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もりあがる中国「残留孤児」の国家賠償訴訟
  無責任で冷酷な政府を追及

 さる四月二十八日東京地方裁判所において、中国「残留孤児」国家倍償訴訟関東訴訟(第八回)が行われた。
  「普通の日本人として人間らしく行きたい」という「残留孤児」の切実な願いは、今、日本全国のあちこちの「孤児」たちが日本政府に対し、謝罪と倍償を求める裁判の形で盛り上がっています。
 その盛り上がりの流れは、一昨年の関東(東京)をはじめとして、大阪、名古屋、京都、徳島、岡山、兵庫、鹿児島、札幌へと拡大し、日本に帰国して永住している約二四〇〇名の約七割に近い「孤児」たちが原告として名乗りをあげ、並行して行われている請願署名は二七万人に達しています。
 中国「残留孤児」とは、第二次世界大戦末期の中国(旧満州)に、日本の中国への植民地政策として狩り出された満蒙開拓団の子どもたちのことである。当時の「満州」を支配していたのは、日本の関東軍であった。中国共産党の抵抗の拡大とソ連の侵攻などで情勢が悪化すると、関東軍は日本からの開拓団民や民間人を置き去りにし、我先にと撤収してしまった。残された開拓団民は、ソ連兵に虐殺されたもの、集団自殺を強要されたもの、難民として放浪している途中で病死するものなど、「残留孤児」の両親たちはほとんど「殺され」てしまい、「孤児」の中でもかろうじて親切な中国人にひろわれて生き抜いたものだけが、中国帰国者一世として日本に帰って来ることができたのである。
 その日本への帰国についても、日本政府は四十年以上も放置し(棄民政策)、永住帰国が本格化したのは一九七二年の日中国交回復後の一九八六年からであった。
 しかし、母国・日本を慕ってやっと帰国した「老孤児」に対する国の援護政策は冷たく、日本語教育や社会教育は極めて不十分で、個々人にふさわしい就職の斡旋など全く無く、「残留孤児」の約七割の人たちが生活保護を受けて生きていかざるをえない状態にある。 法廷では、「孤児」たちはたどたどしい日本語で、または中国語で、失われた過去の人生と現在の苦悩を訴えていますが、それに対する日本政府の態度は、冷酷きわまりなく、「ソ連の侵略が日本人孤児を生み出したのだから政府には関係がない 」とか、「日本への帰国が遅れたのは中国に問題があるからだ」とか、主張して責任逃れをしている。
 中国「残留孤児」はなぜ生まれたのか? それは明らかに日本の侵略戦争があったからであり、日本の軍隊が日本の人民を見捨てたからである。
 帝国主義の軍隊は自国の人民大衆を裏切るというのは、過去の歴史からみても一つの法則として成り立っている。日本は今、イラクに自衛隊が駐留し、非常に危険な状況にある。日本から再び、中国「残留孤児」のような犠牲者を二度と生み出さない為にも、また世界の反戦平和を守るためにも、この中国「残留孤児」の果敢な闘争を支援しようではありませんか