追悼 上坂 喜美さん
      常に三理塚闘争に献身
                  関西東峰団結小屋維持会・渡邊充春


 関西三里塚闘争に連帯する会・関西三里塚相談会の代表で、三里塚闘争に連帯する会(全国)の代表を発足以降務められた上坂喜美(きよし)さんが、去る7月17日未明に肺がんで亡くなられた。1924年生まれの83歳だった。写真の三里塚反対同盟の故石井武さんと同年だった。この数年体調を崩し、自宅で療養していたが、一ケ月前肺炎を起こし入院され、肺がんが進行し残念ながら亡くなられた。故人の意思で遺体は近畿大学に献体された。家族だけで見送りがされ、葬儀は行われない。関西三里塚闘争に連帯する会・三里塚相談会と関西共同行動などで「偲ぶ会」を行う予定である。
 上坂さんは、1974年、戸村一作反対同盟委員長の参議院選挙出馬での全国組織「戸村一作と三里塚闘争に連帯する会」に参加、大きな役割を果たした。76年に「三里塚闘争に連帯する会」が再編成され、上坂さんが代表に就任した。上坂さんは渋谷や四谷の連帯する会事務所に寝食を忘れて詰め、三里塚闘争の全国化と開港阻止を目指す現地との結合を図り、三里塚闘争の発展に大きく役割を果たされた。77年9月からの「三里塚と全国を結ぶ行動月間」が、関西新空港反対の大阪の泉州から現地三里塚までの行脚として行われ、上坂さんは先頭に立った。全国の三里塚への結集も大きな要因となり、78年3月管制塔占拠を頂点とする開港阻止闘争が勝ち取られた。この日上坂さんは連帯する会の芝山町菱田小学校跡地での大集会の先頭に立った。
 81年フランスのラルザックで開催された「平和のための国際集会」に反対同盟の代表団とともに随行団の団長として参加、更に、82反対同盟青年行動隊から提起された一坪再共有化の運動を、全国の支援に押し広げ、関西でも一坪共有者の会を結成した。83年反対同盟の分裂、中核派の再共有化運動への妨害・支援者への襲撃に対し、テロを糾弾する連帯する会声明を発し、運動が分裂、東峰十字路被告への重罪攻撃など困難な状況を迎える中で運動を支えぬいた。91年からの、成田シンポジウムでは、反対同盟の相談役として最初から最後まですべてのシンポジウムに出席した。
 暫定滑走路開港(2002年4月)に向けた99年10月18日に開かれた「公聴会」には、反対同盟とともに暫定滑走路案に反対意見を述べた。また全国の空港反対運動にも尽力し、反空港全国連絡会の発足に係わり、静岡での第2回反空港全国連絡会の集会にも参加した。体調のため04年7月22日の朋友石井武さんの「石井武の生涯」出版記念会(東京文京区民センター)への参加が東京や現地への行動の最後となった。この日「連帯する会」「廃港宣言の会」などの仲間と、三里塚の反対同盟と実に和やかに歓談された。05年1月関西三里塚闘争に連帯する会旗開きへの出席が関西での集会への参加の最後となっていた。
我々は三里塚へのかかわりは多様であるが、東峰団結小屋として三里塚闘争を闘う形は77年からであり、「連帯する会」への加盟は81年であり、「連帯する会」の運動ではかなり遅れてきた青年だった。私にとっての上坂さんは、「労働情報」の形成の一翼を担う三里塚闘争の代表であり、関西では6月共同行動から関西共同行動へ発展していく共同闘争のリーダーの一人だった。連帯する会に参加するようになり、事務局での議論では新参者だったが、かなり論争になった記憶が多い。91年からのシンポについては、反対する我々に対し、あくまで三里塚反対同盟、三里塚農民の選択の尊重と我々の時代の変化に対する鈍感さに厳しい意見を寄せていた。関西の連帯する会として、全国の代表として毎回のシンポへの傍聴をお願いする形で折り合ったのだが、最後まで毎回出席され、現地の報告を我々に届けてくれた。連帯する会活動でも、労働組合や地域の連帯する会、市民の参加などを常に大事にされていたことは、尊敬してきた。
個人的には、治療を担当したこともあり親しくしていただいたが、一緒に歩いていてすぐ離されてしまう、上坂さんの健脚ぶりにはいつも感心した。フランス語の学習をしていると聞いた時も、社交ダンスの話も、今は上坂さんのシャイなところを思いだすばかりだ。
常に三里塚闘争に献身された上坂喜美さんに、心から哀悼の意を表します。


東京高裁の抗告棄却決定への抗議声明
  
私たちは東峰の森に入会い続ける

 私たちは怒っている。憤っている。
 「切ったらもう取り返しがつかない。せめて高裁の決定を待つべきではないか」。私たちの再三の申し入れを蹴って、四月下旬から、空港会社は森の伐採を開始した。数千万数万の木々や竹がなぎ倒され、森の中心部分はぽっかりと空に穴をあけた。何ヘクタールもの大地が削られ裸のままうめいている。残余の森もすべてがフェンスと網で囲われ、私たちは立ち入りを拒まれている。
 この腹立たしい現実、国と空港会社の蛮行に対して、東京高裁は、敢然と司法としての役割を果たすのではなく、空港会社のだまし・詭弁を積極的に擁護、追認し、六月十二日になって私たちの即時抗告を棄却した。

 一審千葉地裁の決定は、重大な事実認定の誤りの上に成り立っていた。それは、「本件森林の存在する本件土地が空港建設の当初の計画段階から空港施設の建設予定地に含まれていた」と認定し、だから、「東峰区と相談することなしに、森について一方的に計画を策定し進めていくことはしない」などという部落との重大な約束を空港会社(旧空港公団)が本気で結ぶはずがないというものであった。東京高裁は、私たちの抗告理由を認め、その認定部分二行を削除した。が、おかしなことに、その誤った事実認定の上にできた、「森林保全の契約が成立したとは認めがたい」という判断と理由については全文を維持したのだった。
 そして事実認定の破綻をとり繕うために、部落との約束や謝罪の内容を破ったとしても、それは「新たな事情変更によるもので、これをもって相手型の違約ということはできない」と強調した。それも「(空港側に)何らかの変更が生じた場合には当然見直される余地があることは、事柄の性質上、当事者間において暗黙の内に予定されていたというべきである」など、斟酌できるはずもない私たちの暗黙の内面をでっちあげてまで誤った決定を支持したのである。

 約束や契約は両者が了解しあって成立するもので、『一方に不都合が生じれば独断でそれを破ってよい』ということは、世間では通らない。これが通るなら、いかなる約束や契約も後では強者の都合のいいようにされる仮のものにすぎなくなる。司法がそのような言い分を認め擁護するとすれば、法の下の平等や正義は、いったい誰が保障するというのか。
 二千五百メートル滑走路の成否とは別に、空港周辺緑化計画の一部として東峰の森が残されるということがあって初めて、部落と空港公団との共同管理が成り立ったのだった。そうでなければ、誰が十年もかけ私財や労働力を投入して荒れ藪を少しずつ刈り、人が通れるようにし堆肥用落ち葉がたまる場所にしたりするものか。
 そもそも、滑走路の北伸、元来の空港計画地外の滑走路や誘導路の策定は、まったく一方的な国や空港会社の都合によるもので、最低限必要とされる「地元との話合いや合意形成の努力」を投げ出して強行されたものである。新誘導路の必要性も、それがどうしても東峰の森を通らねばならないという必然性についても、私たちには何の説明もなく、裁判で立証されたわけでもない。国と会社で新誘導路を決めた、決まったというだけではないか。

 さらに私たちを腹立たしくさせるのは、事情変更を強調するために、この十年来積み重ねられた部落との約束や、黒野匡彦社長名の謝罪(「東峰区の皆様へ」二〇〇五年五月四日)などについても、ただただ住民を慰撫するためのものでしかなく、空港建設のためにはいかなる嘘や欺まんも許されるかのような主張を空港会社が公然と行い、裁判所もそれを追認したことである。そこまで言うか。そこまで言っていいのか。目先をとりつくろおうとする余り、国と空港会社はその本質的な部分を露呈し居直りをきめこもうとしている。
 しかし、そうした国や空港会社の無責任で行き当たりばったりの事情変更の被害は、彼らにではなく、私たち部落住民の側にふりそそぐのだ。あの広大な森の約半分が伐採されれば、雨は濁流となって流れ、のちには渇水状態となって周辺の土地や井戸が枯らされることは目に見えている。様々な影響や被害は、非道悪政を行う側ではなく、弱者住民の側が否も応もなく引き受けるのである。当初計画にはありえようも無かった「暫定B滑走路」のために、私たち東峰部落住民は頭上四十メートルを飛ぶジェット機の轟音と墜落の不安に日夜さらされている。

 しかし、そのような理不尽な現実に私たちは決して屈しない。理不尽な決定を私たちは決して許さない。私たちはこの地に暮らし続けている。森と私たちの暮らしは、どんなに切ろうとしても切り離されることはない。六十年前、私たちの父母先達が開墾した土地の隣に森が有ったのではない。森を開墾しその中に東峰部落が生まれたのだ。
 私たちは東峰の森に入会い続ける。
 右、声明する。 
二〇〇七年(平成十九年)六月二三日

成田市東峰区(東峰の森保全仮処分訴訟原告団)
仮処分訴訟弁護団


矛盾に満ちた関西空港二期開港

三里塚では、暫定滑走路北進工事開始に伴い、東峰の森に新誘導路を作るため、工事を強行することに対しての「現状変更禁止」仮処分申請について、東京高裁は、6月12日抗告を棄却する不当な決定を行った。東峰区の住民原告と弁護団は抗議の声明を発表した。(別途掲載)
暫定滑走路北伸、新誘導路建設による、東峰地区住民への追い出し策動に対し反対を強めよう。
一方関西では、8月2日、2期工事の第2滑走路の供用が強行された。94年の開港から13年である。99年年間16万回の発着で限界となると強弁し、工事を開始していたものである。04年には財務省と国交省が密約で13万回程度と下方修正し強行してきた。昨年は11万5千回弱でしかない。更に、「陸上ルートは無い」との開設約束も、98年の離陸時の「陸上ルート」強行導入に続き、着陸時の陸上ルート導入を今年度中にも強行しようとしている。泉州沖に空港をつくらせない住民連絡会は、同日関西国際空港会社に講義の申し入れを行った。更に財務・国土交通大臣に対しての抗議申し入れを行った。
強まる全国の空港建設、いづれも軍事利用に繋がる空港建設に対し反対を強めよう。11月23・24日の反空港全国集会に全国の闘いを結びつけよう。
(関西東峰団結小屋 渡邊)

7・28
 第14回統一マダン東京
   民族和解の前進受けて

 第十四回目を迎えた統一マダン東京は、いくつかのアクシデントに見舞われながらも成功裏に開催された。当初七月二十九日に予定されていたが、安倍の勝手な思惑で突然参院選が一週間延び、開催日程も会場も定まらない状態に置かれていたが、主催者の実行委員会と荒川区との粘り強い交渉で、前日の二十八日開催となった。土曜日に初めて行われたばかりではなく、参院選最終日ということで幾分例年より参加者が幾分少なめに思えた。
梅雨明け前であったが天気には恵まれ、再開発で今年が最後になりそうな荒川区の旧真土小学校校庭には、メインの舞台や参加民族団体や民主団体の出店、そしてこの五月に開通し、現在試験運転が行われ軍事境界線を越えて運行する二本の鉄道の写真パネルが展示されている。
光州のマダン劇団ノリペ・シンミョンが参加するオープニング・プンムルでマダンの幕がきられ、ヤン・ビョンヨン韓統連東京本部代表から開会挨拶が行われた。南北間の鉄道開通に象徴されるように、朝鮮半島の統一、民族和解は着実に前進している。また六者協議の進展により、平和なアジアの実現に向け民衆の連帯運動は力強さを発揮している。それにもかかわらず、アジアの歴史と民衆に背を向け憲法改悪を突き進む首相安倍に対し、会場内からも翌日の選挙で自公を追い詰めようという声が怒りを込めて上がった。
プログラムは、東京朝鮮第一初中級学校生徒の民族舞踊やテッコンドの演武、韓国民衆歌謡、マダン劇そしてノリペ・シンミョンのパンソリなどが行われ、おいしい食べ物と飲み物を味わいながらの楽しくも、平和と統一、差別のない社会を誓い合う一日であった。
最後に部落解放同盟東京都連の藤本忠義副委員長が、閉会の挨拶をおこない、日韓日朝連帯と共に来年の再会を誓い合った。(東京A通信員)