60年安保世代が6・15国会デモ
  九条改憲阻止を掲げ

三十万人が国会を包囲した六〇年安保闘争から四十六年経つ今年の六月十五日、当時の全学連の仲間一七〇名が集い、「九条改憲阻止」「国民投票法案反対」の国会請願デモを行った。
 この日の行動アピールは言う、「私たちは、これまで何をやり残し、何をなし終えねばならないのか、歴史への現在的な関わり方を、互いに模索しているのではないか」。
 平均年齢は七〇歳近い。参加者たちは、日比谷公園から出発し、樺美智子さんが命を落とした国会・南通用門で献花、衆院議面前で社民党の保坂展人、辻元清美両議員、参院議面前で福島瑞穂社民党党首の激励を受けた。終了頃にさらに四〇名が合流している。この行動は、後輩たちを勇気付ける頼もしい一歩となった。(東京M通信員)

46年ぶりの「6・15国会デモ」を闘って
  6・15国会突入闘争の歴史的意義
                               蔵田 計成

 60年安中派世代にとって、9条改憲阻止、樺美智子追善を掲げた、その日の国会デモは、実に46年ぶりであった。その記念碑的なデモとなった、60年安保ブント=全学連が打ち抜いた「6/15国会突入闘争」は、ブント学生同盟員が不退転の決意性を打ち固めることによって、初めて実現した闘争であった。
 たとえばその前夜、東京学生会館雄飛寮会議室では、40名前後の学生細胞代表者会議が開催された。会議では、「安保粉砕、日帝打倒、実力阻止」を掲げたブント=全学連の総路線の延長上に、「国会突入方針」を全員一致で最終的に確認した。
 この突入方針を最終的に確認するに至るまでの、安保闘争「最後の25日間」において、運動はきわめてダイナミックな展開を見せた。この歴史上の事実は、きわめて教訓的な意味を持っているので、付記しておきたい。
 とくに、4/26闘争以後の、ブント政治局解体の後を受けた学連書記局指導部は、衆議院強行採決↓自然成立という緊急事態が突発した5月20日〜5月26日の、激動が始まった初期の時点で、安保改訂阻止は不可↓闘争の敗北↓党派闘争に有利な収束、という見通しと方向に傾いていた。ところが、実際の運動の進行は、全く逆な推移を見せたのであった。
 6/4ゼネストに向けて徐々に高揚し、より決定的には、6/10(ハガティー来日阻止、羽田現地闘争)の爆発という突発的事態が現出した。この事態を眼前にして、少なくとも首都圏ブント学生同盟員は、別な意味で「危機意識」を深めたというのが、真相に近い。
 「安保自然成立が目前に迫った土壇場において、戦術的に勝利的な血路を切り開くには、一般的な街頭デモは無力であり、もはや、国会突入闘争以外にはない。全学連反主流派=日共系との党派闘争に勝利する道もない。とくに6/10羽田現地闘争が、全学連主流派の予想を超えて、勝利的結末を引き寄せたことによって、反米・愛国・植民地従属論が一挙に台頭することも予想される。この予想外の最悪の流れを食い止めて、大衆的に日本帝国主義打倒の流れに引き戻すためには、日本帝国主義内閣の政治的中枢=国会に向けて、政治的社会的耳目を集中させる他はない」という状況認識であった。
 このように、真の前衛党創成を目指した学生同盟員は、不退転の政治的決意を全員一致で確認した。しかし、それ以上の、組織的な準備や、任務分担を決定したという確証や、気配もない。ロープやペンチを準備したのは明治大学細胞であった。その理由も「突入闘争の先頭に立つのは俺たちだから」という決意と責任感からであり、必ずしも「周到な準備」とはいえなかった。いずれにせよ、後に残された選択は、全員が身に寸鉄を帯びないで「突入」を目指す他はなかったのである。
 突入方針を現場で最後に決定したのは宣伝カーの中であった。全学連指導部3名が2対1の多数決によって決行した。そのデモ隊列の、東大本郷の列の前方に同志樺美智子はいた。
 果たして、6/15闘争は、歴史的にどのように総括され、対象化されなければいけないのか。この設問に対する回答は、別稿に譲る他はないが、9条改憲阻止闘争との関連性の中で問題を提起することは可能である。
 いわば、60年安保闘争は戦後史の画期をなしたというだけではなかった。産別労働運動の解体と、前衛党の階級政党から国民政党への転換として始まった55年体制を契機にして、日本帝国主義の総路線は、「重武装、改憲」路線という直線志向を目指した。しかし、妥協体制の崩壊、新左翼の歴史的登場、勤評闘争、警職法闘争に続く60年安保闘争、三井三池闘争などの激闘によって、日帝総路線は直線志向を断念せざるを得なかった。とくに60年安保闘争の中で、岸内閣打倒、大統領アイク訪日中止の事態を受けて、「軽武装、経済優先」へという迂回志向を強いられることになった。その意味で、60年安保闘争は、歴史発展上の功績に位置づけることができるかも知れない。
 とはいえ、60年安保改訂交渉にみるような、片務協定から、双務協定へと変質を遂げた日米安保体制が内包する軍事的側面の肥大化は、そのまま増殖を続けた。やがて、90年代の東欧社会主義の崩壊という劇的事態を迎えた後も、新たなアメリカ一極支配体制の下で同盟関係を拡大すると共に、国内支配体制の強化を一挙に推し進め、日米軍事一体化、戦争国家化、武断外交への道を進もうとしている。これほど無謀で危険な愚策はない。これはまさに「世紀の陰謀」であり、この企ては断じて許してはいけない。

 (くらた けいせい)
一九五八年 共産主義者同盟結成に参加
一九五九年 都学連副委員長
一九六四年 早稲田大学第二政経学部卒業
以後執筆業など。著書『安保全学連』(一九六九年・三一書房)など