1・23抗議集会
  「関西生コン1・13弾圧」に大反撃始まる
    中小の業種別運動は闘う

 一月十三日、大阪府警は、全日本建設運輸連帯労組関西地区生コン支部の武健一委員長ら四人の執行委員を不当逮捕し、支部事務所・自宅など三十ヶ所余りの家宅捜索を強行した。
 被疑事実としてあげているものは、一に、関西生コン支部によるアウトサイダー業者に対する協同組合加盟促進活動が、強要未遂および威力業務妨害罪に、二に、武委員長が機関決定を経ずに組合資金を知人の生コン会社に貸し付けたことが背任にあたるというもののようである。
 これらは、ゼネコンや大手セメント会社などによる業界支配に反対し、労働者の雇用安定と中小企業の経営安定の実現を目指してきた連帯労組・関西生コン支部の闘いへの弾圧である。とりわけ、九四年より、連合・交通労連生コン産業労組や全港湾大阪支部とともに「生コン産業政策協議会」を結成し、建設工事の減少下の過当競争から生コンの値崩れ=業界共倒れの危機を打開し、大多数を占める中小企業の生コン産業再建とそれを通した労働者の雇用安定をめざす業界再建策を、労働組合運動として進めてきた事に対するセメント、ゼネコン、権力による恐怖からの弾圧であった。
 不当逮捕後ただちに反撃が開始された。翌十四日の連帯労組(連帯ユニオン)近畿地本の旗開き集会は、約五百名近い抗議集会となった。
 一月二十三日には、午後四時より、前述「生コン政策協議会」と連帯労組近畿地本の主催で、「関西地区生コン支部にかけられた業種別運動つぶしを目的とした不当弾圧に対する緊急抗議決起集会」が開かれた。会場のエルおおさかのエルシアターは定員八百名だが、参加は千百名余の労働者が集まり、通路に座り、会場からあふれ、中継放映で多くが参加するという大集会となった。
 集会は、関生太鼓に始まり、生コン産労の坪田委員長が主催者を代表して挨拶、武洋一関生副執行委員長が基調報告を行った。武副委員長は「弾圧にひるまず、更に業種別運動をおしすすめ、弾圧をはねかえしていく」と、明確に述べた。
 続いて全港湾大阪支部の加来委員長が決意表明。大阪労働者弁護団より中島弁護士が、弾圧の不当性を明らかにする挨拶を行った。続いて、朝鮮総連、韓統連、中小企業組合総合研究所の和田貞夫さん、反戦・福祉ネットワークの国賀泉佐野市議、大阪平和人権連帯会議、広範な国民連合、ユニオンネットワークと全労協を代表して前田裕晤さん、国労熊本闘争団、港合同、動労千葉等より支援アピールがあった。途中で韓国式シュプレヒコールを参加者と共に行う工夫もあり、最後に全日建連帯中央本部より小谷野さんが挨拶を行い、そして戸田ひさよし近畿地本委員長が閉会のあいさつを行った。
集会参加者は、その後、府警まで抗議と釈放要求のデモを行った。
関生支部に対する弾圧に対し、抗議し、連帯していこう。(関西通信員Si)


04〜05年「第35回釜ヶ崎越冬闘争」貫徹さる
 仕事を軸に支援策を出せ!

 〇四〜〇五年「第35回釜ヶ崎越冬闘争」が闘い抜かれた。
 まず十二月二十日の夜、大阪府福祉人権センターにて「越冬闘争支援連帯集会」が約八十名で開催された。今年の越冬闘争のスローガンは、一、野垂れ死に攻撃を許すな! 一、仕事を軸に支援策を出せ! 一、戦争への国作りを許すな! 一、自衛隊はイラクから撤退せよ!である。この二十日には、財務省が示した〇五年度予算原案で、特就−特別清掃事業の基金となっていた「緊急地域雇用創出特別交付金」の打ち切りが示され、厳しい状況の中での越冬闘争突入となった。
 二五日・午後四時より炊き出しが始まり、五時半より「越冬闘争突入集会」が三角公園で三百名の結集で開かれた。まず、越冬闘争実行委を代表して山田さんが、交付金打ち切りの厳しい情勢下、あくまで公的就労確保をめざしていく中で越冬闘争を貫徹するとの基調を提起した。続いて釜ヶ崎キリスト教協友会、釜ヶ崎連帯委員会、野宿者ネットワーク、釜ヶ崎講座、医療パトを担当するわてら釜ヶ崎、越冬まつりを担当する文化体育班から決意の発言があった。最後に釜ヶ崎反失業連絡会共同代表の本田さん、釜ヶ崎日雇労組の大戸さんがまとめをおこなった。続いて映画『郡上一揆』が上映され、また社会医療センター前では一日目の「布団しき」が行なわれた。
 夜九時四十五分、医療センター前に「医療パトロール」の参加者が集合、パト中の諸注意と意志確認が行なわれ、十時にパトロール出発。この日の釜ヶ崎での野宿労働者は南まわり(主に地区内)で百八十名、北まわり八十名であった。医療センター前の布団しきには二十二名が確認された。十八日間、年明け十日までにおよぶ越冬闘争の開始である。
 二九日からは、南港臨時宿泊所の受付開始。昨秋から仕事が従来より西成労働センターでも増加する傾向にあり、仲間の中にも少し活気が出てきた。しかし、市内八千から一万に達する野宿労働者は減っていない。釜の労働者が高齢化し、アブレにより野宿を強いられる一方、新たに野宿に追いやられる労働者が後を絶たないからだ。初日の受付だけで一四七一名が詰めかけ、却下は一名だけだった(ひやかしだったとか)。
 寒空の下での野宿(アオカン)は命の危険が多大だ。釜ヶ崎のシェルターや南港臨時宿泊所など使えるものは利用し、生きて春を迎え、反失業・公的就労要求の闘いに参加してほしいと、毎日発行されている『日刊えっとう』は呼びかけている。
 また二七〜二八日には医療連によって、机だし(医療相談)も行なわれた。医療を受けながら越冬せざるをえない仲間も多いからだ。
 三十日より一月三日までは集中期だ。炊き出しも、大晦日は昼夜二回、三が日は日三回と増える。三十日には、集中期の突入集会・「南港臨泊入所状況報告集会」が三角公園で行なわれ、映画『私をみつめて』が上映された。
 この日、夜八時からは、「人民パトロール」が始まる。野宿の仲間を巡回し、安否を尋ね、毛布やカイロを配る。地区外へ拡大する野宿者へも声をかけるべく、三十日は釜ヶ崎地区内、三十一日は、若者達の襲撃で殺された藤本さんの追悼を込めてナンバの戎橋へ行って献花を行ない、元旦は梅田・大阪駅に、二日は天王寺へ行き虐殺された小林さんを追悼、三日は日本橋へと、「人民パト」は連日二百名で取り組まれた。
 三十一日からは「越冬まつり」だ。今年は労働者が参加する「のど自慢大会」や「労働者名人会」という企画が盛り込まれた。三角公園ステージではバンド演奏、恒例の曽根恵子さんの演歌。年越しソバが出され、釜ヶ崎も年明けに。元旦からはさらに賑やかに、卓球大会、餅つき、ソフトボール大会と続き、ステージでは三上寛さんの飛び入り出演もあった。
 四日には、御用始めの行政に対しての「お礼参り」デモが始まった。朝七時半、センターに集合して地区内デモの後、朝食をとって出発。例年より少ないが約八十名が堺筋を北上し、大阪市庁に到着。代表団が市庁舎に入り要求書を提出、さらに府庁にも提出した。
 この府・市に対する要求は、一、国に対して雇用対策予算の確保・特別就労事業の創設を働きかけること、二、国土交通省近畿整備局に仕事出しをするよう働きかけること、三、高齢者輪番就労の〇五年度予算について最低限現状維持を図ること、四、「あいりん職安南分庁舎跡地」を「ホームレスの自立支援等に関する特別措置法」が存続する間、職業訓練や職場適応訓練事業等の実施場所として活用すること、である。市に対しては、さらに各区に「生活ケアセンター」あるいは「仮設避難所」を設置すること、を加えている。
 府・市の独自事業として特別就労枠が五十名で維持されてきたことは評価できるし、支援法に基づく府・市の基本計画でも就労の問題が重視されてはいるが、従来からの「箱もの」重視の姿勢は変わっていない。国の交付金という財源がなくなったら事業縮小、では許されない。
 なお「釜ヶ崎講座」は三日、「越冬ツアー」を行ない、その後越冬闘争へ参加した。昨年に続き、講座の講師をつとめた水野阿修羅さんのガイドで、釜ヶ崎の「仕事と芸能」をテーマに、十名が釜ヶ崎と周辺を探索した。改めて釜ヶ崎の現状を歴史の中から理解できて、好評であった。
 越冬闘争終了後の一月十六日には、東京・山谷での日雇全協総決起集会にマイクロバスで決起した。(記事別掲)
 さらに二月一日には、新「勝利号」(釜日労のバス。このバスは歴代、釜の労働争議に、各地区の集会へ、三里塚へと行動の足となり、関西の闘う仲間にも利用され、釜ヶ崎の象徴になってきた。今回は四台目になる)に乗って約五十名が、大阪市に対し四日に提出した要請書の回答を求めて追及行動を行なった。二月三日には大阪府へも追及行動。
 釜ヶ崎での反失業・公的就労確保の闘いは、休むことなく継続されている。(関西Si通信員)
 
 
東京・山谷
 1・16日雇全協反失業総決起集会
  「野宿しないですむ仕組みをどう作っていくのか」

 一月十六日、東京の山谷・玉姫公園で、佐藤満夫さん虐殺20ヵ年、山岡強一さん虐殺19ヵ年弾劾・追悼、日雇全協反失業総決起集会が、二百名の結集で開催された。
 最初に釜の労働者が立ち、反失業闘争だけでなく、亡き藤井さんとともに沖縄、泉州などのたたかいに積極的に参加していた「おかあさん」が亡くなったことを報告。そして司会が「二〇〇五年も共に闘い抜く集会を始めたい」と開会を宣言した。
 発言は、山谷福祉会館から。アジア共同行動、ATTAC・JAPANなどからの連帯アピール。大阪の公園から。新宿連絡会から、と続いた。新宿連絡会は、勝ち取った施策を利用してアパートに移った仲間、路上に残った仲間の団結を創っていきたい、仕事づくりを進めていくと表明した。さらに、渋谷野自連、争議団連絡会議とつつく。
 締めくくりとして日雇全協各支部が、釜日労、笹日労、寿日労、山谷争議団の順に発言した。釜日労からは「野宿しないですむ、野たれ死にしないですむ仕組みをどう作っていくか、皆で議論しいく必要がある。今年はそこら辺をどれだけやれるかが課題かなと考えています」と提起があった。
 集会後、山谷一周のデモを貫徹し、交流会で親睦を深め、新たな年のたたかいへと全国に散会した。