【沖縄からの通信】

 教科書検定意見撤回9・29県民大会に空前の11万6千人
   偽りをいうなかれ日本よ

 9・29、十一万人の沖縄人が宜野湾海浜公園に集まった。「集団自決」検定意見撤回を求める県民大会である。宮古・八重山の各大会を合わせると十一万六千人、日本復帰後、最大規模の集結となった。
 二、三行の教科書記述の書き換えをめぐって、これだけの人々が集まるというのは、普通の社会ではありえない。だが沖縄社会では、「集団自決」が日本軍の命令・強制・誘導なくして行なわれたとされることは、とうてい許せるものではない。
 人間の精神構造に核芯のようなものがあるとすれば、沖縄人のそれは、沖縄戦の歴史的体験によって形成されていると言えるのではないか。戦争を心底きらい、軍国主義や「殉国の精神」なるものに、沖縄人は腹が煮えくりかえるほどの憎しみを抱いている。簡単には変化しない、そういう核芯をもっている。地上戦を経験していない日本人一般には、そのようなものはない。
 「集団自決」の典型例は、米軍が最初に攻勢をかけた慶良間諸島で起こった。この地は日本軍の特殊攻撃ボートの基地であり、基地作り・塹壕作り、その他軍の仕事を「土民にさせる」政策によって、住民はあらゆる軍事機密を知りえる立場にあった。「本土防衛」「国体護持」のための捨て石作戦としての「長期持久戦」に入るや、日本軍にとって「土民」は防諜上の障害となった。軍はその長期生存のため、住民管理の経路を通じて手榴弾を配り、「玉砕場」に集合させ、家族ぐるみ・部落ぐるみの集団的自殺と殺し合いを強行させた。惨憺たる地獄を作り出したのは、日本軍である。
 「集団自決」は日本軍の基地があるところでは、本島でも起きたが、実数は定かではない。しかし「集団自決」は、、住民虐殺・壕からの追い出し・住民の戦闘への動員など、日本軍による住民犠牲の全体とともに捉えることが必要だ。北部では、全集落員を整列させ、軍が周りから手榴弾を投げ込んで皆殺しにした事例がある。これも、目的から言えば「集団自決」と同じである。軍も住民も区別できず、非戦闘地域など存在しなくなった南部で、弾雨の中へ住民を壕から追い出して殺すのも、「集団自決」につながる。学徒隊(健児隊、鉄血勤皇隊、ひめゆり隊など)の使い捨て、義勇隊や防衛隊に対する斬りこみ突撃命令も強要された「集団自決」である。
 大江・岩波沖縄戦裁判では、自らは戦うことなく生き延びた軍人たちが、軍の名誉回復などと称して、実質的には「集団自決」に追いやられた沖縄人を裁判にかけている。「殉国」と言うなら、沖縄人の非戦闘員が「殉国の死」についたのに、なぜ君たち軍人は殉国死していないのか。そういう者が冤罪を主張するのは恥さらしではないのか。
 沖縄人の「集団自決」が、軍命によるものではなく「殉国死」であるとするならば、なおいっそう日本軍と日本国家の犯罪性が問われるのでないか。そのような「殉ずる」国と一体何なのだ! 沖縄人に殉国死をもたらすことが、日本軍の、日本国家の、日本人の任務なのですか!
 軍事史的に考えると、日本軍にとっては、兵士の累々たる死を積み上げることイコール戦勝であった。日本軍の用兵の核心点は、農村出身の兵士たちに、いかに簡単に死を承認させるかにあった。「海ゆかばみずく屍、大君の辺にこそ死なめ」である。天皇のために死ぬことを、美意識にまで高めようとした。
 十五年戦争の初期には、そのやり方も通用した。しかし対米全面戦争になり、戦局が不利になると、「殉国死」への動員もほころびてくる。戦勝に結びつかず、戦死ですらない累々たる屍、そして住民の戦場への動員という最終段階を迎える。ここで沖縄の地上戦があった。
 9・29県民大会の開会挨拶(県民へのアピール)には次のようにある。「砲弾の豪雨の中へ放り出され/自決せよと強いられ/死んでいった沖縄人の魂は/怒りをもって再びこの島の上を/さ迷っている/いまだ砲弾が埋まる沖縄の野山に/拾われない死者の骨が散らばる/泥にまみれて死んだ魂を/正義の戦争のために殉じたと/偽りをいうなかれ」
 
 今回の9・29が、十二年前の県民大会(米兵の少女暴行事件抗議)の八万五千名を越えて、なぜこれだけの規模になりえたのか。それは、日本国家が、沖縄人の沖縄戦体験のアイデンテティーを否認したばかりではなく、このかんの情勢で、沖縄人の生存と存在を意に介さない姿勢がはっきりと見えるようになってきたからである。沖縄を核戦争の戦場とするミサイル配備を始め数々の基地機能の強化、辺野古への軍艦派遣、教科書問題では二度にわたる県議会の決議と要請を門前払いにした日本政府。
 官邸から沖縄イジメの指揮をとる日本国首相に、それが安倍であれ次の誰であれ、沖縄人は保守・革新の区別なくキレてしまったともいえる。小泉・安倍で日本の右傾化がすすんだが、沖縄人は沖縄戦で、右傾化日本の正体を知ってしまっていた。その記憶は六十余年経ても風化していなかった。
 今回、保革を越えて沖縄が県民の総意として、日本政府にその行為を是正すること(教科書検定意見を撤回し、日本軍による命令・強制・誘導の「集団自決」記述を回復すること)を堂々と要求し、決議した。沖縄民衆と日本政府とが、まさに対峙している。県民大会の力によって、検定意見が撤回されるならば、日本支配層の右翼グループは決定的打撃を受けるだろう。(T)
 
 
沖縄戦裁判が9・10那覇出張法廷
    真実を判決に!

 大江・岩波沖縄戦裁判(右翼グループが元軍人らを原告とし、沖縄戦「集団自決」に軍の強制はなかったなどとして大江健三郎氏や岩波書店を名誉毀損で訴えたもの)は、七月二七日の大阪地裁で原告側二名・被告側一名の証人調べがなされ、続いて提訴された大阪の地から争点の現地である沖縄への出張法廷が九月十日、福岡高裁那覇支部で開かれた。
 この那覇出張法廷では、被告側証人として、渡嘉敷島での「集団自決(強制集団死)」を経験し生き残った金城重明さん(七十八歳、沖縄キリスト教短期大学名誉教授)が証言した。沖縄で出張法廷(所在尋問)が実現されたことは成果であるが、深見裁判長は公開法廷にせず不当にも非公開とした。
 これに先立って当日午後一時から那覇地裁前広場にて、沖縄出張法廷支援集会が半時間ほど開かれた。集会では、「沖縄戦の真実を判決に!」と大書きされた横断幕のもと、沖縄から平和教育をすすめる会、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会、沖縄の真実を広める首都圏の会などから、歴史を歪曲する教科書検定意見を撤回せよ、戦争する国づくりを許さないなどの挨拶が行なわれた。
 金城重明さんが車で到着後、横断幕と金城重明さんを先頭に、集まった約八十名が法廷に向かって行進した。
 なお出張法廷は、主尋問五十分、反対尋問六十分、最終尋問十分の二時間に渡る内容で行われた。
 そして午後四時半からは、出張法廷報告集会が八汐荘(那覇市松尾)で開催された。集会では最初に、証言を終えたばかりの金城重明さんから大要以下の挨拶が行なわれた。
 歴史教科書で文部科学省は、軍命があったのにそれを抹消した。とんでもないことだ、あきらかに軍命があり、強制・圧力があった。一九四五年三月二七日渡嘉敷島に米軍上陸、翌三月二八日集団死、一日空いたのは、軍命で住民が移動させられたから。「軍官民共生共死」で一木一草まで軍が支配していた。
 その晩は大雨と艦砲射撃の嵐の中、北山陣地に住民は強制移動させられた。住民が集合した二八日、防衛隊が村長に軍の命令を伝える。村長の「天皇陛下万歳」の掛け声のもと、一週間前に配られていた手榴弾の発火、しかし不発が多かったため第二の集団死が。以心伝心村人たちは、あらゆるものを使い、子ども・孫・妻を殺すことに、主役は父親だった。
 日本軍の存在なしに「自決」は起こらなかった。私は六十二年間苦しんできた。梅澤(原告・座間味島隊長)は苦しんでいない。過去を消せば現在はない、未来もない。
 以上の金城重明さんのお話しの後、弁護団からは、証言また報告で金城さんにはつらい話をしてもらった、軍の命令これしかありえない、歴史の残酷な部分をかくすことは許せない、真実を判決に!と挨拶があった。
 なお大阪地裁の沖縄戦裁判は今後、十一月九日に午前十時から夕方まで、梅澤裕(座間味島隊長)と赤松秀一(渡嘉敷島赤松嘉次隊長の弟)の二人の原告本人への尋問、および大江健三郎氏の出廷と被告大江氏本人への尋問が行なわれる。また十二月二十一日が最終書面提出で結審、来年三月に判決が出る見通しである。
 慶良間列島の強制集団死は次のように記録されている。
一九四五年三月二六日 
座間味島177人 
慶留間島53人
一九四五年三月二八日 
渡嘉敷島329人
                   (沖縄A通信員)
 

 沖縄県民大会プレ集会9・27首都圏
   東京行動団(10・15〜16)に連帯を

 沖縄戦の歴史書き換え撤回を求める沖縄県民大会の前々日の九月二七日、東京では「沖縄県民大会プレ集会・首都圏 大江・岩波沖縄戦裁判と教科書検定」が開かれた。沖縄戦裁判を支援し沖縄の真実を広める首都圏の会などの主催で、文京区民センターの会場を満杯にする三百人近い参加であった。
 最初に、七月参院選比例区で沖縄からの参院議員となった山内徳信さん(元読谷村長)があいさつ。県民大会を目前とした現況に触れつつ、「沖縄と本土の温度差、とよく言われるが、それだけではうまく表現できない違いがある。読谷に日本軍が飛行場を作ったから米軍の上陸地点となった。沖縄に日本軍がいたから戦場となり、日本軍による住民虐殺、集団自決強制が起きた」と涙ぐみながら語った。「検定意見撤回の県議会決議では、全会一致のために軍の『関与』という言葉が使われているが、実際は命令・指示である。県民大会成功から政府・文科省へ撤回を迫っていこう」と訴えた。
(徳信さんのあいさつは、戦争体験の継承での沖縄と「本土」との違いを改めて痛感させるものであった。「本土」では、侵略戦争を反省する立場の人であっても、兵隊も侵略に動員されひどい目にあい、国民一般も戦禍でひどい目にあったとするものであるが、沖縄のように日本軍から我々住民がひどい目にあわされたという感覚はないのである。)
 続いて、大江・岩波沖縄戦裁判支援連絡会の小林薫事務局長が、大阪地裁での裁判状況、九月十日の那覇出張法廷の報告を行なった。新証言も多く出ており、原告敗訴を確信できると述べた。
 次に沖縄から山口剛史さん(沖縄戦の歴史歪曲を許さず沖縄から平和教育をすすめる会、琉球大学)が、県民大会へいたる経過について述べ、「保革を超えた県民運動をつくることができた」と報告した。
 沖縄戦研究者として林博史さん(関東学院大)も、以下のように発言。日本軍がいなかった島々では「集団自決」は起きていない。皇民化教育だけで人間は自殺するものではなく、渡嘉敷・座間味には特攻舟艇基地などの特殊性があった。軍の強制なしに「集団自決」を語れないことは、研究により確定していた史実であったが、今回の検定意見は突然それを否定した。日本史小委員会で審議もされておらず、文科省の教科書調査官が政治的に持ち込んだものであり、文科省の判断で撤回できる。
 会場からは、検定意見撤回の意見書採択を求める練馬区の市民運動 また県人会としての声明を挙げる東京沖縄県人会の上原成信さんから発言があった。
最後に行動提起として、沖縄戦歴史書き換え許すなの意見書採択を「本土」でも各自治体で広げていくこと、検定意見撤回要求の署名を拡大することなどを確認し、アピールを採択して終了した。
十月十五日・十六日には、9・29県民大会の成功をもって、沖縄東京行動団が対政府行動を展開する。数百名規模の上京とも言われており、これに連帯する首都圏の大きな決起が問われている。まさに文部科学省に歴史書き換え撤回の断を迫る山場となるだろう。(東京W通信員)