労働契約法案、時間規制適用除外を粉砕し
  「労働法制国会」に勝利しよう

 一月二五日、厚生労働省は労働政策審議会労働条件分科会に、「労働契約法案」と「労働基準法一部改正案」の二つの法案要綱案を諮問した。これは、昨年十二月二七日に労政審が政府・厚労省に提出した最終報告「今後の労働契約法制及び労働時間法制の今後の在り方について」という答申に基本的に沿い、法案要綱化したものである。
 このかんの労政審審議での経営側委員や厚労省事務局によるホワイトカラーエグゼンプション(WE)、労働時間規制適用除外の導入策に対しては、すべての労働団体の反対が強まり、十二月から一月にかけてマスコミと世論においても「残業代ゼロ法案」は問題だという声が急速に大きくなった。これにより与党公明党が法案提出に慎重論となり、安倍首相と自民党においても「世論にまだ理解されていない」などとして、つまりWE導入は正しいのだが七月参院選挙では不利になると政治判断して、提出先送り論が出されている。こうした情勢が生まれたのは、かねてから「過労死促進法案」反対などの闘いを進め、拡大してきた労働運動の仲間たちの成果である。
 こうした中で、一月二五日の法案要綱案がWEを含めたものになるのかどうかが注目されていたが、それは含めたものであった。厚労省は、政府・与党の及び腰を叱りとばしている日本経団連などのWE導入断行の意図を受け、労働時間規制除外にきわめて執拗な姿勢をあらわにしたのである。
 厚労省としては、WEを含めた労働法制関連の諸法案の全体を、ともかく国会提出ができるように仕上げておきたいとするものであるが、WEを含めた労基法改定要綱案が労政審で簡単に承認されるわけがなく、開会した国会を横目に、しばしにらみ合いが続きそうだ。今後労政審が、年末二七日に労働側委員の反対を無視して(反対意見もあった、と付記しただけ)最終報告を強行した時のように、要綱案を強行承認すれば反対運動はますます拡大するだろう。
 政府は今のところ、労働契約法案やパート法改定案などは提出するがWEは先送りするとしているが、WEを含んだ諸法案が全体として準備されている以上、予断は許されない。三月中旬の法案提出期限までは、WE阻止の声を緩めてはならないだろう。
 二五日に示された労働基準法一部改正案要綱は、WEについては、最終報告での「ホワイトカラー適用除外」の文言を「自己管理型労働制」と言い換えただけで、このかんの広範な批判を何ら考慮していない代物である。その適用対象としては、最終報告と同じく「年収が相当高い者」等としつつ、また「管理監督者の一歩手前に位置する者が想定される」などとしている。現行法でも、名ばかりでも課長になったら残業代無しという由々しき問題が一般的にあるが、課長代理や係長にもそれを広げるつもりか。
 その年収水準は、いぜん明記せず「厚生労働省令で定める」としている。このかん財界は400万以上と求め、それではあまりにも適用範囲が広がるので政府は900万以上と政治対応するなどデタラメであり、結局法律であいまいにしたまま省令で勝手に範囲を拡大していくつもりである。
 WE以外の労働基準法関係(時間外割増率など)の改定については、財界がWEとの交換条件であるかのようにして強く反対しているが、長時間労働を撲滅する観点からWEと切り離して改正されなければならない。時間外五〇%以上、政省令ではなく法案明記を要求する。
 また、裁量労働制の拡大についても法案要綱は、最終報告同様、「中小企業については、現行での対象業務以外も含めた全体について、企画業務型裁量労働制を適用できる」としている。裁量労働制拡大とWE導入との二本立てで、残業代無しの長時間労働を合法化せんとしている。
 
 パートタイム労働法の改正については、厚労省は一月十六日に「短時間労働者の雇用管理の改善等に関する法律改正案」要綱案を労政審機会均等分科会に諮問し、労政審は早々とこれを承認して、パート法改定案の国会提出の用意が整っている。
 このパート法改定案の問題点は、第一に、パート労働者と正規労働者との「均等」待遇ではなく、あくまで「均衡」待遇を基調として同一労働同一賃金の原則をいぜん無視していること。
 第二に、差別的取扱いを禁止するパート労働者の範囲を、「通常の労働者と同一の短時間労働者(「職務同一短時間労働者」という)であって、期間の定めのない労働契約を締結しているもののうち、通常の労働者と同様の態様及び頻度での職務の変更が見込まれる者」とし、きわめて狭く限定している。この契約反復更新でなく、かつ広範囲での転勤も可能という禁止規定での要件では、パートというより短時間正社員であり、全パート労働者の1%しかいないとも言われている。
 なお法案では、「期間の定めのない労働契約には、反復更新によって期間の定めのない契約と同視することが社会通念上相当と認められる有期契約を含む」とも記されているが、「相当」かどうか現場の力関係にまかせており、実効性がないと言わねばならない。
 第三に、法案が言う「職務同一短時間労働者」のほとんどと、(法案が想定する)職務同一でないパート労働者とについては、「通常の労働者と同一の方法により賃金を決定するよう努める」という努力規定でしかない。(また法案に対して、正社員的パート、一般の職務同一パート、それ以外のパート、というようにパートを三段階に分断し、差別を固定化するものとなるという批判もある)
 このように、今回のパート法改定案は、全労働者三分の一を占めるパート労働者の処遇改善に実効性をまったく欠くものであり、法案作りの出直しを要求すべきものである。

 労働契約法案については、現在の政府・財界が進めている労契法案についてマスコミや世論の関心はいぜん低く、労働運動全体についても、その危険性を指摘し明確に反対する声は多数派にはなっていない。
 現在の労働契約法制定の策動は、「就業規則の変更が合理的なものであるときは、労働契約の内容は、変更後の就業規則に定めるところによるものとする」(最終報告)としている点に核心があり、過半数を組織する労働組合がある場合でも、労働組合を就業規則の追認機関に落とし込めるものである。そしてまた、少数派の労働組合については、また組合がない職場では、就業規則とその変更が一方的に押しつけられるだけという事態が法的に承認されるということになってしまうのである。
 この少数派組合の排除という狙いは、長年、労働組合法の改悪として策動されてきた。しかし昨年、政府の規制改革・民間開放推進会議が労組法改定を一応あきらめた報告を出したように、労働基本権の公然たる侵害には現行憲法の壁がある。そこで迂回した形で、労働契約法が出てきたと考えられるのである。労働組合の全面否定というべき法案であり、未組織職場にとっては「ないよりあったほうがよい」法律などということはできない。少数で組合を結成しても意味がないよ、という事態が法的に固まってしまう。
 二五日に示された労働契約法案要綱は、最終報告と若干の違いがある。法案要綱では、最終報告で言う「就業規則の変更が合理的であるとき」とはどういうことを指すかについて、「変更後の就業規則を労働者に周知させ、かつ、就業規則の変更が、労働者の受ける不利益の程度、労働条件の変更の必要性、変更後の就業規則の内容の相当性、労働組合等との交渉の状況その他の就業規則の変更に係る事情にてらして合理的なものであるとき」という、判断基準を新たに記している。この就業規則変更の合理性判断基準は、これまでの判例以下かつアイマイであり、きわめて問題である。
 なお、最終報告には検討事項として残っていた「解雇の金銭的解決の仕組み」については、労働契約法案要綱では削除された。

 労働契約法の危険性については、昨年十二月二十一日、労働法学者の三十五名(中央大学の角田邦重、毛塚勝利、大阪市立大の西谷敏らの法学教授)が連名で、現在進められている内容での労働契約法作りに対して強く反対する声明を発表していることからも明らかである。この声明『禍根を残す就業規則変更法理の成文化〜契約原理に反する労働条件変更法理の固定化は避けるべきである』は、次のように訴えている。

 「ホワイトカラー・エグゼンプションや解雇の金銭解決等が社会の関心を呼んでいるが、労働契約法を整備するうえでもっとも重要な論点ともいえる労働契約の変更問題については、就業規則によって労働条件の変更を認める法理が、大きな争点となることなく条文化されようとしている。」
 「使用者が一方的に作成する就業規則による労働条件変更の条文化は、使用者による一方的な契約内容の形成を認める法理を法的に肯定しようとするものである。確かに、合理性の要件を前提として就業規則による労働条件変更に法的拘束力を認めるというのが最高裁の判例法理ではある。しかし、この判例法理は、労働契約関係における契約内容調整のツールがなかったために採られた方式であり、その理解の仕方についてもいまだに一致した見解を見出せない状況にある。それゆえ、労働契約法の制定作業において何よりも必要なことは、現時点においてそのような判例法理を立法によって固定化することではなく、理論的・実務的妥当性に耐えられる契約内容の変更法理とその手法について検討を深めることでなければならない。」
「たとえ合理性の要件に制約されるとはいっても、使用者による一方的な労働条件の決定、すなわち、契約の一方当事者による契約内容の変更を認める法理は、契約法としてはきわめて特異であり、契約原理に悖るものといわざるをえない。」「報告案に提示されている変更の合理性判断基準も、労働条件の性格の相違にいっさいの配慮することがなく、これまでの判例法理による慎重な利益衡量に比較して効率的処理を優先させるだけのものとなっている。」
 「これでは今後の労働法の柱のひとつとなるべき労働契約法の発展を歪め、契約原理に死を宣告する契約法になりかねないとの危惧を抱かざるを得ない。将来に禍根を残さぬよう熟慮、再考を促したい。」
 
 なお、以上の労働法学者声明にある「判例法理」とは、秋北バス事件最高裁判決(68・12・25)をはじめ、大曲市農協事件(88・2)、第四銀行事件(97・2)の最高裁判決などを指すと思われる。秋北バス判決は、就業規則の変更によって労働者の不利益になる変更は原則としてはできないとするもの。後二件の判決は、不利益になる変更であっても合理性があるのはどういう場合か、という判例である。
 ややっこしい話しであるが以上のように、「就業規則変更の合理性」というのが一つの論点になっており、最終報告では、「就業規則の変更による労働条件の変更については、その変更が合理的なものであるかどうかの判断要素を含め、判例法理に沿って、明らかにすること」とされ、法案要綱でそれが「明らかに」されたという形である。そこで人によっては、秋北バス判決の原則を法案に明記すべきだという批判の仕方(法案修正要求?)もありうるのである。
 しかし本来、われわれ労働者が目指すべきは、就業規則をすべて労働協約に取り替えることだ。労働者にとって有益な労働契約法はもちろんありうるが、対等な労働契約を実現するものは結局は法律ではなく、労働者の団結した実力である。そのような立場からの法案批判が必要だ。(A)


「労働法制国会」を闘おう1・24集会
  WE導入反対をゆるめず
  長時間労働の現状変革へ

 国会開会直前の一月二四日、東京の総評会館で、日本労働弁護団の主催によって「『労働法制国会』を闘おう!」集会が開催され、労働組合員や弁護士など約一五〇名が参加した。
 最初に、日本労働弁護団の鴨田弁護士が基調的なあいさつを行なった。鴨田さんは、「会場が若干寂しいのは、WEを政府があきらめたなどと報道されているからではないか。けっしてそうではない。今こそ力を入れて闘うべきときだ。WEについては、それだけが問題なのではない。現在の管理監督者除外、裁量労働制、WE、それら全体を一括して問題にしていくべきだ。」「労契法については、現行の過半数代表制が機能せず、過半数労働組合が存在する事業所が6・7%にすぎない現状を変えることが前提ではないのか。現状では『判例法理の合理性』が満たされたとしても、実効に欠ける。」「『残業代ゼロ法案』と言うだけでは闘えない。残業代が出るなら、いくらでも働くというのか。WEを阻止しても、より悪くなるのを阻止するだけなのであり、長時間労働の現状を変えていく闘いこそ必要だ」と訴えた。
 労政審労働側委員の小山さんは、「明日の労政審には、WEを含んだ要綱案が出るだろう。気をゆるめたら敵の思う壷だ」と報告した。
 全労協、全労連などから、また民主党、社民党、日本共産党の各国会議員からの連帯挨拶が行なわれた。
 討議では、WEと切り離して労働契約法案が出てきた場合、反対運動の状況がどうなるのかを危惧する意見も少なからず出され、有益な集会であった。日本労働弁護団は、この集会スローガンにもあるように「役に立つ労働契約法を」という立場であるが、現在の労契法の狙いは何か、など共に闘いながら討論を続けるべきであろう。
 翌日二五日の労政審に対しては、多くの労働団体が厚生労働省前で抗議行動を行なった。「労働法制国会」を闘い、勝利しよう。(東京W通信員)


日本経団連「御手洗ビジョン」「07年労経委報告」を評す
  成長戦略で格差克服のペテン

 新年そうそうの一日、御手洗富士夫(キャノン会長)会長の下の日本経団連は、今後十年を見据えた将来構想「希望の国、日本」(いわゆる御手洗ビジョン)を提言した。
 これは、企業も日常的に日の丸を掲揚し、国歌を斉唱することを提唱し、愛国心の強調や憲法改悪などをうたっている。安倍反動政権を全面的にバックアップしている。
そして、財政再建については、二〇一一年度までに消費税を2%程度上げて、基礎的財政収支(プライマリーバランス)を黒字に転換させ、更に二〇一五年度までに消費税率換算で3%程度の増税か、社会保障以外の歳出の年4・6%削減かのいずれかを選ぶべきとしている。だが、他方では、企業の国際競争力を維持することを名目に法人税の実効税率を10%ほど下げて30%程度に下げることを求めている。これでは、法人税を軽減するために消費税をあげると批判されても仕方がないであろう。
 そもそも、アメリカのニューヨーク市・ロサンゼルス市とか、ドイツなどは、今の日本程度(やや上回る)の法人税率である。そのうえ、国際競争にさらされる企業は限られている。また小泉政権時代にすでに研究開発・IT減税などがなされており、すでに「実行税率は24%程度になっている」との見方もある(『朝日新聞』昨年11月28日付)。それよりも、法人税を納付していない法人が多数であるという現実を変革するほうが優先されるべきであろう。
 御手洗ビジョンは、技術革新や経済改革を徹底化すれば、年平均で名目3・3%、実質2・2%の経済成長ができるとしている。これは、今、各方面から非難されている格差拡大問題に対し、所得再配分など平等政策の要求をかわすために、経済成長をつうじて克服すべきだ、という姿勢が根底にあるからである。
 だが、高度成長時代の教訓が示すように、結局、経済成長によっては、格差問題は克服されなかったのである。経団連や安倍政権の経済成長政策は、新自由主義による弱肉強食路線が格差問題を深刻化させていることをごまかすための方策でしかない。支配階級は不平等問題に対しては、全くの無策であり、それどころか企業優遇・金持ち優遇によって、事態をますます深刻化させているだけである。
 こうした経団連の姿勢は、今年の春闘においても明白である。経団連は、「激化する国際競争の中では競争力強化が最重要課題であり、賃金水準を一律に引き上げる余地はない」、「個別企業レベルにおける賃金決定は、自社の支払能力を基本として、個別労使で決定すべきである」(十二月十九日の2007年度版『経営労働政策委員会報告』。以下、『委員会報告』と略)といって、各企業の賃上げの否定あるいは抑制に必死となっている。
 資本家たちが弱肉強食路線をしゃにむに推し進め、格差拡大に冷淡なのは、この間の労働法制の立て続けの改悪にあきたらず、さらにホワイトカラー・エグゼンプションの導入や偽装請負の合法化などの策動でも明らかである。まさに悪知恵は、尽きることがない、という状況である。
 このことは、組織された労働者、未組織の労働者にかかわらず、すべての労働者にとって、最も重要な課題である最低賃金制においても、みることができる。『委員会報告』は、この最低賃金制度について、「全国の労働者の賃金面でのセーフティ・ネットは地域別最低賃金制度で担保されている。したがって、地域別最低賃金に屋上屋を架す産業別最低賃金などは廃止すべきである。」と述べている。
 この態度は、まず第一に、企業の枠にとらわれない産業別労組を敵視することに他ならない。
 ある産業ないし業種の労使の労働協約によって約束された最低賃金がその産業ないし業種の法定最低賃金になることは、当たり前のことなのであり、それを地域最賃によって代替することはできない。それを地域のなんらの事情で引き下げるとするならば、それは産業別労組の社会的役割を否定し攻撃するものである。
 それは、日本独特の企業内労組を維持し、企業の枠にとらわれない個人加入制の労組の発展拡大に敵対する本音が露呈したものである。現に『委員会報告』は、「『日本的経営』の再評価・再構築」の項で、正規労働者の「長期雇用」とともに、「個別企業に基礎を置く『企業内労使関係』」を重視している。
 第二に、現行最低賃金制の致命的欠陥については、全く沈黙していることである。
現行最賃法は、もともと「業者間協定」による賃金を最低賃金として立法化した。だが、最低賃金制度は、元来、資本家だけの協定では労働者の生活が保護できないから、労資間の協定、あるいは労資に中立代表も加えてなされた協定に基づいて最低賃金が法定化される仕組みとしたのである。このような国際的常識と真っ向から異なるものが、「業者間協定」の項目(ニセ最賃)である。これは、さすがに一九六八年に削除された。しかし、この「業者間協定」という考え方と密接な思想としての「企業の支払能力」論は、文言として残された。すなわち、最低賃金法第三条「最低賃金は、労働者の生計費、類似の労働者の賃金及び通常の事業の支払能力を考慮して定めなければならない。」である。
 最低賃金を決定する際に、考慮しなければならない条件の一つとして「通常の事業の支払能力」を入れると、賃金格差は、とりわけ重層的な下請け構造をもつ産業を中心に、永遠に「格差と分断の重層的賃金構造」はなくならないであろう。現に、これまでも無くなってはいない。というのは、とりわけ中小零細企業がより上位の発注企業の収奪を受けて、そのしわ寄せを「自らの企業存続」を大義名分にして、自らの中小零細企業の労働者に押しつけることが許される構造になっているからである。企業の社会的責任に関しては、憲法第二五条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、いわゆる生存権の保障も含まれることは当たり前のことである。零細企業の資本家であれ、この点をないがしろにすることはできないのである。
 こうした制度的欠陥を放置したままでは、いくら経済成長を実現しようとも格差が是正しないのは、理の当然である。これは既に、高度成長時代が証明していることである。
第三は、最低賃金法だけに限らないが、日本の法治主義の決定的限界にかかわることである。元日弁連会長だった中坊公平氏によると、日本の司法は「二割司法」だという。かつて日本の自治体は「三割自治」だと言われたが、それ以上にひどいのが日本の法治主義である。日本社会では「法の支配」は、たったの二割でしかない、というのである。
 このようなお粗末さは、最低賃金法でもいえる。中小零細企業では、最賃法以下である、という言葉は以前からしばしば耳にしてきた。最近では、悪辣にも、外国人研修生を最賃法以下で酷使して、雇い主に対する殺傷事件も報じられている。それだけではない。九〇年代半ばからのリストラ・首切りとともに、首切りを免れた労働者も労働密度が倍化し、サービス残業(不払い残業)が大企業でも常態化している。
 サービス残業も、明白に法律違反である。労働基準法違反であるだけではない。ある意味では、最賃法違反でもある。すなわち、残業代が払われない場合、残業時間も含めた全労働時間によって賃金額を除するならば、最賃法以下になるケースは、しばしば発生するからである。最低賃金制度が、組織労働者にも深くかかわっていることの一つの例示である。
 だが、経団連は、現行の最低賃金制の致命的欠陥については黙して語らず、である。(T)


東京、大阪で「レイバーフェスタ2006」
  「労働ビッグバン」に対抗文化

 「レイバーフェスタ2006」が同実行委員会の主催で昨年十二月十七日、東京ウィメンズプラザにて開かれた。「労働」を観よう・聴こう・話そう、をスローガンにしたレイバーフェスタは今回で五回目、参加者は二百名と例年より少なかったが、若い人が目立った。
 第一部のドキュメンタリー映画『出草之歌』は、靖国神社に祀られた祖先の霊を取り戻そうとたたかう台湾原住民を描いた映画である。昨夏、「平和の灯火をヤスクニの闇へ」キャンドル行動をたたかったチワス・アリさんが、「日本人は二度台湾原住民を殺した。はじめは台湾を侵略した時に。二度目は皇民化教育により原住民の若者をアジア侵略に駆り立てた」と語る。文字をもたない原住民にとって、歌はたたかいの文化でもある。哀愁を帯びた歌に力強さを感じた。
 第二部は音楽。教育基本法改悪反対を叫んで国会前で歌い続けた「ヨッシーとジュゴンの家」の歌は、ストレートに政治批判をしたもの。その心底からの怒りが会場を圧倒した。レイバーソングDJも、労働の歌をさまざまな方面から集め好評だった。
 第三部は映像コーナー。恒例の「3分ビデオ」では22作品が上映された。偽装請負やフリーランスの生活、規制緩和された職場の実態が表現された。
 最後に実行委員長の伊藤彰信さんが、「日本はアジアの人々の犠牲の上に平和憲法を手に入れた。今、アジアから日本を見つめ直そうという企画だった。また労働ビッグバンは、労働者を商品として市場原理の下に酷使することだ。一人ひとりの命、生活、生き方を大切にした文化をつくっていこう」と述べ締めくくった。
 また大阪では十二月九日、「レイバーフェスタ2006OSAKA」がエルおおさか南館で開かれ、前回を越える百数十人が参加。
 3分間ビデオでは、関西からのもの十本などを上映。現在、会社解散争議中の『京ガス闘争100日〜ついに職場占拠へ』上映では、当該の仲間(洛南地域合同)の挨拶と激励が行なわれた。
 メイン映像はケン・ローチの『ブレッド&ローズ』。海外ドキュメンタリーでは、外国人追い出しを描くフランスの『すべては消えろ』などが上映された。また、在日ベトナム人少年によるラップ、「いこ☆る座」の寸劇など内容盛り沢山であった。
 レイバーフェスタは大阪では三回目であるが、定着し参加者も増えてきているようだ。(東京K通信員)


教員放逐をねらう免許更新制
  四月「全国学力テスト」実施も許すな

 教育再生会議は一月二四日、安倍首相に第一次報告を提出した。これを受け首相は、通常国会に、教員免許法・地方教育行政法・学校教育法の三つの改定案、教育関連三法案を提出すると表明した。これは、昨年強行成立した改悪教育基本法を教育現場に適用しようとする攻撃である。
 第一次報告の主な内容は、@「ゆとり教育」の見直しと学力を向上させるための授業時間10%増加、全国学力テストの実施、Aいじめと校内暴力を許さない学校をめざし、子どもの出席停止制度を活用する(前回は明言をさけていた内容)、B不適格教員を教壇に立たせないことを目的に、教員免許更新制の導入、C教育委員会の在り方を抜本的に問い直す、等である。
 今国会での教育三法の改定は、これらの主旨にのっとって行なうとされている。地方教育行政法改定は、教育委員会の制度的見直しを行ない、各自治体の教育委員会への国の指導指針などを明確にし、教育への管理統制を強めるものである。学校教育法改定は、ゆとり教育を否定し学習指導要領の改定等をねらったものである。
 全国一斉の学力テストはすでに、今年四月下旬に小学校六年と中学校三年で実施すると決められている。各校は、学力テスト日と重なった修学旅行等行事の日程変更をすでに終了しているといわれる。全国学力テストは、イギリス等が実施しているように学校のランク付けを行ない、バーチャル制導入に道を開くものである。子どもたちを競争のルツボに投げ込む許すことのできない制度である。愛知県犬山市の教育委員会が学力テスト不参加を表明し注目されているが、小中学校に国家公認の偏差値を付けるなどまことに異常であり、不参加で当たり前だ。「全国学力テスト」の実施を許してはならない。
 教員免許法改定による免許更新制は、「教員としてのモチベーションを高めることと、結果としての指導力不足教員を浮かび上がらせること、この二つの要素がある」と主張されている。つまり、競争主義と軍国主義の教育に反対する教育労働者を「不適格教員」として現場から放逐することをねらっている。子ども一人ひとりとていねいにつきあい、生き方を考え合っていく教育、民主社会の構成員としての資質を育成する教育とは無縁の法案である。
 教育再生会議の報告が、子どもの内面に届く教育ではなく、出席停止等表面的な対応に終始しており、子どもの幸せを何ら考えない人々によるものであることを見過ごしてはならないだろう。その報告に基づくとされる教育三法改悪案などは、全力で阻止しなければならない。(教育労働者U)