東アジア外交の行き詰まりを
       規定する「靖国問題」

                          住奥 智彦

 小泉政権の東アジア外交の行き詰まりは深刻であり、今や連立与党の公明党すら靖国参拝の中止を公然と主張するようになった。また、河野洋平衆院議長は、多くの歴代首相と懇談し、靖国参拝は慎重の上にも慎重にすべき、という見解で一致したと言われる。他方、自民党内部では、これまで戦争責任、戦後処理問題をあいまいにしてきたために、森岡正宏・厚生労働政務次官(かつて奥野誠亮氏の秘書)のように、「A級戦犯は、もう国内では罪人ではない」という、超反動的な言葉まで飛び出している。そうかというと、中曽根元首相は、A級戦犯の分祀か、そうでなければ参拝中止を主張し、日本遺族会会長でもある古賀議員は、アジア諸国の痛みにも配慮すべきだ、と議論が錯綜する状況である。
 連立与党内での対アジア外交、すなわち「歴史認識」をめぐる混乱はいっそう深まり、中国や韓国などが求める、肝心の「靖国参拝」問題の解決は、依然として小泉首相の責任ある行動にゆだねられた形になっている。

 言行不一致の小泉「靖国参拝」

 八月十五日の靖国神社参拝を公約として、自民党総裁選に勝利した小泉首相は、二〇〇一年の八月十三日に、靖国神社を参拝した。そのときの談話で、小泉首相は参拝の理由を次のように語っている。「私は、二度とわが国が戦争への道を歩むことがあってはならないと考えています。私は、……年ごとに平和への誓いを新たにしてまいりました」と。いわゆる、「不戦の誓いのための参拝」というものである。このような言い訳はその後も事あるごとに述べられている。
 だが、このような「不戦の誓いのための参拝」なるものは、全くのデタラメである。なぜならば、小泉首相が心底から「不戦の誓い」を行なう気持ちがあるならば、その誓いは、通常、少なくとも靖国神社以外の、本当に平和を願うのにふさわしい所で行なうからである。というのは、靖国神社は、太平洋戦争など侵略戦争を引き起こし遂行したA級戦犯やBC級戦犯を合祀しているだけでなく、日本近代の侵略戦争についてなんらの反省もしていないからである。通常一般の考えをする者ならば、侵略戦争の反省も無い神社で、果たして、麗々しく「不戦の誓い」などするであろうか。決して、ありえないであろう。したがって、小泉首相がこのような言行不一致を行なうのは、「靖国参拝」については別の目的があるからに違いない(この点については、後述)。
 小泉首相はまた、中国や韓国などからの批判に対して、“戦没者をどのような形式で追悼するかについて、外国が干渉するのはいかがなものか”と、反論している。だが、これについては、五月二十五日付の中国共産党機関紙『人民日報』が、「荒唐無稽な弁解」という論評記事で、靖国参拝問題は「国際正義と人類の道義の問題であり、他国が干渉できない内政問題ではない」と手厳しく批判している。 
 小泉首相は、他者からの批判で、靖国参拝を正当性しようとする論理と論拠が崩れ動揺すると、個人の信条を述べて、今度は「情」にうったえて正当化しようとする。だが、首相という公職にある者が、個人の信条を“貫ぬく”ことで、国際的な友好関係を破壊しても平気な顔をしている――こんな政治家は、果たして、そもそも首相の器といえるのであろうか。
 小泉首相が「不戦の誓いのために」靖国神社を参拝するという、言行不一致を行なうことが可能であった政治事情には、マスコミや世論が必ずしもこの言行不一致を厳しく追及できていないということもある。
 
 靖国神社に対する対照的な評価

 中国人民による日本の歴史認識などに対する激しい批判行動が行なわれた後の、四月二十四日に『朝日新聞』は、緊急の全国世論調査(電話)を行なった。この調査では、日本の歴史認識について反省を行動で示すよう求めた中国側の主張については、71%が「納得できない」という結果がでた。と同時に、小泉首相の靖国神社参拝については、「続けたほうがよい」が36%(前回の〇四年十一月調査では38%)、「やめたほうがよい」48%(前回は39%)となり、「やめたほうがよい」は、前回よりも9ポイントも伸びたのである。
 だが、それより以前の三月の調査(日本・朝日新聞社、韓国・東亜日報社、中国・社会科学院の三者が共同で行なった面接調査)では、靖国神社に対して、日本と、韓国・中国とでは、対照的な結果がでている。韓国・中国では、靖国神社を軍国主義の象徴と見ている者が6割前後なのに対して、日本ではわずか1割でしかない(四月二十七日付『朝日新聞』)。この巨大なギャップこそが、まさに「歴史認識」問題の現状を象徴的に示すものなのである。
 一体、何故に、このようなギャップができたのか。この原因をさぐりあて、その克服を実際に実践しない限り、いくら政治家たちが、平和を唱え、不戦を誓い、アジアとの友好を叫んでも、決してアジアの人民は信用しないであろう。

 靖国神社と天皇制国家との歴史的関係

 まず、靖国神社とは、一体、どのような神社なのであろうか。靖国神社は、日本の神社の中では、比較的新しい神社であり、明治維新によって新たに創建された、天皇制国家が必要とした神社である。
 王政復古を唱えた明治維新は、祭政一致、政教一致を目指した。廃仏毀釈による神仏習合の破壊・神仏の分離、古代日本の独特な官制である神祇官の復活、全国各地の諸神社の整理統合、そのうえに伊勢神宮を頂点とする全国神社のヒエラルヒーの下への各神社の組み込み(階層序列化)などの諸政策を推し進めた。一八七一(明治四)年の太政官布告、ならびに郷社定則などにより、全国の神社は、基本的に、官社(官幣社、国幣社)―府県社―郷社―村社―無格社の五段階のいずれかに所属させられ、序列化させられた。
 だが、欧米諸国は長い宗教対立の歴史の教訓から、政教分離を原則とし、国教を認めなかった。不平等条約の改正を国是とした維新政府は、この事態に対処するために、一八八二年頃には、祭祀と、宗教活動(布教など)を分離し(これを分離しない神道は教派神道として宗教の一つに数えられた)、国家神道は祭祀のみであるから一般の宗教ではなく、諸宗教に超越した非宗教であると、神社神道=非宗教説なるものを唱えて、欧米諸国との摩擦を切り抜けた。しかし、神道は実質的に国教であり、他の宗教は弾圧され抑圧され、戦前日本では、天皇教=国家神道の下で、信教の自由はなかったのである。
 国家神道の確立とともに、維新政府(後の政府もまた)はまた、新たに神社を創建し、天皇制国家のイデオロギー装置を強化拡大している。新たに創建されたものは、@靖国神社、護国神社など、天皇制国家のための戦没者などを祀る神社、A湊川神社など南朝方「忠臣」や皇室を尊敬するかつての武将などを祀る神社、B明治神宮など天皇、皇族などを祀る神社、C朝鮮神宮など植民地につくられた神社などがある。
 靖国神社は、もともと一八六九(明治二)年に、東京の九段坂上に招魂社として創建され、七九(明治十二)年に靖国神社と改称され、別格官幣社となった。祭神は、幕末・明治維新やその後の戦死者など「国事に殉じた」人々である。したがって、敵国人は祭神にはされず排除されているだけでなく、日本人でも、西郷隆盛など西南戦争で亡くなり賊軍とされた戦士たちもまた排除されている。逆に戦前、植民地出身者でも、日本帝国の侵略戦争に参加させられ戦死した人達も、遺族が拒否しても勝手に祭神とされている。日本の中世・近世では、戦死者は敵味方の区別なく慰霊するというのが、伝統であったが、近代国家の形成は、これを破棄し、きわめて排外主義的な慰霊に転換したのである。なお、靖国神社は、陸軍省と海軍省の所管のもとにあった。
 東京招魂社と同様に、幕末・明治維新期の「国事殉難者」を祀る招魂社は、全国各地に創立されていた。それらのうち、一八七六年までに創立された一〇五社が、一九〇一(明治三四)年に、神饌料・祭祀料・修繕料を国庫から下附される官祭招魂社とされ、また一八七七年以降に創立された招魂社は、三三社あったが、これらは私祭招魂社とされた。これらの招魂社は、一九三九(昭和一四)年にすべて護国神社と改称された。そして、道府県当たり各一社を指定護国神社として府県社に準じ、他を指定外護国神社として村社に準ずるものとされた(内務省所管)。
 靖国神社と護国神社は、形式的には、本社・分祀という直接の上下関係にはない。だが、“護国神社の祭神は靖国神社の祭神とす”という規定から、道府県の指定護国神社は実質的には、靖国神社の道府県分祀といえる。靖国神社―指定護国神社―指定外護国神社というヒエラルヒーのさらに最末端には、町村あるいは大字の忠魂碑があり、靖国神社体系もまた全国津々浦々に網の目のように張り巡らされてされていたのである。
 こうして、戦前の国家神道は、伊勢神宮を頂点とするヒエラルヒーと、靖国神社を頂点とするヒエラルヒーという、二つの体系があったのである。そして、これら二つの体系の頂点には、神話上の天照大神の子孫とされた天皇、また大元帥として軍隊を統率する天皇が君臨した。
 まさに、靖国神社とそのヒエラルヒーは、近代日本の国策に沿い、戦死者を「英霊」なる者にまつりあげ「顕彰」し(祭神に選び決定する最終権限は天皇にある)、それを媒介に生者を侵略戦争と戦争体制に動員させ、戦争政策を鼓舞する最大のイデオロギー装置として、機能してきたのである。したがって、日本帝国主義のかつての植民地の人民や日本軍の侵略を受けた国々の人々が、靖国神社を「軍国主義の象徴」として見ることは、全く当然のことなのである。

 戦後も軍国主義復活の拠点

敗戦後、占領軍の支配の下で、国家神道は解体され、靖国神社は単立の一宗教法人となった。だが、「宗教法人『靖国神社』規則」の第三条では、宗教法人靖国神社の創建の目的として、「本法人は、明治天皇の宣(の)らせ給ふた『安国』の聖旨に基づき、国事に殉ぜられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ、本神社を信奉する祭神の遺族その他の崇敬者を教化育成し、社会の福祉に寄与しその他本神社の目的を達成するための業務及び事業を行ふことを目的とする」としている(奉斎とは、つつしんで祀ること)。基本的に、靖国神社は、戦後も「国事に殉ぜられた人人を奉斎し、神道の祭祀を行ひ、その神徳をひろめ」ると、戦前同様の活動を継続しているのである。
靖国神社の宗教的行為の核心の一つは、すでに祀られている神々に新たな戦死者などを合わせて祀ること、すなわち合祀である。だが、この合祀は靖国神社の力だけでは、そもそも不可能なことなのである。祀るべき戦没者などの氏名、階級、所属部隊、死亡日、場所、本籍などは、靖国神社の調べだけではとても調べつくせるものではなく、また、そのためには膨大な経費がかかるからである。この経費を国庫から支出せよ、という要求は、さすがに戦後憲法の政教分離の原則から退けられた。しかし、祭神として祀るべき者の調査は、国家はひそかにおこなってきた。それは、「厚生省引き上げ援護局長」の名によって、一九五六年四月十九日付で各都道府県に通知された「靖国神社合祀事務協力について」で明白である(この通知は、田中伸尚著『靖国の戦後史』岩波新書に資料として掲載されている)。
 これは、一九七三年七月いらい国会で取り上げられ、一九八五年十一月六日の参院予算委員会でも、旧社会党の野田哲議員によって違憲性を厳しく追及された。この時、政府も答弁に混乱し審議も中断した。そして、当時の増岡厚相はついに不適切だったと認め、一九七一年に、五六年の厚生省通知を廃止した、と答弁した。だが、それは靖国神社の合祀に対する事務協力が無くなった、ということを意味していなかった。たしかに厚生省は、一九七一年二月二日付の各都道府県宛文書で、五六年の文書を廃止すると通知したが、その八日後の二月十日には新たな通知を出し、「合祀」や「祭神名票」などの用語は注意深く避けつつ、実際には合祀協力の継続を指示しているのである(これも田中前掲書に掲載されている)。今日、担当役人によると、靖国神社への情報提供は八六年までおこなっていた、といわれているが、果たしてその後も継続しているか否かは明確ではない。
 自民党は、戦前の神社神道=非宗教説の考えに基づいて、靖国神社国家護持の法案を一九六九年六月の初提出から七五年の法制化断念にいたるまでの間、五回、国会に提出した。靖国法案は、明らかに戦前の祭教一致=国家神道の復活を狙うものであった。だが、キリスト教や浄土真宗の遺族の合祀取り下げ運動や、津地鎮祭違憲訴訟・自衛官合祀拒否訴訟などの闘い、それに反自民の野党や総評などの労組の運動などが連携し、靖国神社国家護持法案は挫折させられた。戦後憲法の下では、国家神道のあからさまな復活は不可能であった。靖国神社国家護持に失敗した支配層は、その後、迂回戦術に転じ、天皇や首相・閣僚の公式参拝を画策した。
 ところで、天皇裕仁は、戦後憲法が施行していらい六九年十月(靖国神社創立百年に当たる)に至るまでに、六回、同神社を参拝している。いずれも、「私的」なものとされた。憲法に定める政教分離原則からすれば、天皇といえども「公的参拝」は憲法違反となるからである。それ以降、天皇の参拝は無かったが、七五年九〜十月の天皇訪米後もまもなく、十一月二十一日に突然参拝した。これには、社会党、共産党や、総評、日本宗教者平和協議会などが反対し、以降、昭和天皇の参拝はできなくなった。
 この間、十五年戦争の戦犯の合祀がひそやかに行なわれている。靖国神社は、前述したように厚生省の協力をえて、すでに一九七〇年までには、BC級戦犯の刑死者・獄死者の合祀についてはほぼ終了していた。だが、A級戦犯の合祀については、世論を配慮して保留してきた。しかし、一九七八年十月十七日、秋の例大祭の前日にA級戦犯を合祀している。この事実が、ようやく世間に明らかになったのは、半年後の七九年四月十九日付『朝日新聞』の報道によってである。『神社新報』(四月三十日付)によると、靖国神社はA級戦犯の合祀について、同神社崇敬者総代に諮ったところ、A級戦犯だけ合祀しないのは「外国の手によってなされた一方的な極東軍事裁判に屈することになり、神社としての責任は大きい」として、「祀る」ことで一致した、といわれる。ただ合祀の時期については「国民感情」を考慮して、伸ばしていたが、松平永芳宮司の就任(七八年七月)を機にして合祀が決定された。
「勝者の裁きだ!」として、極東軍事裁判を批判するのは、一般的に超右翼に見られる考え方である。しかし、この裁判に限界があるとしても、朝鮮・台湾・サハリン・満州(中国東北地方)などを植民地にし、さらにアジア諸国へ侵略戦争を拡大した犯罪性は、どのように歴史を偽造しようとも免れるものではない。
 支配層は、当時の中曽根首相の「公式参拝」がアジアの諸国から猛烈に抗議され中止した事件の後も、執拗に首相や閣僚などの参拝を画策してきた。小泉首相の頑固な参拝継続もまた、この流れのひとつである。では、一体、何故に、頑迷にも靖国神社参拝を続けるのであろうか。それは、一つには、たしかに他者からの批判を冷静に受け止めず、逆に、ムキになって反抗する、という小泉首相の性格も一つにはある。それと同時に、かつてとは根本的に異なる政治情勢がある。それはいうまでもなく、「戦争ができる」体制が着々と推進され、実際に戦地イラクに自衛隊が派兵されている状況と、それに連動して、自民党の「悲願」である改憲―「九条改正」が、きわめて切迫するという状況である。靖国神社を何らかの形で「公的」に再浮上させることは、「戦争ができる国家づくり」の最期の仕上げなのである。 (終)