第9回釜ヶ崎講座
  「釜ヶ崎と医療・・・・
     野宿労働者への医療はどこまで来たのか」
 いのちを守る闘いを共に

 去る七月三日(日)十二時より、大阪市西成区の大阪市立西成区民センターホールにて、釜ヶ崎講座主催の第9回講演の集い・フォーラム「釜ヶ崎と医療――野宿労働者(ホームレス生活者)への医療はどこまで来たのか」が行なわれ、六十五名の参加者があった。
 府下8660名(九八年調査)を数える野宿労働者(ホームレス生活者)の生活を考えるとき、彼ら、彼女らの健康問題は深刻な問題である。未だ府下で、年間200名を越す労働者が路上死(野垂れ死に)を強いられている現実がある。昨年の調査結果では、五年間でホームレス生活者の13・6%が法的な異常死に追いやられているとの発表があった。
 従来は釜ヶ崎では、政策としては市立更正相談所での医療券発行の措置があり、それによる医療低額無料診療所としての「社会医療センター」での治療があり、運動的には越冬闘争時や梅雨時の医療パトロールや机出しによる医療相談が行なわれてきた。この間、大阪府立大学福祉学部・黒田研二教授(当時、現人間社会学部)を主任研究者とする健康調査が行なわれ、これとNPO釜ヶ崎支援機構の公衆衛星部門や特掃死動員らの活動が結びつき、健康相談や医療支援が取組まれ、大きな前進を果たしてきた。また府下全域への「巡回医療相談」や「巡回医療」などが行政サイドやNPOで開始され、取り組みは大きく変化してきた。
 労働者が高齢化するなか、永年の労働や野宿による健康破壊を明らかにし、労働者自らが自己の健康状態を理解し、対応を労働者自らと医療関係者が共に考えていくことは、「いのちをまもる」ために大切なことである。「あらたな仕事つくり」に続き、このような「釜ヶ崎の医療」をテーマにして開かれたものである。
まず「野宿労働者――ホームレス生活者の現状と対策の問題」と題して、島和博・大阪市立大学大学院創造都市研究科教授が問題提起を行った。寄せ場(日雇労働市場)としての釜ヶ崎が、ホームレスの給源として、福祉受給者の集積地として再編されてきた十年の変化と、あいりん対策(治安)から自立支援への変化、隔離された場所の釜ヶ崎から都市下層・窮民層の結集点としての変化を見つめ、改めて「労働者の街」としての釜ヶ崎の視点から、福祉、医療の施策の論議を考えようとの提起だった。
続いて「ホームレス生活者の健康実態」をテーマに、この二年間の健康調査・生活実態調査(ホームレス者の医療ニーズと医療保障システムのあり方に関する研究)を通して明らかになったことを、主任研究者の黒田研二・大阪府立大学人間社会学部長が総括提起した。特別就労事業者に行なった〇三、〇四年健診の結果と国民栄養調査との比較から、ホームレス生活者は「やせ」が多い、重症高血圧の人が四倍以上、貧血を示す人が多いと同時に血糖値も高い人が多く、高血圧・低栄養・肝機能障害に陥っている状態が判明した。これは野宿によるストレス、食事摂取が不十分なこと、飲酒に頼ること、医療から阻害されまた継続が困難な状況から結果していると報告があった。二年の健康支援活動を通じ改善も見られる積極面が出ていることも報告された。
続いて、きびしい健康障害の結果としてのホームレス者の死亡の実態についての調査から、逢坂隆子・四天王寺国際仏教大学教授が報告した。〇〇年大阪市内で発生した変死は294例、野宿状態で213名、ドヤで81名が亡くなっている。病死が59%であり、自殺も16%と多い、餓死が8名、凍死が12名もいる。野宿者死亡率は平均死亡率に比べ3・6倍にも達するとの厳しい現実が報告された。
元NPO釜ヶ崎支援機構公衆衛生部門の西森琢氏(現NPОヘルスサポート大阪)は、大阪市に比べ74倍にもなる結核罹患状態の釜ヶ崎でのこの二年間の健診でも、結核は有所見者は34%に達した。が即要医療とされた人へのフォローにより全員が医療に結びつくことが出来、野宿生活のなかでも結核問題は克服困難のものではなく、生活実態や活動形態にあった対策を共同で行なえば十分、克服可能であることが取り組みから見えてきたと、報告した。
続いて、歯科と栄養調査から見えたものとして、歯科衛生士の石川裕子さんが、野宿者は20本の歯を持つ人が全国と比較し少ないこと、治療を受けることが出来ず、重度な歯周病にかかり、義歯も入れられない状態であることが報告され、名倉育子・大阪樟蔭女子大学学芸学部食物栄養学科助教授から食生活・栄養状態の実態で、野宿者では1食も食べられない日が週に1日以上あるものが半数いるという厳しい現実が報告された。
後半は、この厳しい野宿労働者の健康状態に対し、「巡回医療相談」「巡回医療活動」「面接・相談事業」等の「医療・健康支援」活動の現状が黒川渡・医療法人引清会四ツ橋診療所医師から、また日本各地の健康支援活動の取り組みの現状を、北海道の旭川の例を中心に中山徹・大阪府立大学人間社会学部社会福祉学教授から、また更に東アジアホームレス支援施策調査より見えたソウル・香港・台北における支援施策の現状を、現地の写真を中心に、水内俊雄・大阪市立大学大学院文学研究科教授から報告された。時間が足りず、後半は短い報告にならざるを得なかったことや、討論の時間が取れなかったなど問題はあったが、「健康支援・医療支援」をめぐり全体を捉えるには時期を得たフォーラムとなった。
釜ヶ崎講座では、次回は「福祉」を巡る現状を課題とするフォーラムを持つ予定である。(関西W通信員)


戦後60年・・・・・関西の8・15
  「助けあい・働きあい・結びあい」

 戦後60年の八月十五日、関西では「アジアをともに生きるための戦後60年集会」が、大阪市の中之島中央公会堂において一五〇〇名の参加で開かれた。
 主催は、例年取り組んできた「アジア・太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」を中心に、今年は「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」や「小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団」など数多くの市民団体が集会実行委員会を作っての開催となった。午前中は、日本から、更に中国・韓国・イラクから提起があり、午後は六つの分科会に分かれ、靖国・教科書・竹島(独島)問題とアジアに緊張をもたらしている現状の中、アジアで共に生きるための関係を今一度語り合う集会として行われた。
 京都では、午後二時より例年のごとく「京都『天皇制を問う』講座実行委員会」の主催で「8・15」を問い続ける京都集会が、「国立追悼施設に反対する宗教者ネットワーク」の山本淨邦さんによる「今、あらたに国家による『慰霊・追悼』を考える」をテーマの講演集会として行なわれた。
 同日午後六時、釜ケ崎の三角公園で「慰霊祭」が行なわれた。ふるさとの家の本田さんにより、この一年路上で、ドヤで、病院で亡くなった釜ヶ崎の・大阪の野宿労働者の慰霊が三角公園に集まった労働者が参加して行なわれた。

第34回 釜ヶ崎夏祭り

 この日は、釜ケ崎では第34回釜ケ崎夏祭りの最終日だった。今年は「助けあい・働きあい・結びあい」をテーマとして、1、戦争や失業・排除のない社会を勝ちとろう! 2、自ら仕事を作り出すたたかいに立ちあがろう! 3、戦争を許さず、世界中の抑圧されている人々と結びあおう!をメインスローガンに十二日の前夜祭より行なわれていたのだ。
 今年は、夏祭りを支えてきた労働者からのカンパ源だった夏期一時金=ソーメン代の支給が打ち切られるという厳しい情勢の中、暖かいカンパに支えられた。夏祭りは一九七二年にセンターを暴力手配師の手から解放した力で、地域内のやくざ、警察の妨害を跳ね除けて実現してきたものである。以来釜ケ崎を第二のふるさととして帰ってくる労働者の夏の娯楽として、闘いながら続けられてきたのである。
 三角公園に狭しとならぶ屋台・連日のバンド演奏・歌謡ショウ・労働者のど自慢・名人会・連日の盆踊りなど多彩な行事が行なわれた。十五日は恒例のすもう大会だった。こどもや女の子やおっチャンたちの力相撲が行なわれた。最終日は恒例のエイサーさんしんの会の熱演が最後を飾り、盆踊りで幕となった。
 この日三時より、これもこの数年恒例になった「釜ケ崎講座」の「夏祭りツアー」が行なわれた。夏は、釜ケ崎の闘いの成果と変化を見学するツアーだ。山田反失連共同代表の案内で、釜を回った。
 まず元南職安の跡地にできた「大阪ホームレス就業支援センター」の建てられたばかりのプレハブ事務所・作業場に。一階は木工品や手作業品、加工作業の仕事場になっている。「支援センター」は、大阪府・市・西成労働福祉センターや自彊館などの福祉団体と連合大阪で構成された「運営協議会」が運営している。まだまだ就業支援・開拓・相談などの事業も八月より始まったばかりであるが、特別清掃事業だけでなく、釜ヶ崎労働者が一人でも仕事に就けるような取り組みが開始されたのである。
 その裏手の元南職安の建物を利用し改修されたのが、「支援センター」からの「事業受託事業所」の形となる「釜ケ崎支援機構」の「お仕事支援部」である。去る六月、西成区全戸に「仕事を求める人へ」と「働く人を求める人へ」の両方のアンケートが配布された。現在まで30件弱の仕事の問い合わせが寄せられているとのことだった。二階には、ビデオなどで研修できる場も整備されていた。まだ始まったばかりであるが、着実に仕事に就ける労働者が増えることを望みたい。
 その後「特掃」事務所二階にある「支援機構公衆衛生部門」を尋ねた。この七月に三年目になる検診が行なわれ、現在は結果を労働者に報告し、受診や生活相談が連日行なわれている時であった。検診班の責任の医師や公衆衛生部門のスタッフから、今年度の検診活動の特徴と結果について説明を戴いた。
 ツアー参加者はその後、すもう大会の開かれている三角公園に戻り、「夏祭り」を労働者と共に楽しんだ。(関西S通信員)