日共・新綱領批判
 新時代の政治大再編に耐えられるか
  帝国主義分派への融合の道
                     深山 和彦

 日本共産党は、本年一月中旬に第二十三回党大会を開催し、新綱領を採択した。中央委員会議長の不破は、「綱領改定についての報告」の中で新綱領の特徴について、六十一年綱領の「民主主義革命」路線を「仕上げた」こと、「二〇世紀」を総括し「二十一世紀の展望」を明らかにしたこと、「未来社会論」において「過去の誤った遺産」を「総決算」し、「社会主義・共産主義の展望」を「あらためて解明」したことの三点を指摘した。日本共産党も、新時代の政治攻防を前にして、懸命の構え直しを行おうとしたということである。われわれは、新時代へ政治構造が大きく変動しはじめ、支配階級の二大政党体制に対する左翼の側の布陣と共産主義運動の再構築が切迫感をもって問われる中で、新綱領路線がこの党の行く末にいかなる結果をもたらすのか、注目し分析しておく必要があるだろう。

 議会主義の総仕上げ

 新綱領の第一の特徴は、改良主義と議会主義の総仕上げだという点にある。
 新綱領は言う。「現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、・・・民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主主義的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国家権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる」と。
 「民主主義革命」と称する資本主義の枠内での改良路線の中味は、以下のように提起されている。
 曰く、「日米安保条約を、条約第十条の手続き(アメリカ政府への通告)によって廃棄し、アメリカ軍とその軍事基地を撤退させる。対等の立場にもとづく日米友好条約を結ぶ」、「自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる」、「テロの根絶のための国際的な世論と共同行動を発展させる」、「天皇の制度は憲法上の制度であり、その存廃は、・・・国民の総意によって解決されるべきものである」「『ルールなき資本主義』の現状を打破し、・・・ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点を踏まえつつ、国民の生活と権利を守る『ルールある経済社会』をつくる」等々。
 しかしながら現代は、米帝を主柱とする国際反革命同盟体制とその下で発達した金融独占資本のグローバルな搾取体系が、人間社会の崩壊の危機を深めることで自己を肥大化させている時代である。同時に現代は、産業が成熟段階に到達したことで、産業(=資本)の発達を目的にする社会から人間の自由な発展を目的とする社会への転換が問われている時代でもある。労働者階級・人民も、生存の危機に迫られて、萌芽的質においてであるにせよ、資本主義社会に代わるもう一つの社会を模索し始めているのである。そうした中では、日本共産党の新綱領路線は、今日の民衆運動の発展を、既成の政治経済体制の枠内での改良に押しとどめ包摂するものとしてたち現われざるを得ない。
 もっとも、わが国の社会がおかれている当面の状況においては、新綱領路線が一時的に一定の前進的役割を果たすことは可能である。
今日、日本帝国主義ブルジョアジーは、世界市場再分割競争が激化し、旧来の社会=経済システムが行き詰まる事態を迎え、超大国・米帝にひたすら追従する路線で対処するのか、それとも独・仏帝国主義のように地域的な国家連合と統一市場の形成をテコに一定の自主性を保持する路線で対処するのか、路線的選択が厳しく迫られてきている。支配階級が抱えるこの路線対立は、世界市場再分割競争が激化するほど、また世界的に反米・反帝闘争が強まるほど、拡大していかずにいないものである。
 そしてこのかん日帝ブルジョアジーは、小泉政権の下で対米追従一辺倒路線を選択してきた。それは、アジア・イスラム世界との敵対と侵略国家への国家改造、民衆に対する監視システムの強化、労働者使い捨ての自由の拡大等々をもたらすものであった。この対米追従一辺倒路線を打ち砕くこと、そのために支配階級の内部矛盾をもしっかり利用することは、民衆運動発展の政治空間を押し広げる見地から、必要な政治課題となっている。
 日本共産党の新綱領路線は、対米追従一辺倒路線を破綻させるという当面の政治課題を達成する件からすると、一定の前進的役割を果たしうるものである。ただ、新綱領路線は「ヨーロッパの主要資本主義諸国」を手本にしていることからも明らかなように、帝国主義ブルジョアジー内部の一半の路線と融合する質を持ったものであることを、おさえておかねばならない。
 新綱領は、「民主主義革命」が資本主義の枠内での改良路線であると強調するだけでなく、そうした変革もあくまで「国会を通じて」行うとしている。この党は、人民大衆こそが革命の原動力であり、ブルジョア議会制度は利用の対象だとした立場から離れて既に久しい。大衆運動をブルジョア議会での議席を増やすための手段に落とし込め、いまや実態的に議会主義政党と化してしまっている。新綱領は、この実態を基礎に議会主義を完成させた訳である。
 だが皮肉なことに、この新綱領は、二大政党体制の浮上によってこの党が国会で多数を占める幻想が打ち砕かれたまさにその時に採択されたのだった。この党は、いまや、帝国主義ブルジョアジーの一半と手を結ぶことで議会主義政党として生き延びる道か、大衆運動に重心を置く道か、選択を迫られずにいない。これまでの流れからすれば前者が主流だろうが、後者も強まらずにいないだろうし、この党に分裂含みの流動が始まる可能性は低くないと見てよいだろう。
 
  ブルジョア民主主義的世界観への移行の完成

 新綱領の第二の特徴は、ブルジョア民主主義的世界観への移行を仕上げていることである。
 新綱領は言う。「国際連合の設立と共に、戦争の違法化が世界史の発展方向として明確化され、戦争を未然に防止する平和の国際秩序の建設が世界的な目標として提起された」「国連憲章に基づく平和の国際秩序か、アメリカが横暴をほしいままにする干渉と侵略、戦争と抑圧の国際秩序かの選択が、いま問われている」と。「国際連合」を天まで高く持ち上げている。
 だが「国際連合」は、米帝を主柱とする国際反革命同盟体制の構成環に他ならない。国際反革命同盟体制は、超大国の他の帝国主義諸国に対する一定の統制・支配を不可欠の要素とすることで維持されている世界的規模の諸国家の多様な同盟関係の総体である。この体制は、世界的な治安を確保し、ブルジョア民主主義制度と市場経済制度の導入を諸国に強要ないし促すことで、アメリカを筆頭とする帝国主義諸国の金融独占資本のグローバルな搾取体系の発達を支えてきているのである。そこでは、唯一の超大国の一定の横暴は、「制度」の内に組み込まれているのである。
 たしかに現在、「無理が通れば道理がひっこむ」を地で行ってるような米帝のイラク侵略戦争に対して、独・仏帝国主義やわが国の支配階級の一部もが自己の帝国主義的・階級的利害から反対の立場をとっている。そしてその際、「国連」の旗が、彼らの拠り所になっている。このような時に、超大国と他の帝国主義諸国の間の矛盾、わが国の支配階級の間の矛盾を利用して、超大国とその追従者たちを孤立させ民衆運動の発展をはかるために、「国連」を利用することはある。しかし、それは一時的なものであるだろう。
 「国際連合」を美化したこと、それは、この党が民主主義的帝国主義のスタンスに完全に移行したことを意味する。「次」の局面で、この党の誠実な人々は、深刻なジレンマに陥ることになるらざるをえない。
 また新綱領は、一九一七年に始まったロシア社会主義革命の変質について次のようの総括している。「レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には他民族抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ」と。
 ここでは、旧ソ連における政治的民主主義の否定を断罪しているのみで、その土台をなしていた官僚制国家資本主義という経済システムの問題を指摘していない。経済システムにおいて、管理する少数の人々と管理される大多数の人々への社会の分裂の拡大という問題があった。
 当時は、機械制大工業の発達途上の時代であった。機械制大工業の発達に伴う労働の細分化・専門化は、細分化・専門化された労働を統括する官僚機構を必要とする。必要は、共産主義の理想と矛盾するといった主張を押し潰して自己を貫徹した。さらにソ連邦という規模で、経済的諸要素の配分調整を、資本主義の発生の場である市場に委ねることを全面的にでなくとも廃絶していこうとするならば、当時の技術的その他の条件の下では、国家官僚機構の計画・調整機能に委ねる以外になかった。これらを基盤に、官僚ブルジョアジーが形成された。共産主義者は、この困難を党の「目的意識性」なり、「交代制」なり、「文化革命」なりで克服しようとしてきた。それはそれで、現代に貴重な教訓を残し、無駄ではなかった。しかし歴史の回答は、権力闘争における官僚ブルジョアジーの勝利だったのである。
 だが現代においては、産業の発達が成熟段階に達し、人間の自由な発展を目的とする社会への移行が課題として浮上してきている。生産・生活現場の人々が直接・相互に横のつながりで(市場や官僚機構に依存することなく)経済的諸要素の配分調整を実現していくことのできるネットワーク社会が見え、「協同組合」的な生産・消費システムが広範な社会=経済領域で可能になってきているのである。
 新綱領は、社会の土台のところから捉え返して二〇世紀の社会主義革命の挫折を総括しようとしていない。それは、この党の官僚主義的体質と不可分の関係にある官僚制国家資本主義を社会主義システムとする思想の根深さによるものであろう。
 新綱領は、表面的にソ連の体制を批判して見せているだけである。そのことは、次の箇所でも露呈している。
 「今日重要なことは、資本主義から離脱したいくつかの国々で、政治上・経済上の未解決問題を残しながらも、『市場経済を通じて社会主義へ』という取り組みなど、社会主義をめざす新しい探求が開始され・・・」
 これは、主として中国を念頭においている。だが中国で起こっている事態の基本的性格は、党=国家官僚ブルジョアジーが自己の支配的地位を確保しつつ、市場経済化をテコに資本主義的な経済発展を推進しているということであるだろう。それは、多国籍企業資本主義の発展の波に国家資本主義が解体され呑み込まれていく世界的規模の流れに対する、中国官僚ブルジョアジーの適応策でしかない。それをあたかも「社会主義を目指す新しい探求」ででもあるかのように語っているということは、日本共産党の現在の社会主義観が、国家資本主義を市場経済のベールで包んだ類のものでしかないということを意味しよう。

  空論としての未来社会論

 新綱領は、「社会主義・共産主義の社会をめざして」なる章で締めくくられている。しかし、労働者・人民の中から成長する社会革命の諸萌芽を発展させるのではなく、民衆の運動を資本主義の枠内に押し留めることを路線とし、また労働者人民のたたかいをプロレタリア独裁の樹立へと導くのではなく、ブルジョア代議制度における議席の獲得運動に包摂することを路線とするのであるから、この章で語られることは内容の如何を問わず、そもそも空論なのである。ただこの章の存在は、この党が単なる民族主義・民主主義政党とは異なり、高邁な理想を目指しているかのような幻想を醸し出す役割を果たしてはいる。この幻想は、伝統的な党官僚機構を維持するためには必要なものであるだろう。
 このことを確認した上で、記されている未来社会論について若干論評しておくことにする。
 新綱領は言う。「社会主義的変革の中心は、主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化である」と。
 もちろん、「生産手段の社会化」は、一大事業ではある。しかし、それは、社会革命の条件であり、政治革命(労働者階級・人民による資本家からの生産手段の没収を含む)によって基本的には達成され、政治革命後は主として社会革命の結果として完成されていくものである。その意味で、それは「社会主義的変革の中心」ではないのである。
 既に指摘したように、現代においては、生産手段の発達が成熟段階に到達し、「生産手段」(=資本)の発達が目的の社会から「人間」の自由な発展が目的の社会への移行が迫られてきている。人間の自由な発展を目的とする社会への移行、これが現代の「社会主義的変革の中心」になるということである。
 その主要な中味は、階級差別をはじめとした社会的差別を廃絶すること、労働時間の大幅な短縮をテコに、社会的差別の土台でもある精神労働と筋肉労働・農業と工業・性別役割分業などで構成されている人間の分業への隷属構造の総体を就労層と失業層への労働者階級の分割ともども廃絶すること、人間の自由な発展の基盤である自然環境を保護・改善すること、である。同時に、労働力、生産手段、生産物などの経済的諸要素の配分調整を、生産・生活現場の人々が直接・相互に・共同して、地域的・全国的・世界的に行えるシステムを構築することである。
 こうした社会革命が前進しなければ、たとえ「国有化」を「社会化」としようと、「社会」なり「社会的企業」において管理するものと管理されるのものへ分割の必要性が残り、かかる分割の固定化が進行するのである。
 新綱領は、「『国有化』や『集団化』の看板で、生産者を抑圧する官僚専制の体制をつくりあげた旧ソ連の誤りは、絶対に再現させてはならない」と力強く宣言してみせる。しかし、その為にはどうすればよいのかというところでは、ただ「生産者が主役という社会主義の原則を踏みはずしてはならない」と訓辞を垂れ、「市場経済を通じて」慎重に「社会化」の「探求」に励むべしと語るのみである。

  総括

 新綱領は、共産主義を名目だけ残し、実質的に完全に放棄している。米帝と一定距離を置く帝国主義のスタンスに自己の立場を大きく重ね合わせている。日帝ブルジョアジーの一半の路線と路線的に融合する道を開いた。これが、新綱領の性格である。
 この新綱領路線は、生きた現実政治の渦中において見ると、国会の中では、自民・民主の二大政党体制の下では民主党の尻尾にしがみついて延命するしかない道であり、国会の外では、米帝とその手先に対するたたかいの大衆的高揚に呑み込まれ、足下を揺さぶられ、党組織の危機をまねく道である。
 この党は、新時代に備えた政治的大再編の一つの核にはなれない。逆に自ら、股裂きになり、解体・再編の対象となる道へ転げ落ちようとしているのである。      〔了〕