『マルチチュード』考
   現代の革命主体をめぐって
                                 深山 和彦

 わたしはこの十数年来、世界史の大転換に照応した革命理論の再構築を志してきた。レーニン帝国主義論や唯物史観の現代的発展など、私なりに確信を建て直してきた。しかし革命主体の問題に関しては、現実の変化をもうしばらく見守る方がよいと判断し、課題として残してきた。だがここにきて、いつまでも見守っておれない情勢になってきている。
 二十一世紀にはいって日本は、超大国アメリカによる反テロ・イラク侵略戦争の発動を契機に、世界史の大転換の荒波の只中に一気に投げ込まれた。政府は、アメリカ一辺倒、新自由主義(市場原理主義)を強行することで金融独占資本−多国籍企業の資本蓄積を確保し・社会の崩壊を省みない路線へと大きく舵を切る。またそれとともに支配階級の内部に、超大国アメリカと一定の距離をとり、東アジア共同体を志向しつつ、新自由主義をやりながらも民衆による社会再建の諸運動を包摂して社会の崩壊を押し止めようとする動揺的一半の路線も形成されてくる。
 このように支配階級が大転換の時代に対応した政治再編課程に突入する中で、昨年来「格差社会」「貧困」が政治問題化する。「非正規労働者」の層が、日本の政治の帰趨に大きな影響をおよぼす時代の到来を垣間見せる。ユニオン運動への「外国人」労働者の参加が広がる。環境・福祉などの領域が、民衆運動的にも比重を増してくる。NPO、協同組合などの諸形態による事業が発展し、地域社会の再建にとって不可欠の要素となり始める。こうした中で労働者民衆の側も、これからの一時代を闘い抜くための政治勢力の形成が問われずにいない状況になってきている。今回の参院選における支配階級の動揺的一半の圧勝とそれがもたらすであろう支配の揺らぎは、新たな時代の労働者民衆の政治勢力形成にとって、試練の環境となるに違いない。
 こうした情勢に迫られて、革命主体に関する理論問題についても、そろそろ私なりに見解をつくりあげていきたいと思うようになった訳である。ここでは、アントニオ・ネグリ、マイケル・ハート共著の「マルチチュード」(NHKブックス、日本放送出版協会)を論評してみることにする。
 ネグリ、ハートは、現代の革命主体は「労働者階級」ではなく「マルチチュード」だとする。それは、「資本の支配のもとで働くすべての人々」、ネットワークでつながる多数多様性の集まりであると定義される。一昔前なら一笑に付された見解ではある。しかし、革命主体に関するマルクスの見解と現実との間に乖離がうまれてきていることで、こうした主張も出てきている訳である。
 マルクスは、機械制大工業の発展が資本家に対立する賃金労働者の数と結束と反抗とを不可避に増大させるとし、この賃金労働者の階級こそが、階級と国家を廃絶し「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展のための条件であるようなひとつの共同社会」を目指す革命の主体だとした。機械制大工業の発展と革命主体の成長とを結びつけたこと自体は、歴史的事実を捉えたものであり、正しい認識であった。マルクス自身は、革命主体を工場労働者と狭く規定していた訳ではなかったが、かつての左翼の間で「工場の中へ」「大工場の中へ」を合言葉する傾向が圧倒的だったのには、理論的・現実的根拠があったといわねばならないだろう。
 問題は、『産業の成熟』によって、労働者階級の在り様がかつてと変化してきている現実をどう捉え実践の指針とするか、という点にある。
機械制大工業、そしてコンピュータネットワークの発達によって、労働手段(産業)の発達は成熟段階に入った。経済生活において労働対象(対象的自然)が支配的要素だった時代は何千年か前に基本的に終わり、労働手段(産業)が支配的要素となった時代も今終わろうとしている。社会の目的(人々の欲求)が、資本家の目的である資本蓄積の形態をとった労働手段(産業)の発達から次第に離れ、人間の自由な発展へと移行しだしている。社会的活動領域の基幹が、物を生産する活動領域から人間を対象とした活動領域へと移行しだしている。労働手段の発達を自己の蓄積運動として成熟段階にまで推し進めた資本は、その歴史的役割を終了した。支配・隷従関係、搾取・被搾取関係の一形態である資本関係が、人間一人ひとりの自由な発展が推進力となる時代に適合しないのは明らかである。「生産諸力と生産関係の矛盾」の今日的展開が始まったのである。
 もちろん資本は、自己の拡大再生産運動を維持するために社会の新たに広がる・人間一人ひとりのための活動の領域へ入っていく。しかし資本が、支配・隷従関係であり、利潤を目的とする運動である以上、そこにはおのずと限界がある。資本の過剰が慢性的に拡大することになる。資本は、マネーゲームの世界を肥大化させ、その対極に膨大な失業者群を排出し膨張させる。非正規雇用の労働者が、労働者の間で大きな割合を占めるようになり、その基底に絶対的過剰人口が堆積する。資本は、グローバルな規模で、社会と自然環境が存続できる限度を超えて利潤追求の活動を拡大・強化し、儲からない領域については荒れるに任せる。
 社会の崩壊が、世界および各国の社会の「周辺」から中心部へと広がっている。資本は、今や社会を維持できなくなっている。超大国アメリカが全世界の人民を仮想敵とする「反テロ戦争」を開始した最深の根拠は、ここにある。
 支配階級が自己の仕方で社会をなりたたせることができなくなれば、民衆は自己の生存の必要に迫られて、様々な方向をもった闘争を拡大しながら、新しい社会の模索に向かわずにいない。世界の民衆の間で今起こっている事態は、これである。その中で労働者階級が、資本に対する反乱を広げ、資本主義とはちがうシステムを発展させていくのである。
 たしかに労働者階級は、資本主義が生命力を持っていた、それによって社会が成り立っていた時代の労働者階級のありようではなくなった。しかし、かつて農奴制の衰退の中から資本主義が発展し、資本家階級と労働者階級が歴史の舞台に登場してきたように、新たな階級(関係)が形成されてきている訳ではない。労働者階級の変化は、一面で資本主義の衰退がもたらし、一面で新しい社会を創造する必要がもたらしているものである。
 ネグリ、ハートが指摘する、「物質的労働」から「非物質的労働」へのヘゲモニーの移行も、「多数多様性」を包摂した「ネットワーク」という運動の特徴も、この変容をあいまいに反映したものである。しかし彼らは、そうした変化をもって、「労働者階級」という概念を放擲し、「マルチチュード」の登場を語るのである。その政治的意味は、次の三点にまとめることができると思う。
 第一は、「マルチチュード」を「多数多様性」の集合として描くことにより、階級と階級差別問題をあいまい化していることである。そのことは、マルチチュードの運動の目標を「民主主義」とすることに、また階級差別の廃絶という社会革命(国家そのものの死滅を導く)を後景化してしまうことに、帰結する。
 第二は、「多数多様性」を結ぶネットワークの発達が「マルチチュード」を生み出すと強調することで、多数多様な社会集団各々の特殊性を軽視していることである。そのことは、被抑圧民族の自決権・自主権を軽視する態度となり、超大国アメリカによる諸国に対する「民主主義」の強要に確固として対決できず、労働者階級の国際連帯の構築を損なう態度に帰結する。
第三は、労働者階級の下層(とくに相対的・絶対的過剰人口)を「貧困層」に溶解させることで、階級的団結形成への意識性を弱めるということである。
 「マルチチュード」論は、国家権力問題、階級差別問題を回避しようとする、無政府主義の現代的焼直しだといってよいだろう。〔了〕