映評】

現代史の真しな反省に共感
  『送還日記』キム・ドンウォン監督(韓国・03年)
  『白バラの祈り』マルク・ローテムント監督(ドイツ・05年)

 今年に入って公開されつつある2本の作品を推奨したい。先ず一本目は、韓国キム・ドンウォン監督のドキュメンタリー映画「送還日記」、もうひとつは、マルク・ローテムント監督のドイツ映画「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」。
 前者は朝鮮の南北分断下「北のスパイ」として捕らわれた非転向長期囚を十年余りに渡って撮り続け、韓国で上映されるとドキュメント作品としては記録的な大ヒットをした。後者はナチス・ドイツ下の末期、「白バラ」反ナチス抵抗闘争をおこなった学生たちのただ一人の女性ゾフィー・ショルを主人公として、新たな史料に基づきドキュメント風に描いた作品であり、共に大いなる感銘を与えてくれる映画である。おのおの作品は、多くの映画祭で高い評価を得ている。
 T「送還日記」は、世界最長期囚キム・ソンミョンさん(45年服役)をはじめ、非転向長期囚ならびに「転向」長期囚を出獄から非転向長期囚の共和国への送還まで描いた作品であり、最近のドキュメント作品としては珍しくなくなった、監督自身が直接作品内に登場する映画となっている。
 元長期囚のチョ・チャンソンさんとキム・ソクチョンさんに寄り添うようにカメラが追いかけていく中で、キム・ドンウォン監督が特にチョ老人に引かれるなか元長期囚の老人たちの変わらぬ信念に驚きを覚え、恐れさえ感じる。しかしこの二人の垣根を越える事件が訪れる。映画製作過程でキム・ドンウォン監督のプロダクション「プルン映像」が公安当局の手入れを受け、監督自身が国家保安法違反容疑で逮捕されてしまう。この事件をきっかけとしてチョ老人は心を開くようになる。
 キム・ドンウォン監督自身も、一定の距離を置いていた立場から、元長期囚たちの北への送還運動にかかわるようになる。非転向長期囚送還推進委員会のクォン・オホン代表(民家協良心囚後援会会長で昨年韓国良心囚を支援する会全国会議の招請で始めて来日した。南民戦事件で逮捕された元良心囚)やイ・ギウク弁護士(民弁、元良心囚後援会会長、たびたび来日し、日韓民衆連帯に貢献している)のインタビュー映像も交え、送還運動にかかわっていく。
 太陽政策を掲げるキム・デジュン大統領の登場と共に、2000年6月15日歴史的な南北共同声明が発せられ、非転向長期囚の送還が現実化する。9月の送還までに、支援者や「転向」長期囚を交えて綴られる日々は平坦ではなく、仲間や家族の死、分断ゆえの敵対論調や根強い反共意識が韓国社会に横たわることを思い知らされる。
 このドキュメント作品の特徴は、監督自身が作品の重要な対象の一人であること。ナレーターを務めているが、一人称の作品ではない。約10年に渡る撮影過程で、キム・ドンウォン監督自身の葛藤は、「北のスパイ」と向き合う韓国民衆運動そのものとして観るものにせまる。監督自身の社会的・思想的変化が主題へと登りつめるこの作品「送還日記」は、「華氏911」のマイケル・ムーアや「ゆきゆきて神軍」の原一男のドキュメント映画監督としての一線(ヤラセ的場面が濃厚に潜んでいるが、自己を対象化することはない)を超えている。キム・ドンウォン監督のこのような思い入れに私自身引き込まれていく。彼は活動家としての姿をわれわれに見せ出すからだ。韓国の民衆文化運動としての一面であり、スターリン主義の文化運動の画一性とは明らかな違いを示している。
 この作品に対し、日本のマスコミも関心を示したが、送還された63名の非転向長期囚の中に、日本側が拉致容疑者とするシン・グァンス氏が含まれていることに対してのみ報道する姿勢に、たいへんなイカリを覚える。日本マスコミのキム・ドンウォン監督に対するインタビューは、作品への評価を差し置いて、この一点だけに集中しているがその低俗さにはあきれる。
 南北分断による犠牲者でもある「北のスパイ」は、長期に渡る過酷な獄中生活を強いられながらも、信念を曲げない生き様は、韓国の若い民衆にたいへんな共感を与えた。この日本で上映されるのは、反韓・反朝鮮感情が醸成されている今日、作品の芸術的価値を踏まえても意義深い。また分断の責任の一端を、解放後軍事介入してきたアメリカ帝国主義と共に、36年間に及ぶ併合支配を続けたこの日本にあることを明記しておくことが必要である。
 U「白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々」は、「白バラ」を描いた作品としては3作目となる。
 前2作は「白バラは死なず」「最期の5日間」と言う作品で、評者は作品の存在は知っていたが、観る機会を逸している。ただ共に多数残された書簡集や記録に基づき作成されていると聞く。この映画も、ドイツの統合により旧東ドイツより出てきた新たな史料を基に再構成されているという。特にナチス法廷の記録が主要な中身となっている。
 この映画は、基本的に3部構成となっている舞台劇的作りである。マルク・ローテムント監督は、テレビ映画作品は監督しているようであるが、舞台演出の経験は無いようである。舞台演出を兼ねる映画監督は、イングマール・ベルイマンやエリア・カザンなど高名な演出家が多数存在する。とりわけてもエリア・カザンは、舞台演出を直接映画に持ち込むがごとく、俯瞰を多用し評者は好きになれない。それに比べるとこの作品は、カメラ目線を低く抑え、俳優の感情が観るものに伝わりやすい映画的手法に徹しているように思える。
 3部構成の最初は、友達と語り合ったり、ラジオから流れるビリィ・ホリディを聞くのを楽しみとする、ごく普通の女学生ゾフィーが、兄のハンスと共に反ナチス地下活動に参加し、逮捕されるまでをサスペンス風に描写される。2部目はこの映画最大の圧巻であるモーア尋問官との対峙である。ゾフィーの毅然たる態度に、動揺と憐憫さを隠せない尋問官が、生活のためナチスに入った動機さえも語るようになる。仲間を密告するように迫る尋問官に態度を変えないゾフィーは、裁判に掛けられることとなる。
 最後はナチス裁判から処刑のシーンまでである。悪名高きフライスラー裁判官は、法廷でナチス賛美をアジリまくる。その喜劇的ともいえる演技と対比的に、この映画のもう一つの本質、ゾフィーその人への監督の共感を強く意識させられた。演出も演技俳優もたいへん素晴らしく、感涙に誘われた。
 このような作品が日本では何故出来ないのだろうか。戦争賛美と思える映画ばかり目立ち、過去をしっかりと反省する作品が見当たらないのは、寂しいかぎりである(K)