石原・東京都の枝川朝鮮学校つぶしを許すな!
  民族教育防衛に連帯を

 敗戦後の一九四六年、江東区・枝川には「民族学校」が朝鮮人の手によって作られた。それ以来、東京都などの不当な圧力と闘いながら、枝川の在日朝鮮人たちは地域の日本人たちの支援も受けて、この学校・東京朝鮮第二初級学校を存続させてきた。
 ところが東京都は昨年十二月になって突然、「この学校の敷地の一部と校庭の一部の土地を明渡せ、不法に占有していた十二年間の賃借料六億余りを支払え」などという信じられない訴訟を、学校法人東京朝鮮学園に対して起こしてきたのである。朝鮮学校の自主的な運営も厳しい状況にさらされている現在、これは地方権力が在日朝鮮人民の民族教育を圧殺するに等しい。重大な差別であり犯罪である。
 東京江東区の枝川地区に朝鮮人が居住するようになったのは、戦前の日本政府の朝鮮人差別政策に起因する。枝川は昭和の埋立地であり、埋め立てが完了した一九三〇年頃は塵芥処理工場が建築され、水はけの悪い悪臭にさらされる地域であった。一九三六年東京市は、東京オリンピック開催が決定(戦争で中止)した「整備事業」として、一千余りあった朝鮮民衆のバラックの強制撤去を強行し、枝川地区に「簡易住宅」を建設したのである。このような経過を経て、枝川地区は東京でも有数の朝鮮人の街として発展していった。
 しかし、その開発は、自力更生、刻苦奮闘によるものであり、行政が積極的に街づくりに協力する姿勢は、戦前も戦後もみられなかった。それどころか敗戦後の枝川は、何回も警察権力の弾圧と介入にさらされた。血のメーデー事件のあと、運河で囲まれた枝川は機動隊によって包囲され、三十六名もの逮捕者がでた。街の住民はそろって弾圧に抗議し、こどもたちは警察車両の燃料タンクに砂をつめて、何台もの車をつぶしたことなどが語り継がれている。当然、民族教育も日本の敗戦と同時に高揚し、一九四六年には朝鮮学校が作られた。現在、東京都が目の敵にしている東京朝鮮第二初級学校がそれである。しかし、この学校の運営についても、東京都は敵対と不誠実な対応を繰り返し、朝鮮人としての誇りと自覚を伝えようとする民族教育の当然の要望に応えようとしてこなかった。
 一九七二年、美濃部都政時代の東京都は、二十年の契約で学校の土地使用貸借契約を、東京朝鮮学園との間で交わした。そして、その貸借期限が切れた時から土地払い下げ交渉が継続して行なわれていた。交渉の結果、住宅地については二〇〇〇年に廉価で払い下げが行なわれた。学校の敷地についても同様に合意されるものとみられていた。
 ところが、二〇〇二年九月小泉訪朝後に日本で巻き起こった北朝鮮敵視の大合唱の中で、東京都に対して「東京朝鮮学園が、都の土地を不法に占有している」という住民監査請求が出されたのである。都は、この監査請求を利用して、交渉継続の態度を豹変させて、なんと賃借期間が過ぎた以降の土地使用料として六億二千万円と、年額七千六百万円の賃借料を払えと訴訟をおこしたのである。
 朝鮮を植民地にして、数え切れない朝鮮人を弾圧し、日本に強制移住させ、謝らないばかりか、自主的に続けてきた民族教育を消してしまおうとする東京都、石原都知事の暴挙を絶対に許してはならない。
 現在東京都が訴えたこの裁判が進行中であるが、去る七月二四日、東京江東区の総合区民センターで、「『とりあげないでわたしの学校』―枝川朝鮮学校支援 都民集会 in 江東」が、三百名を越える人々の結集で成功裏に開催された。この集会は、東京都の不当性を世間に訴え、東京東部の多くの市民団体や労働組合の日本人と、枝川などの在日朝鮮人が共同して、この差別と犯罪に対して闘うために行なわれた。
 集会では、最初にビデオ『朝鮮の子』が上映された。これは一九五四年当時の、当時は都立であった朝鮮学校への廃校攻撃から学校を守る闘いを、枝川を舞台に描いた貴重なものであった。
 リレートークでは、田中宏さん(龍谷大学)が戦後日本の民族学校に対する政策の変遷とその問題点について概説し、中沢康夫さん(江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会)が枝川の歴史を解説した。そして、枝川朝鮮学校のオモニ会元会長・現相談役の金敬蘭(キム・キョンラン)さんが、「学校は、私たちの体の一部、私たちの命」と題する文を発表し「私はこれからも八十歳でも九十歳でも死ぬまでウリハッキョ(東京朝鮮第二初級学校)のために命かけて、子どもたちの民族教育を守っていきます」と訴えた。
 続いて、現在の枝川を描くビデオ『ぼくらの学校なくなるの?』を上映したあと、枝川朝鮮学校の当事者の皆さん、校長の宋賢進(ソン・ヒョンジン)さん、オモニ会会長の宋智枝さん、卒業生の若い男女お二人が、それぞれ民族学校への思いと東京都の不当性、日本人への共生のアピールを行なった。
 また、枝川裁判弁護団長の新美隆さんが、この裁判の課題を語った。新美弁護士は、「美濃部都知事は六八年に朝鮮大学を各種学校として認可し、また枝川についても無償貸与が三十年続いていた。石原都政で大きな逆転が生じている。この裁判は、戦後初期の民族教育防衛闘争以来の分岐点、民族の共生がどうなるかが懸かっている」と語った。
 集会は最後に、一、東京都はただちに訴訟を取り下げよ。二、東京地裁は、日本の歴史責任また国際的に確立されたマイノリティの民族教育権の観点から、都の不当な訴えを退けよ。三、国と都は、朝鮮学校をはじめ民族学校に対する差別を止め、学校教育法第一条に定める「学校」と同等の処遇を保障せよ。以上三点を確認する集会アピールを採択して終了した。
 東京都の不当な提訴よる裁判はまだ始まったばかりで、第二回公判は十月に開かれる予定である。差別と排外主義をあおり、在日朝鮮人自身による民族教育をもみ消そうとする東京都と石原都知事に強く抗議し、地域や全国の多くの仲間にこの暴挙を訴え、この闘いに勝利しなくてはならない。(東京東部H通信員)

8・29
第11回「統一マダン」東京
  イラク派兵反対
         国家保安法撤廃かかげ


 八月二九日、第十一回統一マダン東京が、小雨降る荒川区の旧真土小学校の体育館で行なわれた。
 過去十回の統一マダンで屋内において行なわれたことはなく、参加者がどれほどになるか危ぶまれたが、出店が出揃った午後四時頃には、近隣の在日同胞や在住区民、韓青青年や学生、朝鮮学校の生徒たち、日韓連帯運動をたたかう労働組合、民衆住民運動団体の人々が続々とつめかけ、今始まらんかと熱気にあふれていた。
 韓青東京本部によるオープニング「プンムルノリ」に続いて、韓統連東京本部の梁ピョンヨン代表の開会あいさつで幕を開けた。この統一マダンは、朝鮮半島南北民衆の文化芸能を在日同胞が、それに加え日本人民衆も、民主統一の思いをこめて一日参加・鑑賞し、また語らい食べるという、荒川地域でも民衆連帯の運動圏でも、夏の一日のお祭りとして定着している。
 統一マダンは、一九八七年の韓国民衆大抗争によって高まった朝鮮半島の自主的統一の願いを受けて、南北海外の韓国・朝鮮民衆が汎民連をそれぞれ組織し、九一年に汎民族大会を八月十五日の解放記念日に開催したことがきっかけとなり、東京、大阪で汎民連日本地域本部が呼びかけて開催されてきたものである。分断から統一への、朝鮮半島を巡る情勢の変化を反映する祭りであった。
 二〇〇〇年の6・15南北共同宣言の以降は、民衆自身の手によって統一を実現するのだとして、この統一マダンに北も南も積極的に参加する姿がみられる。
 韓国ノ・ムヒョン政権は、国家保安法の改廃や日帝支配の残滓一掃問題では一定の前進面を見せているが、韓国軍のイラク増派ではそれをついに強行し、反民衆の立場をつらぬいている。当日の会場においても、統一問題とならんで、イラク反戦、国家保安法撤廃の要求が高く掲げられていた。
 またそれらと共に、東京都・石原都政による枝川の朝鮮学校廃校化の策動に対する、憤りにあふれた展示も掲げてあった。
 最後に、部落解放同盟の高岩昌興都連副委員長が閉会のあいさつを行ない、来年の再会を誓った。終了後、周辺の韓国・朝鮮料理の店は、統一マダンの参加者・関係者で真夜中までにぎわった。(東京F通信員)


山場を迎えた狭山差別裁判再審闘争
  新証拠の事実調べを

 狭山事件の再審闘争は、夏から秋にかけて大きな山場を迎えている。
 一九六三年五月二十三日、部落差別による見込み捜査で石川一雄さんが別件逮捕され、六四年一審死刑判決、二審第一回公判で石川さんが無実を訴えて以降、狭山差別裁判糾弾闘争が被差別部落大衆と労働者人民の大きな共同闘争として闘われてきた。七四年十月三十一日の高裁寺尾判決で無期懲役、七七年八月九日の最高裁上告棄却で「確定判決」となったが、部落差別を利用した冤罪事件としての狭山事件を許さない闘いは、再審闘争として止むことはなかった。狭山再審闘争は不当にも第一次再審請求が棄却され、その後、石川さんは「仮釈放」となったが、殺人犯・無期懲役の濡れ衣は確定したままである。第二次再審請求も一昨年以降は、最高裁に対する特別抗告審闘争という最終段階となっている。
 このかんの再審闘争でも新証拠などの事実調べがまったく行なわれていないが、現在の抗告審闘争では、「斎藤第5鑑定」「第5鑑定補遺」が焦点となっている。この新証拠は、犯人が残した脅迫状での「抹消文字」「二条線痕」の存在を示しており、この犯行前の万年筆使用の痕跡は、当時万年筆と無縁だった石川青年の無実を明らかにする新たな証拠となっている。
 これらの新証拠が最高裁に昨秋提出されて以降、今年六月、ルポライター鎌田慧さんによる『狭山事件――石川一雄、四十一年目の真実』(草思社)が出版され、狭山事件への新たな社会的関心が広げられた。鎌田さんはこの本で、字が書けない者が文字で、つまり脅迫状を書くことで人を脅す、ということをするだろうか、という根本的疑問を提出している。
 鎌田さんを事務局長とする「狭山事件の再審を求める文化人の会」は、七月一日に最高裁要請行動を行なうとともに、狭山事件の公正な裁判・事実調べを求める100万人署名運動を呼びかけた。これに呼応しつつ全国各地で、今こそ石川無罪をかちとる再審闘争、反差別共同闘争の再強化が進められるべき時である。
 こうした狭山再審闘争の新たな情勢の中で、東京では去る七月十五日、江東区亀戸で、狭山江東地区集会がもたれた。江東地区では、長年の地域共闘の成果として、部落解放同盟を中心に、労組、市民団体が「部落解放江東地区共闘」を結成しており、日ごろ、23デーのビラまきなど、日常的なとりくみを行なっており、東京都の中でも,狭山闘争、部落解放の諸闘争において、先進的な闘いがもたれてきている地域である。
 今回の集会はその江東共闘が、狭山差別裁判糾弾、事実調べ・全証拠開示要求、特別抗告審闘争勝利をかけ地域の力を結集して開催したものである。とりわけ今回、不当逮捕四十一周年をむかえた石川一雄さん、早智子さん夫妻をまねき、特別抗告審闘争を攻勢的に闘っていく情勢にあることを明らかにした点で、意義ある集いであった。
 集会では、江東共闘代表幹事・安田さんのあいさつにつづいて、部落解放同盟江東支部書記長・飯塚さんの集会基調提案がおこなわれた。基調は、狭山闘争の特別抗告審の現状では、脅迫状の文字が、石川さんの自白のようにボールペンで書かれたものではない事を明らかにした齋藤第5鑑定を始め、新たな証拠が提示されており、高裁による事実調べを要求すべきときであることを、あらためて強調した。
 続いて、石川一雄・早智子さん夫妻のアピールがおこなわれ、そのなかで、石川一雄さんは、鎌田慧さんの新著が話題になっていることにふれ、ひさしぶりに世論の関心がたかまっている今はチャンスでは、と話され、なるほど、と思い知らされた。
 続いて部落解放中央共闘の安田さんより、齋藤第5鑑定およびその補遺の重要性について、とてもわかりやすい説明と位置づけがあり、大変良い講演であった。
 地域で闘う労組の決意表明のあと最後に集会決議があり、雨宮江東支部長の閉めで、集会をおえた。事実調べ、証拠開示の要求がいかに大事か、また、狭山闘争の勝利によって石川さんの殺人犯という汚名をすすぐことがいかに大事か、あらためて考えた集会だった。なお、集会にはおよそ150名が結集した。(東京東部A通信員)


8・30都教委包囲デモ  被処分者先頭に700名
  石原・横山の暴走とめよう!

 八月三十日、「石原・横山都教委の暴走をとめよう!8・30都教委包囲デモ」が東京・新宿西口の都庁へ向けて行なわれ、このかんの「日の丸・君が代」強制での被処分者をはじめ、七〇〇名近くの労働者・市民が参加して盛り上がりをみせた。主催は、五月に発足した都教委包囲・首都圏ネットワーク。
 参加者は西口近くの柏木公園に午後三時半に続々集結、まず、東京都教育委員会が入っている都庁第二庁舎を手つなぎで包囲する部隊数百名が先に出発するなか、集会が始まった。
 集会では、主催者あいさつとして多摩教組の見城さんが、「教員の権利だけでなく、日本がどちらへ行くかが懸かった分岐点、負けられない闘いだ」と檄を飛ばした。続いて「教育基本法の改悪をとめよう!全国連絡会」の呼びかけ人として高橋哲哉さん(東大)が、「戦後の憲法と教育基本法の制定によっても、この国の地金は変わっていなかったこと、それが今露出してきています。この闘いは、この国の地金を変える第一歩です」と訴えた。
 11・6教育基本法改悪反対全国集会(日比谷野音、午後一時半)への連帯を確認したあと、集会アピールを採択して、四〇〇名余で包囲デモへ出発。
 デモ隊は、「日の丸・君が代」強制反対!ただちに処分を撤回せよ!「再発防止研修」をやめろ!生徒の内心の自由を守れ!などとともに、「作る会」教科書の採択反対!憲法・教育基本法の改悪反対!などのシュプレヒコールを叫んで、巨大な都庁舎へ近づく。第二庁舎前では、先発隊と合流し、都教委を包囲する行動を成功させた。
 なお、この日の行動には、韓国・全国教職員労働組合(ウォン・ヨンマン委員長)からの連帯アピールが寄せられた。そこでは、右翼歴史教科書の採択を深刻に憂慮するとともに、「日の丸・君が代」強制に対し、「日本の軍国主義を復活させて教育労働者を統制」するものとして強く糾弾している。
 都教育委員会は八月二六日、中高一貫高としては来春開校する都立白鴎高校(台東区)の中一歴史教科書として、右翼グループ「作る会」の日本史教科書を採用する決定を強行した。小泉首相の靖国参拝への固執とともに、教科書問題でも韓国、中国などの国際的な批判が高まっているが、石原都政・横山都教委は「日の丸・君が代」強制大量処分(総計318人)に続いて、その反動振りを上塗りしたのである。
 石原・横山への包囲・批判をさらに拡大しよう。都教委包囲行動では、都内外の多くの区教組、市教組、そして都高教も賛同団体となり、組合枠を超えて教育労働者が多く結集た。11・6全国集会などを活用し、さらに連帯をおしひろげよう。(東京W通信員)


8・25住基ネット本格稼動から一年
  全国13地裁で差し止め訴訟が

 八月二五日、東京・文京シビックセンターで「住基ネット本格稼動一周年怨念大集会」が開かれた。主催は、反住基ネット連絡会。
 住民基本台帳ネットワークの経過をふりかえると、一九九九年に改正住民基本台帳法が強行採決され、二〇〇二年八月には大きな反対の世論を押し切って住基ネットがスタートした。この八月初旬に、わたしたち(住民登録者)すべてに固有の「番号」、いわゆる住民票コードが郵送されてきたことは記憶に新しい。翌〇三年八月には本格稼動、いわゆる第二次サービスとして「住基カード」が申請により交付されることとなった。
 集会では、西東京、杉並、横浜などなど住基ネット反対運動の各地からの報告、またアンケートで六九%が切断を可として切断をつづけている国立市の上原市長の報告、また「住基ネット差し止め訴訟」の弁護団事務局長・渡辺千古氏の報告があった。
 現在、運動の中心となっているのは、この全国十三ヵ所の地裁で闘われている差し止め訴訟(原告合計439名)といえるだろう。差し止め請求の内容は、ネットの中央である財団法人地方自治情報センターと都道府県に対し、原告の本人確認情報をネットから除くこと等である。憲法第十三条の人格権侵害、自己情報コントロール権が論点。また渡辺弁護士は、先行しているのが東京地裁民事25部であり、十月十五日の吉田柳太郎氏(長野県侵入実験の責任者)の証言が注目されると報告した。
 現在、住基カードの交付を求める人などほとんどおらず、忘れられたかのような住基ネットである。しかし、個人情報保護法の成立を口実として住基ネットに批判的だった自治体もほとんどが接続してしまい、システム自体は整えられてきている。反対の声が弱まれば、個人情報が追加され、徴税や保険、公安、有事体制で使えるシステムになるだろう。住民の利便性ではなく、政府の国民統制を強化するだけの住基ネットに改めて反対しよう。(東京W通信員)


8・12〜15
第33回釜夏祭り
  「釜ヶ崎講座」も
      現地ツァーで連帯


 八月十二〜十五日、今年も釜ヶ崎夏祭りが取り組まれた。
 「世界と釜ヶ崎に平和と笑顔を!」「野たれ死はごめんだ、仕事をつくれ!」「全世界で貧困で苦しむ民衆と連帯して、反戦・反失業・反差別・反グローバリズムを闘おう!」を中心スローガンに、当該労働者・市民・支援諸団体の連帯のもとに、三十三回目の活気あふれる夏祭りだった。
 さて「釜ヶ崎講座」は、去る七月十日、第七回釜ヶ崎講座の集いを開き、現地キリスト教協友会の小柳さんのご協力で、釜ヶ崎の主として教育から見た釜の子供の歴史と実際を学ぶことができた。
 今回はこれに続いて、毎年恒例の夏祭りに合わせた「釜講座・現地ツアー」の取り組みであった。
 三角公園ヤグラ下に午後三時に集合、今回は釜ヶ崎反失業連絡会の山田実さんの案内と解説で、このたび増設された避難シェルターの内部見学を皮切りに、市立更生相談所、特掃待機所、労働福祉センター、現在の「三徳寮」と順に歩き、九四年のセンター開放要求に始まる就労要求、寝場所・生活場所の要求のたたかいの歴史と、野宿に追い込まれざるをえない今日の国・行政の姿勢の実態の説明を受けた。
 午後五時過ぎ、三角公園に戻ると、これも恒例の「すもう大会」が熱戦の最中にあり、釜ヶ崎の大人も子供も一緒になり、汗だくの大声援だった。
 午後六時頃、三角公園のいつもの場所に掲げられた多くの運動家の遺影の前で、本田牧師主導による、今年一年間で倒れた、また寄せ場解放のたたかいの中途で圧殺された数多くの仲間のための、追悼集会が静かに進められた。本田さんらによるレクイエム演奏の中、死ななくてもいい、死ぬ必要もない仲間の魂がこれからの新しい世のさきがけとなるようにという主旨の祈りの中で、追悼の会は頂点を迎えた。
 八月十五日、釜ヶ崎夏祭りの最終日はメインステージでのライブ、盆踊りへと引き継がれ、熱い釜の夜を仲間の連帯で見事に彩った。
 野宿者全国二万五千人、抜本策を引き出すためには年二百億、五年で一千億円のホームレス対策基金を!の声のもと、釜ヶ崎、新宿、北九州の各ホームレス支援機構から署名要求の取り組みが発信されている。
 そしてこの実現のためにも、当該労働者とその廻りの市民、支援の仲間の更なる結び付きが強められなくてはならないだろう。釜ヶ崎と市民のより強いキズナのために、地道で実効的現実的な取り組みを、釜ヶ崎講座として今後も追求していきたい。(釜ヶ崎講座K)