堀江壮一同志の逝去20年を偲んで
  先人の闘争経験を継承しよう

 戦前・戦後を通じて想起される共産党人は多い。わたしはとくに、日本労働組合評議会の拡充に奔走して、地域に拠点を築いた渡辺政之輔、評議会から全協への過程での国領五一郎などの名前があげられる。
 この二人の名前は、安斎庫治同志(戦後、日共中央書記局に在籍し、中共、「文革」をめぐる論争の中で修正主義路線を痛烈に批判して日共から除名。一九九三年死去)のアジテーションの中で、今も鮮明なる記憶がある。
 わたしにとって、もう一人ぜひ名前をあげなければならないのが、堀江壮一同志である。堀江さんはその晩年に、関西のわたしたちと党生活を共にした同志でもある。
 戦前、絶対主義天皇制の圧迫の中、日本共産党は、天皇制打倒、その民主主義革命の社会主義革命への発展転化、労農同盟などのスローガンを掲げ、プロレタリア層は勿論、農村での農民の組織化をすすめた。また当時、ロシア社会主義革命の大いなる影響を受けて全国に広がった学生による「社研」運動についても、その系統的組織化に精力を注いだ。
 「治安維持法」が一九二五年に成立した翌々年の二七年、旧制高知高校などで「軍事教練反対!戦争反対!」のビラを撒布し、天皇制と帝国主義戦争に抵抗したのが、堀江さんたちであった。
 高知高校を追われた堀江さんたちは、高知における土佐電鉄や日本紙業などの労働争議にもかかわり、無産者運動、全協活動へ参加し、労働運動とインテリゲンチァの結合の一翼を担った。一九三〇年、高知での最初の治安維持法違反として逮捕・投獄される。
 出獄後、大阪に戻った堀江さんは、党再建のため活動をすすめるも、一九四〇年逮捕・投獄され、非転向で一九四五年宮城刑務所を出た。
 長い獄中闘争を経て、戦後、堀江さんは日共関西地方委員会の財政部担当となった。彼は、関西地方党大会の報告の中で要旨次のように発言している。「財政の納入と組織活動の関係は、まさに表裏一体のものである。党方針の具体的実践とすみやかな総括は、党員個々を含めた組織行動力の源泉である」と。
 時は経て一九八〇年、今の労働者共産党の前身の一つであった日共MLに入党、党の陣列の先頭で、わたしたちを引っ張ってくれた堀江壮一同志。
 堀江さんが天界におもむいて、この七月三十一日で二十年を迎えた。
 堀江さんのありあまる情熱と組織活動の記録は、当時の「岩井会」のメンバーを中心とした人々の幅広い努力で、『安全靴と本』という書籍の形となって、後世に語り継がれている。(八六発刊、但し非売本)。
 戦時中の、岩本巌氏と堀江さんとの堺刑務所での出会いと、そのやりとり。無産医療運動に生涯をかたむけた水野進同志への、はなむけの言葉。アジア・アフリカ人民とりわけ朝鮮人民との団結の重要性等々の堀江さんの文章は、小なることで挫折してきたわたしには、貴重なる最高の励ましであった。
 わが党は去る七月、全党員の総力で、路線的確信に満ちた第三回大会を成功裏にかちとった。しかし、このことに甘んじることなく、多くの先人が踏んできた労苦と偉業に学び、その経験の継承を水泡に帰すことなく、団結して奮闘していこうではないか。
 最後に、生前の堀江さんの二つの言葉を記す。
「君ぃ、元気ないナァ、空気入っとんのかいナ!」
「ワシはカメヘンねん、何といわれても、とにかくやるんや!」
 報いられることを期待せず、党方針と行動の一致を常に強調された堀江さんの、十八番の言葉であった。(関西・伊東)