「愛国心」与野党論議を評す
     問われているのは、「真の愛国心」の対置ではない
                             堀込 純一

 教育基本法の改悪をめぐり、右は自民党から左は共産党まで、愛国心論議が盛んである。だが果たして、愛国心とは、小泉首相やマスコミが言うように、「人びとの自然な感情」なのであろうか。
 自民・公明の与党協議を経た政府案は、第2条(教育の目標)で、五つの項目の一つとして、「五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」としている。この愛国心教育に係る部分は、すでにマスコミなどで報じられているように、自民党と公明党の妥協の産物としての文言である。
すなわち、公明党の言い分としては、ここでの「我が国」には「国家権力や政府」という意味合いはない、というのである。だが、この発言は余りにも不誠実なものである。そもそも「国家権力や政府」を欠落した国家などというものが存在するのか。これは、国家概念の新たな捏造である。こんな言葉遊びによるゴマカシは、直ちにやめるべきである。
さらにいっそう重要なことは、この文言は、根本的に諸個人よりも国家を優先するという提案者たちの思想をはしなくも露呈させているということである。「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する……」という個所である。歴史的に日本の「伝統と文化」(その中身については、さしあたり問わないとしても)を「はぐくんできた」のは、日本社会に住む諸個人(国籍のいかんを問わず)なのである。これは紛れも無い。文言で言う「我が国や郷土」は、あくまでも政治環境(我が国)であり、地域環境(郷土)であり、これらは副次的なものである。主体は、あくまでも日本社会に住む諸個人である。政府案は、この点を意識しているのか、あるいは無意識的にそうなったのかは不明であるが、あくまでも、諸個人よりも国家を優先する国家主義者の本性を露呈させたのである。 
民主党案は、愛国心教育については、政府案以上に強めた文言で、「……同時に、日本を愛する心を涵養(かんよう)し、……」と、前文で述べている。
この文言について、民主党の「教育基本法に関する検討会」の西村武夫座長(かつての自民党の文教族)は、「『日本』は国、郷土、自然すべて。『涵養』は土に水がしみこむように教育することで強制ではない」(五月二四日付け『朝日新聞』)と、説明している。表現は異なるにしても、基本的には、政府案と同じ思想である。民主党は、この文言が条文で無く前文にあるから強制力は弱いとか、「涵養」は強制ではない、という。しかし、これらは言葉のアヤであり、為政者によっては簡単に反故(ほご)にされる代物である。それは国旗国歌法の審議の時は、強制ではない、といいながら、今日では強制になっていることをみても明らかである。
今回の討論でも注意しなければならないことは、きわめて多義的な「国」という言葉を使って、国家意識の育成や愛国心教育を合理化していることである。
『広辞苑』によると、「くに【国・邦】」には、@大地、A国土、国家、B帝位、皇位、Cかつての行政区画、D任国、知行所、E国政、任国の政治、F国府またはその役人、G地方、田舎、H故郷、郷里――となっている。これらのうち、ほとんどが前近代で使われてきたもので、今日も使われているのは、AとHの意味ぐらいのものである(政府案は、あるいはBの意味の復活を狙っているかもしれない)。だが、Aの領域の国家意識とHの領域の故郷(ふるさと)意識は、社会科学的には根本的に異なるものである。それにもかかわらず、政府案はAとHの両方の意味をもつ「国」という言葉を使って、愛国心を育成しようというのである。つまり、「自然に形成される故郷意識」を媒介に国家意識の形成を教育するというのである。これは、きわめて政治的な行為なのであり、とても愛国心を「自然な感情」などとは、言えないのである。そもそも、愛国心が「自然の感情」ならば、わざわざ教育基本法に書き込む必要も無いであろう。放っておいても、自然に形成されるのだから……。
政府案も民主党案も、ともに愛国心教育を強調する点で共通するが、それに関連して、ともに「公共の精神」も強調している。戦後教育が「個人」偏重だとして、「公」「公共の精神」をもっと重んじるべきだというのである。だが、東アジアの公私観は、伝統的に公が上で、私はそれに従属すべきだ、という思想である。それは、滅私奉公、破私立公、先公後私などの言葉でも明らかである。すなわち、このような公私観は、「公」を強調すればするほど、諸個人(私)を誘導して、「公」を独り占めする(あるいは、絶えず独占化したい)国家や「お上(かみ)」へ服従させる論理構造をもつものなのである。公と私は、誰にも備わるものであり、誰しも、公的側面をもち、同時に私的側面をもつのである。したがって、公=国家やお上、私=庶民ではないのである。また、公私は反比例関係でもなく、二者択一関係でもない、のである。
こうした東アジアの伝統的な公私観を何ら反省することも無く、それを再び強化し、諸個人を国家に服従させよう(戦争動員を含め)というのが、両案にみられる「公共の精神」の強調の思想的背景である。(歴史的に、儒教国家での上からの教科主義という体質・思想は、諸個人の才能を引き出すというよりも、徳目や教科を教え込むという教育観が強いことを想起すべきである) 
したがって、政府案でも、民主党案でも、教育権は諸個人ではなく、国家が持つべきだという考えが強まっているのである。たとえば、政府案では、現行の教育基本法第一〇条(教育行政)で、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものである。」ということの意味合いを百八十度逆さまにし、国家や文部科学省(その下請け機関も含め)が労働運動や市民運動からのさまざまな要求や主張から守られるべきだ、という内容に転換している。民主党案の場合では、たとえば、「第7条(普通教育・義務教育)国は、普通教育の機会を保障し、最終的な責任を有する。……」として、「国民の教育権」ではなく、「国家の教育権」を明確にしている。
教育権は、国家ではなく、諸個人にあるのであり、したがって、教育行政もまた国家や地方自治体ではなく、地方ごとに有権者によって選出され監視された公共的な委員会が担うべきである。
今回の愛国心教育の強調は、このように伝統的な公私観に基づく「公共の精神」の強調や、教育権の国家による完全掌握と結びついており、今日におけるナショナリズムの鼓吹、憲法改悪と軌を一にしている。このことは言うまでもないことである。にもかかわらず、共産党の愛国心教育批判なるものには、歯切れの悪さがうかがわれる。というのは、「他国を敵視したり、他民族をべっ視するのでなく、真の愛国心と諸民族友好の精神をつちかう。」という基本政策が古くから行われているからである。「真の愛国心」などといって、愛国心教育の土俵内で政府などと競うのでなく、世界の諸民族、諸個人の友好とともに、日本社会とこの日本にすむ諸個人(国籍を問わず)を「愛する」教育こそが、もっとも肝要なことである。(了)