生活保護改悪−向かっているのは基準額引き下げ
  生存権確保が全人民の課題に

 小泉政権から安倍政権へと、新自由主義にもとづく格差社会、社会保障の切り捨ては継承された。年金や国民健康保険の「改革」、地方への財源委譲の「三位一体」の改革といった環境の中で、今年はついに生活保護にメスがふるわれようとしている。
 言うまでもなく、生活保護は、憲法の「生存権」を支える最後のセーフティーネットであり、最低限の生活をすべての国民に保障するものである。それが減額されれば「食べていけない世の中」がうまれるのは必定である。
昨年は社会保障で言えば自立支援法が施行された年でもあった。応益負担の名の下に、障害者へのサービスが有償化され、大きく再編された。社会保障の切り捨てに反対する闘いは、この法律へのたたかいが重要課題であった。
 これからは、それに加え、生活保護切り捨て反対が極めて大きな課題となることは、どうやら間違いなさそうである。本稿では、その実態を、報道されたものをもとに、まとめてみたい。
 生保削減のもくろみは、直接には「三位一体」の改革に当たって、税源の地方への移譲が伴わない国支出の削減の影響が大きく、音を上げた知事会、市長会の有識者会議である「新たなセーフティーネット検討会」が厚生労働省に昨年九月に提言した内容にもとづいている。
 そのなかでは、どういうことが語られているか。まず、今年、予算化される見通しのものをあげると、第一に母子加算の見直しである。これは、十五歳以下の子供がいる一人親家庭の受給者に支給されていた加算金を一律に削減しようと言うものである。これは、一人親家庭の生保受給者と、勤労する家庭とを比べたもので、一人親家庭の受給者は働かないことが常態化しやすい、という勤労世帯のひがみをたくみに利用している。逆に就労支援には手厚いサービスがほどこされる。
 もう一つは、リバースモーゲージとよばれる方式である。これは、いまのところ高齢の受給者が対象だが、持ち家に住んだまま受給している人の家を担保とし、現金を貸し付け、担保割れまで生保をはずれてもらうというもの。これは、生保受給者の持ち家が相続されるのを防ぐと共に、現在一定の評価額まで持ち家での生保受給が許されているのを、将来、一切認めないという方向に道を開くものではあるまいか。
 これらをうけて、政府は今年、400億円の削減をみこんでいる。一人親家庭や高齢者には災難だが、おそろしいのはむしろ来年以降である。
 母子加算の廃止やリバースモーゲージの導入は、受給者のうち「弱い環」を直撃するものだが(すでに、老齢加算は段階的に廃止されている)、受給者に一律の給付減をもくろむいくつかの意見が現実化しつつある。そのひとつが、基準額の見直しである。生保は基準額に母子加算、障害加算といった加算が上乗せされるものだが、共通する基準額を一挙に下げようという、根本的ともいえる目論見が表面化している。
 基準額を下げる論理は、基礎年金が低いことを棚に上げつつ、生保基準額が基礎年金額を上回っているのはけしからんとする論理である。ある民主党の議員が、(年金が生保を下回ると言うのは)「モラルハザード(道徳の崩壊)である」と言ったという。
 これはとんでもないモラルである。働いてたべていくこと以前に、働けようと、あるいは働きたくても働けまいと、またあるいは働けないので働かないという生き方を選択しようと、等しく生存権を保障されることこそがモラルというものである。
 それを保障する制度が生保であり、げんに生保は最低限の生活に必要な金額を、費目ごとに積み上げて、基準額を定めている。これを削減すると言うのは、論理矛盾であり、そもそも削減しようのない最低限として算定されているのである。また、年金は実際上財産の所有が前提ともいえるものであり、それとすべてを保護費に頼らざるを得ない生保を比較するのは、これまた、さきほどの民主党の議員のような、ひがみ根性を動員するものである。
 基準額の引き下げに関して、もうひとつ、地域格差の廃止ということがあげられている。これは、物価などによって、基準額が三段階に区分されているのを、もっとも低い額にあわせるというもので、たとえば東京の受給者だと1万以上の切り下げになる。これはかなりの受給額減である。
 また医療費、住宅扶助にも改悪の手が及んでいる。医療費は現行、生保取得者は無料であるが、これを一割負担にしようと言うものである。これは、とくに障害者をはじめとする、疾病のため働けない人の首を絞める行為である。また、住宅扶助は、とくに大都市で高い家賃を払って暮らす受給者には大変大きな痛手である。
 このような、多岐にわたる生保削減が、知事会・市長会の有識者会議という、地方の側の主導で出されてきたことは、いままで、地方が国の社会保障削減のいわばクッションとしてはたらいていた側面もあったのを、財政改革があればあっさりと、国に削減を提言する側になってしまうということを暴露する好例でもある。そして、ついに生保基準額の削減が取り沙汰されていることに見られるように、これは、あってはならない飢餓社会の本格的到来を意味するものである。
 しかし、生保改悪は、こうした答申によって始まったのではなく、もうすでに始まっている。
 現在、生保受給者は格差社会のなかで急増をつづけ、140万人にものぼっている。その中で叫ばれているのは、これ以上受給者を増やすな、という窓口への至上命令である。これは、担当職員のあいだで水際作戦などとよばれ、実際、新規の受給者の感覚は、「ものすごく大変だった」というものである。たとえば、生保の申請書を書かせない、親族による扶養を強制する、就労を強制するなどなど、現に生活に困っていれば支給する、と言う原則が崩れつつある。その最たる例が、北九州市の例である。
 北九州市は当時の厚生省のもとで、保護率を抑制、相談に行っても保護には結び付けさせない施策をとり、政令指定都市で保護率は最低である。その北九州市では、ひとりぐらしの身体障害者の男性が、ガスと水道を止められ、自宅で脱水症状になって、かけつけたケースワーカーに生活保護を申請したのに「職権保護」を発動せず、(兄弟がいるからと言う理由で)ついには餓死にいたったという悲惨な事態をまねいた。ほかにも同市では餓死者をだしている。(朝日新聞2006年7月16日より)
 これは厚生省の指導の結果招かれた事態であり、つまりは生保改悪後の日本の姿そのものである。相談に福祉事務所を訪れれば、働け、と追い返され、生保を、と求めれば親兄弟に養ってもらえと拒否される。そんな保護行政が、もう目前まできているのである。
 いま、生保改悪のほこさきは、一人親家庭など、就労が可能な受給者にさしあたり向けられている。これは、働くことが当然で働かないのは一時的な不正常な状態という行政の考えと、ある程度まで世論となっている働くのがあたりまえという意識が背景にある。これに乗じていまひとつ目論まれているのは、有期保護制度という、就労可能な受給者に対し、年限をつけて保護を行なうというものである。これは、アメリカなどでも行なわれ、ホームレスの激増など、悲惨な状況をまねいている。
 では、こうした生保改悪に、労働者人民はどうたたかっていけばいいのか。まずは、当事者、受給者の闘いである。しかしこれはむずかしい。筆者も生保受給者であるが、例えば、行政と交渉する、などといっても、ケースワーカーの目を気にしない受給者はいない。ケースワーカーは受給者にとって、監視役でもあり、自分がいつ生保を切られるかもしれないという恐怖は、闘いへの決起をにぶらせるものである。それは生死の問題と直結しているから。
 歴史的には生保の貧困を告発した偉大な当事者による闘い、朝日裁判(1957年提訴)も存在する。当事者がさまざまな状況にあることも、団結の阻害要因である。そうした困難をのりこえ、あえて受給者自身の闘いを、まず重視しなければならないだろう。
 労働者にとってはどうだろう。最低賃金を上昇させる闘いの延長として、地域で生活するうえでの最低の収入に着目することは、労働者の課題が働く人のものだけではない、ということに当然気づかされるだろう。実際、働かないで暮らしている人というのは、失業時代であることもふくめ、決して少なくないのである。
 そして、そうした人々の存在は、自分が何かの理由で働けなくなったとき、どういう暮らしが待っているか、というさしせまった問題でもあるのである。
 生保改悪をすべての人民の社会保障改悪阻止の闘いの重要な一環として、共に闘おう。(生保受給者A)


無為無策の教育再生会議「いじめ問題」提言
  教育実践こそ子どもらの命を守る

 十一月二九日、安倍首相直属の教育再生会議は、「いじめ問題への緊急提言」をまとめ発表した。提言は八項目からなり、いじめをした児童生徒への出席停止など厳しい措置をとることを念頭に、問題行動に対する指導・懲戒基準を明確にして毅然と対応するよう求めている。また、いじめにかかわったり放置助長した教育労働者の懲戒処分も盛り込まれ、懲罰主義と上からの指導を柱とした提言であった。
 また教育再生会議は、今年一月の中間報告の原案としても、過去の通知等の見直しと共に、奉仕精神、偉人伝や神話云々を「いじめ対策」部分として示している。
 これらの提言は、相次ぐ児童生徒の自殺を前にして、ともかく形を繕おうとする展望のない、子ども不在の提言であり、かれらの無為無策を示すものであった。なぜなら、かけがえのない子ども達が自らの命を自ら絶つという行為は、かれら自身が進めている教育での競争が激化する中で行なわれ、増えているからである。
 政府・与党は、「教育改革」などと称して、イギリス型の教育を摸倣し、子どもの世界に競争原理を持ち込み拡大しつつある。そして、東京都などを先頭に誤った「教育改革」が先取りされた。学校・家庭生活・地域の中に熾烈な競争が持ち込まれ、子ども達はその渦の中に投げこまれている。反省すべきは、教育基本法の理念を無視し、ねじまげて行なってきた政府・自民党の戦後教育政策であり、イギリスですでに破産した「教育改革」を取り入れ、競争原理を激化させた文部科学省と政府・与党である。
 子ども達は、格差社会で「勝ち組」になるために学校ばかりでなく、家に帰れば塾や地域のクラブチームで競争を強いられている。日常的な競争によって、一人ひとりの子どもそれぞれがバラバラにされ、競わされている。そして、日々の不満やストレスがいじめを拡大している。
 一人ひとりの子どもにはそれぞれの生活があり、喜びや悲しみ、苦しみをかかえて登校している。その子ども達に寄り添い、その思いを知ることによって、まず教師自身が変わることが求められている。そうすることによってしか、子ども達とのつながりを強め、信頼関係を深めることはできない。そして、子ども達の本音をクラスで語り考えあい、それぞれの子どもの心をつむぎあう努力が必要だと思う。むろん、教師自身も本音を語り、自らの生き様を子ども達に語り、仲間として生きなければならない。そして、保護者と語り合い、地域とつながって、教育を行なうことが求められている。
 教育現場には、先達が作りあげてきた実践が今も脈々と流れ受け継がれている。この実践を発展させることが、この格差社会、荒廃しきった社会に対置する教育だと思っている。一人ひとりの子どもを大切にし、違いを認め合う教育実践が今まで以上に求められているのである。
 上からの価値観を押しつけ、枠に入らない子ども達を罰するような、子どもの内面に届かない教育は無力である。今起こっているいじめによる相次ぐ自殺は、政府・与党が行なっている教育改悪への警鐘である。それにもかかわらず新自由主義の教育政策を続けるならば、子ども達の尊い命はさらに奪われることになるであろう。
 政府・与党は誤った教育政策をやめ、現場の良心に耳を傾けるべきである。かけがえのない子ども達の命を守るためにも。(教育労働者 浦島学)