたのみならず、その後の一連の行動が、無責任、世間知らずの非常識にもかかわらず、議員は続けたいというのである。これこそ、まさに「万死」に値する行為である。
 安倍の無責任な行動に多くの人々があきれ果てたが、他方で、その口から出る大言壮語とのあまりの落差に、驚いた人も少なくなかったであろう。安倍のブレーンであったある右翼学者は、「保守はしばらく冬の時代を迎える」(『毎日新聞』九月二十四日朝刊)と嘆いている。
 「戦後レジュームからの脱却」、「憲法改正」、「美しい国(=規律を知る凛とした国)づくり」、「闘う政治家」などと、勇ましい言葉を書き連ね、本気で戦前回帰をねらっていた人間が、かくももろくも政権を投げ出すとは、まさに大言壮語の典型例であろう。
 
 庶民の苦しさを理解できない世襲議員
 
 ところで、世間知らずという点では、自民総裁選の福田、麻生の両候補(ともに世襲議員)とも、安倍に劣らず相当なものである。二人とも小泉構造改革を基本方向としては肯定し、「問題があれば手を変えないといけない」(福田候補)、「光が強ければ影の部分も強い。構造改革で生じた不安と格差の解消を急ぐ必要あり」(麻生候補)など、問題の核心点をごまかしている。
 果たして、小泉構造改革は、庶民にとって改革に値したのか。むしろ、多国籍企業や金持ちのための「改革」ではなかったのか。
 それは、「改革」なるものの結果をみれば明らかである。銀行の不良債権を解決したといっても、それは預金者や年金生活者などの犠牲によってである。企業の業績回復といっても、それは大量首切りや非正規労働者の増大など多くの働く者の犠牲で実現したものである。財政規模をいくぶんなりとも減らしたといっても、それは「三位一体改革」に見られるように、高齢者の多い地方自治体の切捨てという犠牲によるものである(その上未だに財政赤字克服への手がかりさえつかめていない)。
 どれもこれも、庶民ばかりが犠牲となり、独占資本や金持ちだけがトクをするというのが、小泉構造改革なるものの実態である。だからこそ、影の部分を解消すればよい、という考え方は、間違いであり、資本や金持ちのための「改革」をただちにやめ、庶民のための改革を一刻も早く実現すべきなのである。
 
 自民の化けの皮が剥がされる時代

 総裁選の渦中に『朝日新聞』が行なったアンケートによると、自民都道府県連の三分の二が、「公共事業や景気回復のための財政出動は重要だ」(九月十八日朝刊)と回答し、「旧来型の自民党政治」への先祖がえりの様相を示している。
 しかし、そもそも自民党の本質は、結党いらい独占資本の政治的代理人(独占資本の利益を代表する階級政党)というところにあるのだが、欧米諸国の2〜3倍という公共事業や、野党の主張する福祉政策などを抱え込むことなどにより「国民政党」のカモフラージュをしてきたのである。この何よりの証拠は、高度成長時代、兼業などで農民たちの生活はそれなりに維持できたが、独占資本のための政策の犠牲で農業自身は荒廃してしまったことに、明らかである。このような自民党政治こそが、政官財の鉄のトライアングルによる、いわゆる利益誘導型政治の階級的特徴を示しているのである。だが、今日、ケインズ主義の凋落と新自由主義の浸透、とてつもない財政赤字の累積、不要不急な公共工事による自然破壊などにより、「国民政党」を装う利益誘導型政治は客観的に不可能になっているのである。これからは、ますます「国民政党」としての自民党の化けの皮が剥がされる事態に突き進むであろう。
 旧来のケインズ主義でもなく、今日の新自由主義でもなく、搾取なく平和で公正な社会をめざし、各戦線での運動の発展と政策の練磨がますます問われている。(T)