コレコン訪韓団(10・7〜10)に参加して
  変化する韓国 問われる左翼の交流


   初めての訪韓

 私は、樋口篤三氏を団長とする総勢十五名のコレコン(別記参照)訪韓団の一員として、十月七日から三泊四日の韓国「観光旅行」に行ってきた。初めての訪韓だった。国家保安法がまだ廃止されていない中、元赤軍派ということで、入国は無理だとういう意見も多かったし、実際、後述するように簡単に入国できた訳ではなかった。しかし、韓国民衆が闘い取ってきた政治の転換と、南北統一へのうねりが入国の道を開いてくれた。まずは韓国の人々に敬意と謝意を表し、以下、訪韓の報告を行ってゆくことにしたい。

   入国

 十月七日、午後四時、搭乗したアシアナ航空の旅客機がインチョン空港に着陸した。
 入国に関しては、韓国の国会議員を通じて「入国不可能者」に登録されてないとの情報を事前に得ていたので、一抹の不安はあったものの、百%近く大丈夫と考えていた。ところが、入国検査のゲートでパスポートを提出すると、手元のモニターを見ていた検査官の手が止まり、電話の受話器を取り上げる。同行の仲間はやっぱりといった感じで心配しながらニコニコしている。あちらの部屋に行ってくれとの検査官のジェスチャーに、ま、仕方ないかと移動した。ここからが興味深い展開となる。
 「韓国語か、英語を話せないか?」と聞かれたが、話せないので対応は訪韓団の一員である通訳の加藤正姫さんにまかせっきり。その意味ではかなり気楽に、加藤さんによる状況説明付きで、事態の推移を観察することが出来た。加藤さんが部屋に来てくれなかったら、かなり心細かったろうと思う。
 私の件で応対したのは責任者を含めて三人。彼らは、簡単に入国禁止の結論を出すことをせず、韓国法務省の本庁に問い合わせていた。本庁もなかなか結論を出さず、そのうち現場が本庁にイエスかノーかはっきりしてくれと、しびれを切らす状況になる。現場の裁量もあるのだとういうことで、いつ頃どんな活動をしていたか聞いてきたが、一九六七〜六九年に学生運動をしていたとだけ答える。遠目に見えるコンピューターの画面には、入国禁止のしるしであろう赤い太線が出ていたが、先方の話し振りから察すると、当時のことは入力されているようであった。加藤さんから後で聞いた話であるが、先方の役人たちもたいてい学生運動経験者で、韓国で「学生運動」というと良く受止められるとのことであった。
 先方が気にしていたのは「観光」のスケジュール。韓国人と個人的に会うのではないか、「プサン(釜山)」に行く予定はないかということだった。この十一月にプサンで開催され、ブッシュ、小泉も参加するAPECのことのようである。韓国外務省筋が、「テロ対策」ということで入国拒否を主張していたのではないか。そう推測するのは、最後に出てきて私に入国に当たっての誓約を求めたのが、韓国外務省だったからである。韓国法務省のラインは、一貫して入国に好意的だったのではないだろうか。
 一時間半くらい経った時点で、現場に一本の携帯が入り流れが変わる。入国はダメだと。あとは、帰国便を待つだけとなる。
 一人でコーヒーをご馳走になりながら待っていると、黒っぽい服を着た警備関係らしき人物が来た。彼は、パスポートとチケット、そして、入国禁止決定とその理由が書いてあるらしきハングルの書類をボール紙の大きな封筒に入れ、私を旅客機まで案内した。旅客機までは、結構な道のりだった。せっかく来たのだからと周囲を見物しながら歩いていると、朝鮮民主主義人民共和国の国旗が尾翼に描かれた旅客機も駐機しているのが目に止まる。少しばかり南北交流の前進を実感できた。
 旅客機に到着する。機内では、日韓の交流や北東アジアの連帯について若干沈んだ気持ちで思い巡らしながら、東京に着いたら早速電話しておいた方がよい人の名前を検討などしていた。そしたら出発数分前、「外務省の人が話をしたいと言っています」とスチュワーデスさんから伝えられたのだった。
 先ほどの部屋に戻され、外務省の人と電話で話をした。「観光」だけということにして欲しいとのこと。了解し、誓約書をさらっと書いて入国検査官に渡した。
 入国検査の現場の責任者が交流を求めてきた。彼は、紙に漢字で、「韓国 変化」「左傾」と書く。私は頷いて答える。「今は何をしているのか」という意味の問いには、まだ完全に入国した訳ではないので、ちょっぴり警戒し返答を躊躇した。本人は、日本の左翼への個人的関心から質問したのだろう。とても友好的な雰囲気の中で別れの挨拶をする。
 既に午後八時を過ぎていたと思う。池明観先生との会食は七時からであった。検査官がハングルで書いてくれた宿泊予定旅館の住所が記されている用紙を頼りに、一人、タクシーを飛ばしてソウルに向かう。結構な距離だった。メーターを気にしながら、旅館にたどり着けるか、夜景をゆっくり楽しめる心境ではなかった。タクシーの運転手がここだと言うところで降りた。近くにいた若い女性に用紙を見せて尋ねる。彼女に教えてもらって旅館を見つけた時、私の訪韓の第一幕はやっと終了した。韓国との最高の出会いだった。

  交流

 入国当日の夜は、池明観先生との会食。翌八日は、午前中に民主労働党ソウル支部と、午後に参与連帯と、夜に統一連帯・民衆連帯と、交流の場を持つことが出来た。
 池明観さんは、一九七二〜九三年の滞日期間中、韓国軍政に抵抗し民主化を求めて闘う民衆の声を、「T・K生」という匿名で世界に伝え続けた人であり、帰国後は、韓日文化交流政策諮問委員長などの要職に就き、日韓の相互理解と文化・学術交流の発展の為に尽力してきた方である。コレコンは、二〇〇三年一〇月に氏をお呼びして、「T・K生の時代と『いま』―東アジアの平和と共存への道」を題する講演を行っていただいた。それ以来の縁ということになる。
 私は、会食の終わり頃に拍手で迎えられて合流。「報告」もせねばならず、酒や食事をゆっくり味わう時間はなかったが、先生とも話ができ、和気あいあいの雰囲気の中で一息ついた。一日目にして訪韓を満喫した感覚であった。
 翌日は、まず民主労働党ソウル支部を訪問した。午後から中央委員会だという忙しい中、支部副委員長のチョン・ヨンウクさんが時間を割いて応対してくれた。
 南北共同宣言をどう履行していくか、どのように統一していくか、方案を検討していること。南北の交流が進んでおり、最近政党としては北の社会民主党と交流したこと。アメリカと戦時作戦指揮権返還の交渉中であること。在韓米軍の段階的縮小を目指していること。東アジア共同体問題については、中国と日本の覇権争いになっていることには批判的だが、日本が侵略・植民地支配を実際に反省する態度に転換すれば、一緒にやっていけると考えていること。民主労働党の党組織についても、国会議員の党役員との兼務を禁止してきたことで、国会議員団と党執行部の意思疎通の欠如という問題が生じてきており、対策を検討していること。役員の三〇%を女性とするクオーター制を採用しており、また党内で女性からの問題の指摘が多数でてきており、自分もいま「家族・私有財産および国家の起源」を読んでいること、等々多岐にわたり話を聞くことが出来た。
 午後は、地下鉄を使って移動し、参与連帯の事務所を訪問した。参与連帯では、政策アドバイザーの聖公会大学教授チョ・フィヨンさんと政策室長のイ・テホさんとが応対してくれた。
 参与連帯は、日本では、二〇〇〇年の韓国・国政選挙の際の「落選運動」が有名。あの時は、対象候補者八〇人で、成功率80%だったという。検事の不正・腐敗、裁判官の判決などを、一人ひとりファイルしている。財閥企業サムスンの資産相続問題などを、企業は社会的存在という見地から取り上げ、監視・批判運動を展開している。その他、「平和と安保」「福祉」「権利侵害との闘い」などの諸活動の説明を受けた。現在、労働組合と共同して「社会の両極化を解消するための国民連帯」を立ち上げる準備をしているそうである。現在転換期にあるという。要求の現実化が進展する一方で、その限界が見えて来ており、民主化が進む一方で、透明な格差社会になってきている、と。
また、参与連帯は民衆運動の側から「改良主義」と批判されているが、「改良への革命的接近」であると。運動の中に「北」の「核保有」や「民主化」で議論はあるが、参与連帯が調整役を果たしている。執行委員会の中には、ウリ党や民主労働党、社会民主主義者や親「北」の人もいる、とのことだった。交流を終えた後、事務所を見学させてもらった。
 時間が無いため、タクシーに分乗して、統一連帯・民衆連帯との交流会場である民主労総の本部まで移動した。応対してくれたのは、統一連帯政策委員長のハン・ヒョンスさん、全国民衆連帯執行委員長のパク・ソグンさん、同・事務局長のチュ・ジェジュンさん、同・組織部長のキム・ジヒョンさん。統一連帯の他の役員は、全員、アリラン際のためピョンヤンに行っているとのことだった。
 八七年の民主化闘争以降、「反米」と「統一」の課題が本格的に浮上してきたが、南北統一問題を公然と話せるようになったのは、二〇〇〇年の南北共同宣言以降だとのこと。宣言以降も、「北」との接触は政府レベルに限られたままだったが、今年ついに大衆的な交流を勝ち取ったこと。これからは、「北」と共同で何をするかが問われる。交流は、既に運動圏のレベルを超えて、安価な労働力、同一の言語、物流の利をテコに資本がどんどん進めている。統一は、ドイツ方式でなく、「北」の体制をそのままに両者が発展する方法を模索する。「北」は長い封鎖政策によって経済が疲弊し、「南」は非正規労働者が増大する格差社会、これらを解決する自主経済を模索する。あえていえば「連邦制」だ。南北非核化は、在韓米軍問題と不可分。在韓米軍の広域化に反対だ。日韓軍事訓練が秘密に行われている。十一月APEC反対(プサン)、十二月WTO反対(香港)を闘う…。
 場所を変えて夕食を共にし、酒も入る。先方は、韓国の運動が曲がり角にあるとの認識もあり、日本の左翼の敗北の経験から学び取ろうと真剣だった。大いに交流を深めることが出来た。
 三日目の十月九日は、軍事境界線の見学に行った。立派な観光資源といった感じだった。「北」から「南」へ、雁の編隊が次々とわたっていく姿は、とても印象的だった。夕方、皆でお土産を買いに行く。帰ってから、旅館近くの酒屋で少し酒を呑み過ぎた。
 十月十日、帰国の日。ずいぶん長く滞在していた気分であった。出国はスンナリいくと思っていたが、またひっかかった。コンピューターには困ったものである。韓国法務省・本庁との確認のためだろうと思われるが、搭乗時間直前まで時間がかかり、コレコンの皆さんにヤキモキさせてしまった。ゲートを出るとき、検査官の人が手を振って見送ってくれてたそうである。
 尚、訪韓の詳細は、近くコレコンより出版される予定になっている。是非読まれたい。(松平 直彦)