裁判員法案
 欠落する刑事訴訟手続きの抜本改善
   小泉「司法改革」に人権なし

 三月二日、小泉連立政権は、国民を裁判員として重大な刑事事件裁判に参加させる裁判員制度法案を閣議決定した。
 主権者とされる国民が、国家権力の発動の一つである裁判に裁判官とともに直接参加する制度自体は、しごく当然のことである。しかし、提出された法案は果たして日本の民主主義を発達させるものとなりうるのかどうか、慎重な検討が必要だ。
 最大の問題は、現在の日本の裁判と刑事訴訟手続きが抱える従来からの問題を改善することなく、裁判員制度によって国民が審理と判決に参加するようになっても、その司法参加は欺瞞であり、裁判員は「飾り物」にすぎなくなる危険性が高いことである。裁判員制度が意味のあるものとなるためには、いくつかの前提が必要だ。第一に、検察が自分に都合のいい証拠だけを裁判に出すのではなく、持っている証拠を全面開示すること。第二に、起訴前の供述調書を重要証拠とするやり方を廃止し、公判での証言を中心とする裁判にすること。第三に、えん罪の温床となっている起訴前の「代用監獄」制度を廃止すること、および起訴後から公判中にまでしばしば正当な理由なく続けられている長期拘留を廃止すること、などである。
 これらの前提的に問われる諸点は、えん罪事件を防ぎ、かつ裁判の不必要な長期化を防ぐことに有効であり、また裁判員の判断を容易にするものでもあるが、政府法案(それに関連しての刑事訴訟法改正案)では全く触れられていない。調書を取る過程の透明化ということは論議されているようであるが、むしろ、容疑者の供述調書は検察が起訴するかどうかの判断材料ではあっても、裁判の証拠としては原則として扱わないとするぐらいの改正が行なわれるべきなのではないか。黙秘権の保障と自白証拠の制限を規定する憲法第三十八条が、刑事訴訟法の実際の運用では厳守されていない。
 以上の問題以外にも、裁判官に対して裁判員が少なすぎること(裁判官三人に対して裁判員六人)、守秘義務が不必要な範囲にまでかけられていること(裁判終結後も生涯罰則が付いてまわる)、無作為抽出の候補者からの裁判所による裁判員の選任が公正かどうか、等々について多くの批判があげられており、総じて政府法案は、司法権力に国民を参加させてやるのだから、ありがたく義務を遂行せよという色彩が強い。
 小泉政権が掲げる「司法改革」は、この裁判員制度導入が目玉となっているが、資本主義的グローバリズムと企業サイドでの規制緩和という基調のなかで司法改革を進めるものとなっている。四月からロー・スクール(法科大学院)が乱立するが、これは内外経済一体化に伴う資本の要請である企業弁護士の大量生産を反映しているものである。司法を国民に身近にする、との美名にだまされてはならない。
 労働者人民がこれまで切実に求めてきた司法に対する民主的要求の要が、「裁判参加」にあったとは言えない。その要は、刑事訴訟手続きでの人権侵害の是正と、(刑事司法を超えた問題としては)憲法八十一条の違憲法令審査権を放棄して司法が行政の追認機関となっていることへの糾弾などにあった。今回の裁判員法案にみられる裁判への国民参加自体は、近代民主主義制度の常識ではあるが、政府・法務省の意図がどこにあるのか不明確である。欧米水準への形だけの拙速な後追いか、あるいは最近クローズアップされている「治安」について、国民も治安に責任を持て!とするインクルージョン的統治手法なのか、とも考えられる。人権、および国民の直接の主権行使という基調のなかの司法改革であれば、裁判参加の法案それ自体もかなり違ったものになるはずだ。
 議会諸野党は政府法案に対して修正させて成立へ、の気配である。しかし労働者人民の態度としては、政府法案には小手先の修正要求ではなく、一旦廃案にさせ、本当に求められている司法改革について国民的論議を先行させるべきだという態度で臨むべきである。(W)