石原都知事暴言──韓国併合・植民地支配を正当化
 歴史の偽造と論理の転倒
                           堀込 純一

 石原都知事は、昨年十月二十八日、ある集会で、とても失言とはいえない反動的な発言をしている。つまり、日本の朝鮮植民地化について、「私たちは決して武力で侵犯したんじゃない」と歴史を真っ向から歪曲し、あまつさえ「日韓合併を百%正当化するつもりはないが、どちらかといえば彼ら(朝鮮人)先祖の責任であって」、と、転倒した論理で、責任を韓国人・朝鮮人になすりつけている。そして、さらに「植民地主義といっても、もっとも進んでいて人間的だった」などと、事実を曲げて「弁明」している。
 この暴言に対しては、韓国人・朝鮮人のみならず、日本人からも猛烈な抗議がなされている。石原発言は、歴史を歪曲したうえでの、差別主義者・植民地主義者の反動的宣伝であり、いま一度われわれは韓国併合の過程を直視する必要があるであろう。

  砲艦外交と内政干渉

 明治維新の当初から日本の支配層は、朝鮮の征服をねらっていた。一八七五(明治八)年九月には、欧米列強ゆずりの砲艦外交で江華島事件を起こし、翌年二月にこの事件の「処理」なるものを武力を背景に迫り、日朝修好条規という不平等条約を押し付けた。その後、朝鮮の「内政改革」なるものを名分に親日派とともにクーデター(一八八四年甲申事変)を画策したり、武力を背景に朝鮮での権益拡大を図った。そして、一八九四〜九五年の日清戦争で勝利するや、清国−朝鮮の宗属関係を破棄させ、一八九五年十月には、国王の妃である閔氏を暗殺し、親日派政権の確立を図っている。
 朝鮮における清国の影響力を排除した後、朝鮮支配をめぐる対立は、主要に日本とロシアの間で展開された。日本の無理無法な干渉を嫌った国王・高宗がロシア公使館に逃避した露館播遷(ろかんはせん。国王は一年間滞在)後に、小村寿太郎の後任として特命全権公使として赴任した原敬は、一八九六年八月十九日付けの「朝鮮ノ現況及将来ノ傾向ニ付上申」で、当時の朝鮮での雰囲気を次のようにとらえている。「概括的ニ朝鮮ノ現況ヲ陳述致(いたし)候(そうろ)ハハ官民一般ハ勿論(もちろん)在留外国人ニ至ルマテ排日ノ風潮頗(すこぶ)ル盛ニシテ我行為ニハ其事ノ何タルヲ問ハス皆反対ヲ試ムルノ情勢有之(これあり)候(そうろう)是(こ)レ申(もうす)迄(まで)モナク一両年来内政干渉ノ反動ト昨年十月八日王妃殺害事件トニ原因致候」と。武力を背景とした日本の干渉と権益拡大は、朝鮮の官民のみならず、在留外国人にまで排日感情を引き起こしているのであった。

 日露戦争渦中で属国化

 一九世紀末から二〇世紀はじめにかけての極東アジアは、形成期帝国主義体制の矛盾の焦点であり、帝国主義同士の領土分割をめぐる熾烈な争いが展開されて来た。一九〇四(明治37)年二月八日から始まった日露戦争は、その矛盾が爆発した史上はじめての帝国主義戦争である。
 韓国政府は、それ以前の一月二十一日にすでに戦時局外中立を宣言していたが、日本はこれを無視し、漢城(ハンソン、現ソウル)を軍事的に制圧し、二月二十三日には韓国政府に迫って「日韓議定書」に調印させた。この議定書により、日本は韓国内における軍事行動とそれに対する韓国政府の「便宜」供与、「施設の改善」にかんする「忠告」の名による内政干渉の「権利」を承認させた。
 桂内閣は、日露開戦前の一九〇三(明治36)年十二月三十日の閣議決定「対露交渉決裂ノ際日本ノ採ルヘキ対清韓方針」で、「韓国ニ関シテハ如何ナル場合ニ臨ムモ之(これ)ヲ我権勢ノ下ニ置カサルヘカラサル」として、「保護的協約ヲ締結シ得ハ最モ便宜ナルヘシ」と、韓国を保護下におく意図を明白にしている。韓国を日本の保護化に置く第一歩が、この「日韓議定書」の調印である。
韓国隷属化の第二歩は、一九〇四年八月二十二日に調印された第一次日韓協約である。この協約により、韓国の外交権は、実質的に日本によって奪われてしまった。日本政府が推薦した外交顧問は、アメリカ人のスティーヴンであるが、かれはそれまで日本の外務省に務めていた者であり、日本外交の忠実な代理者である。韓国の財政もまた日本によって牛耳られてしまった。財務顧問は、当時大蔵省の主税局長だった目賀田種太郎である。だが実際には、このほかにも、警視庁警視・丸山重俊を警察顧問に、前駐韓公使・加藤益雄を宮内府顧問に、陸軍中将・佐野鎮武を軍部顧問に入れ、韓国の属国化を強めたのである。

 伊藤の恫喝交渉で保護条約調印

 日露戦争において日本が勝利的に前進すると、韓国を保護国として日本の手中に収めようという政策は、いっそう強められた。
韓国を保護国とする上で極めて重要なことは、帝国主義諸列強の承認を取り付けることである。日本は一九〇五年七月にアメリカと「桂・タフト協定」を結び、八月には第二回日英同盟を結び、アメリカのフィリピン支配、イギリスのインド支配をそれぞれ承認するのと引き換えに、日本の韓国保護国化を承認させた。問題のロシアとの関係では、九月五日に、米英のバックアップのもとに日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、その中で“ロシアは韓国における日本の政治・軍事・経済上の優越権”を認めさせたので、韓国保護国化は承認された。
 日本政府は、一九〇五年十月二十七日に、「韓国保護権確立実行ニ関スル閣議決定ノ件」を行い、同日、天皇の裁可をえる。そして、十一月に、特派大使・伊藤博文を韓国に送り、保護条約の調印を勧める明治天皇の親書を皇帝高宗に呈した。保護条約の調印は、まさに軍事力を背景とした脅迫・恐喝による強要であった。それは当の伊藤自身がこの「交渉」なるものを天皇に報告した『伊藤博文韓国奉使記事摘要』に次のように述べていることで明らかである。すなわち、「今日ノ要ハ唯タ陛下(韓国皇帝のこと─引用者)ノ御決心如何ニ存ス之ヲ御承諾アルトモ又或ハ御拒ミアルトモ御勝手タリト雖(いえど)モ若シ御拒ミ相成ランカ帝国政府ハ已(すで)ニ決心スル所アリ其結果ハ果シテ那辺ニ達スヘキカ蓋(けだ)シ貴国ノ地位ハ此条約ヲ締結スルヨリ以上ノ困難ナル境遇ニ坐シ一層不利益ナル結果ヲ覚悟セラレサルヘカラス」と。これは協議などとはとうてい言えない。まさに臆面もない恥知らずな恫喝であり、脅迫である。
伊藤による韓国皇帝の恫喝(十一月十五日)の後も、韓国の大臣たちの反対は少なくなかった。伊藤たちは一人一人の反対大臣を恫喝して一部を除き強引に賛成させていった。 日本による脅迫の様子は、噂となって伝わり、漢城の町も騒然となる。このころの宮廷周辺の様子をイギリス人ジャーナリストのマッケンジーは、次のように伝えている。「日本軍は終始、宮廷周辺で軍事力の大示威運動をしていた。地区の全日本軍は皇居前の大通りや広場で、何日も行進をおこなっていた。大砲がもち出され、兵士は完全武装である。彼らは行進し、引き返し、喚声をあげ、城門を占領し、大砲を据えつけ、実力行使以外のことはすべてやった。日本軍はその要求を強制する実力をもっていることを朝鮮人に示威しようとしたのである。閣僚たちや皇帝にたいしては、この行動は深刻な意味をもった。かれらは明治28年の一夜、日本軍が宮廷に乱入して王妃を虐殺(閔妃暗殺のこと─引用者)したことを忘れえなかったからである。/その晩(11月17日の晩─引用者)日本兵は剣付銃もいかめしく宮廷の内庭に入りこみ、皇帝の寝所の近くにたっていた」(中公文庫版『日本の歴史』22〔隅谷三喜男執筆〕より重引)と。
 第二次日韓協約により、韓国の外交権は日本外務省の管理下におかれ、韓国政府は日本政府の承認を経ないではいかなる条約・約束も結べないことになった。そして、漢城には日本政府の代表者として統監がおかれた(十二月二十日に統監府が設置され、二十一日に、伊藤博文が天皇によって統監に任命された)。統監は天皇に直隷する親任官であり、日本人顧問を監督する権限、駐箚軍司令官に兵力の使用を命ずる権限が与えられた(駐箚〔ちゅうとう〕とは、官吏が任地に留まること)。また、統監府には、総務部、農商工部、警務部がおかれ、統監の権限は外交だけでなく、韓国内政にも及んだ。統監はさらに、開港場や要地に設置された理事官を指揮下に置いた。
 条約調印が伝えられると、保護条約反対運動が急速に広がった。『皇城新聞』や『大韓毎日新聞』などは、条約の反動的内容や強制的な調印の顛末を暴露し、漢城の民衆は、「五賊」(保護条約賛成の5大臣のこと)の一人・李完用の邸宅を焼き打ちするなどした。元左議政・趙秉世(チョビョンセ)、元参政大臣・閔泳煥(ミンヨンファン)らは高級役人を率いて、朴斎純(協約に署名した外部大臣)の処刑と、協約の取り消しを求める上疏(上〔かみ〕に書を奉ること)運動を繰り返し展開した。だがこの運動は、日本憲兵隊の弾圧をうけて成功しなかったので、閔泳煥、趙秉世は抗議の自殺をとげ、これに続く者が続出した。
 韓国政府内からの反対運動よりも激しかったのは、地方の儒生たちの闘いである。一九〇六年二月、忠清南道定山郡の閔宗植は各地の有志と結んで蜂起し、五月十九日洪州を占拠した。憲兵・警察官の弾圧では不十分だったので、伊藤統監は歩兵二個中隊、騎兵一個小隊を派遣し、同月三十一日にようやく洪州を奪い返した。漢城で前年から反対運動を行っていた同郡の崔益鉉は、5月に帰郷し、全羅南道の仲間と協議し、百数十人で蜂起した。この蜂起は、警官隊の弾圧はけちらしたが、南原・全州駐在の鎮営隊との戦闘数時間の後に鎮圧された。捕虜は日本の憲兵隊が取り調べ、軍法会議で処断された。

 第三次協約で統監府設立

 韓国官民の抵抗がつづく中で、一九〇七(明治40)年七月三日、韓国皇帝によってつかわされた密使が日本支配の不当性を国際社会(ハーグで行われた平和会議)に訴える「ハーグ密使事件」がおこった。この事件により、韓国皇帝・高宗は無理やり譲位に追い込まれた。高宗の強制退位には反日運動が起こり、漢城では数万名の抗議集会が開かれた。激化した民衆は、日帝に加担する李完用の邸宅・別邸を焼き打ちした。伊藤統監は、「新聞紙法」、「保安法」を相次いで制定して弾圧体制を整えるとともに、日本政府に一個旅団を増派させた。
 こうした状況下で、一九〇七年七月二十七日、第三次日韓協約(丁未〔ていみ〕七条約)が調印された。この協約により、法令の制定、重要な行政処分、高等官の任免、外国人の傭聘には統監の承認もしくは同意が必要となって、統監の内政支配権が確立した。この協約には、秘密覚書が付属としてあり、それには大審院以下の裁判所の新設、日本人判事・検事の任命や、韓国軍隊の解散などが規定されている。
 協約・秘密覚書の規定に従って、韓国政府の各部次官、内部警務局長・警視総監、各道監察府の書記官・警察部長、財務監督局長、府・郡の主事などに日本人官吏が就任し、日本人顧問とその付属官の大半は韓国政府官吏となった。日本帝国は次官以下の多数の日本人官吏を通して、府・郡にいたるまで支配したのである。
 と同時に、反日運動(義兵)運動鎮圧のために、軍隊・憲兵・警察が増強された。在韓国駐箚軍は、一九〇八年五月にさらに二個連隊が増派され、二個師団相当の兵力をもつこととなった。在韓国駐箚憲兵隊司令官には明石元二郎少将が就任し、憲兵分遣所や憲兵が増強された。一九一〇年三月には、憲兵分遣所は四五七か所、憲兵は二千三六九名、憲兵補助員(朝鮮人を任命)は四千三九二名に達した。警察は、一九〇七年十一月にそれまでの顧問警察、理事庁警察を韓国政府の警察に統合した上で増強し、〇九年末には巡査駐在所五三九か所、警察官総数五千三三六名(日本人二千〇七七名、韓国人三千二五九名)となった。
 先述したように、第三次日韓協約には、秘密覚書があり、その中には韓国軍隊の解散があった。一九〇七年七月三十一日の夜、あらかじめ軍隊解散の勅語をつくらせておいて、翌八月一日、漢城の各部隊を突如招集し、午前八時、軍隊解散の勅語を読み聞かせ、午前十時には訓練院で早々と解散式を行っている。だが、解散式に参加したのは、「一千八一二名で、約一千三五〇名が脱営して、解散式には参加していない」(山辺健太郎著『日韓併合小史』岩波文庫)といわれる。第一連隊の第一大隊と第二連隊の第一大隊が反乱したためである。反乱兵は一時兵営に立てこもり日本の鎮圧兵と戦うが、敗れて退散する。これらの人々は、のちにたいていは各地の義兵に参加し、反日闘争を戦っている。漢城の韓国軍の一部が反乱したことは、直ちに地方に伝えられ、地方軍の多くは各地でのゲリラ戦に入った(反日義兵運動)。以後、翌年にかけ全土で反乱がおこり、韓国軍民の抵抗闘争が展開されたのであった。

 全国的抵抗を鎮圧し併合

 日本は、韓国軍民の全国的抵抗闘争に対して、前述したように日本軍・憲兵隊・警察を増強し、これを鎮圧した。そして、ゲリラ戦の高揚する一九〇九年七月、日本政府は韓国を併合する閣議決定を正式に行っている。その「対韓政策確定ノ件」では、「第一、適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事」、「第二、併合ノ時期到来スル迄ハ併合ノ方針ニ基キ充分ニ保護ノ実権ヲ収メ努メテ実力ノ扶植ヲ図ルヘキ事」としている。
 そして、同年七月、韓国の司法および監獄事務委託に関する日韓覚書が調印され、十一月には、「韓国政府」の法部が廃止され、裁判所、検事局、監獄は統監府に移管された。九〜十月には、「南韓大討伐作戦」が展開され、全羅道の義兵に壊滅的な打撃を与えた(これを境に義兵運動は衰える。だが、黄海道の義兵運動は一九一四年ころまで続行された)。この間十月には、初代統監・伊藤博文がハルピン駅頭で、安重根(アンジュングン)によって射殺された。これを受けて十二月、「一進会」が「合邦声明書」を発表するが、これは「韓国併合」が朝鮮人の自発的願いにそったものであるかのように見せかけるためのものでしかなかった。日本の韓国併合は、すでにそれ以前に正式に決定されていたのである。
 一九一〇年四月にロシアの、五月にイギリスの承認を取り付けて、日本は併合の方針を実行する段階に入った。五月末、陸軍大臣・寺内正毅が現職のまま、第三代統監に任命される。六月二十四日には、韓国警察事務委託に関する日韓覚書が調印され、韓国政府の警察は統監府に移管される。七月下旬には、在韓国駐箚軍は一個連隊相当の兵力を漢城の龍山(ヨンサン)に終結させ(各部隊は順次、真夜中に終結)、漢城の各城門・要衝・各王宮・統監邸・司令官邸・閣員邸などを厳重に警備した。
 そして、一九一〇年八月二十二日、寺内統監は厳戒体制のなかで、李完用首相と「韓国併合ニ関スル条約」を調印した。同時期に、日本の天皇は、「韓国併合ノ詔書」、「前韓国皇帝ヲ冊シテ王ト為ス詔書」(韓国皇帝は、日本天皇の臣下となった)などを発した。
 韓国併合にいたる主要な「条約」は、このように日本の武力を背景とした脅迫と恫喝によってなされたものであり、法としての正当性自身が疑われるものである。
 おわりに
 以上の簡単な史実をみるだけでも、石原発言がいかにデタラメであり、いかに作為に満ちた反動的なものか、おわかりできると思う。こうした人間を都知事にさせておく事態こそ変革しなければならないのである。