10・22講演会
  T・K生の時代と「いま」
   東アジアの平和と共存の道
               講師 池 明観


 十月二十二日、韓国から池明観氏をお招きし、日本教育会館において氏の講演会が開催された。主催は、10・22講演会実行委員会。
 池明観氏は、一九七二年軍政下の韓国を逃れて来日し、九三年まで東京・日本に滞在する。その間、軍政に抵抗し民主主義を求める韓国民衆の声を「韓国からの通信」(一九七三年五月〜八八年三月の月刊誌『世界』に掲載)として「T・K生」の名で発信しつづけた。帰国後は、韓日文化交流政策諮問委員長などの要職に就き、日韓両国の人々の相互理解と文化・学術交流の発展の為に尽力されてきている。
 この度の講演は、米帝・ブッシュ政権による朝鮮侵略戦争の危険が高まり、これにリンクしてわが国でも拉致問題をテコに朝鮮への敵意が煽られる政治状況の中、東北アジアの平和と友好を求める流れを促進する見地から計画された。
 またこの講演は、かつて異なる党派に属し、対立し争ってきた諸傾向が、それぞれの立場、見解を尊重しながら講演という一つの事業を成功させることで、相互の団結を前進させる意義も込められていた。
 参加者は三百名を越え、会場は終始集中した雰囲気に包まれ、講演は成功裏に終了した。以下は、編集部の責任による講演の要約である。(編集部)


 「韓国からの通信」を書いてきて、解放された祖国を迎えた私ですが、いま韓国の状況を見ていると、これは私の属している時代ではないという心情になる。こういう辛さを思うのであります。
 T・K生の時代というのは一九七三年から一九八八年です。私の年で言えば四九歳から六四歳までの時代であります。ところがいま私は八〇歳に間もないわけです。
 私は韓国のいまの政権が誕生するのにかなりの役割を果たしたつもりです。盧武鉉大統領の就任演説の起草委員長もやりました。ところがいま考えるのは、T・K生の時代という歴史的経験が継承されないということです。私はあの時代の一五年間、「韓国からの通信」を書きつづけていました。日本統治の時期に生まれ、解放後の南北分断を経験しながら生きてきました。そして数十年にわたる軍事独裁の時代も生きてきました。その過程でこれと闘わざるを得ないという心情となり、その中で生きてきた人です。この人が考え、自分の民族を考え、東アジアを考え、あるいは日韓関係を考える考え方が継承されないということです。
 これはお年を召した方々は多分同じ心情になっているのかもしれません。ここには過去において闘いの時代を共有した方たちがお集まりです。そしてそのとき党派を異にした方たちが集まっていらっしゃることに対して、私は一筋の希望を抱くわけであります。過去に対して自己批判しながら、いまの困難な時代を眺めながら、前に向かって堂々とした計画を出せなくても、憂いを共にし悩みを共にするという意味でも、非常に貴重なことではなかろうかと思うのです。ところが、これが次の世代に継承されない。これが人間的生の哀しさであると私は思うのです。
 盧武鉉大統領と私との間に数十年の年齢の差があります。大統領に当選してから今まで来る間に、なぜ私が彼から遠ざからざるを得なかったか、あるいは彼が私を遠ざけたのかという背景の中に、このギャップがあるのです。
 「T・K生の時代」というのは一体何だっただろうか。
 恐縮ですが私の文章から取り上げさせていただきます。一九八七年の『世界』一〇月号です。その翌年の三月に私は「韓国からの通信」は書かないようになるわけですから、「T・K生の時代」の最後のあたりです。
 その年、韓国で革命が起こりました。いわゆる八七年六月民主革命です。私は「その軌跡と展望」ということで、当時の「世界」の安江良介編集長と話しているのです。
「(日本の国民は、)日本の中において政治的変革が不可能だと思うと、他国の中においても政治的変革など不可能だと思っていらっしゃるのではなかろうか」「その時いまある権力を絶対的なものと見て、それを中心に考えるのではなかろうかと思います」
 じつに傲慢な言い方を私は安江さんにしたわけです。
 もう一つだけ例に挙げたいと思います。
 私は、一九九三年に書いた『人間的資産とは何か』の「韓国から見た日本」の項の中でつぎのようなことを言っています。
 ――日本は安定している。そして世界の国々は不安定と混乱の中にある。日本は安定しているのに世界の国々は不安定で混乱している。この違い落差が問題です。この二つを結び付けて、世界はそう不安定と混乱であるのにもかかわらず日本はそうでない。つまり日本は幸せだ。こういうような歴史認識が日本にはあるのではないか。韓国のような国では不安定と混乱が起こっても、日本は起こらないというような認識があるのではないか。他者の不安定、他の国々の不安定によって、かえって日本は安定している、あるいは富んでいるという考えがあるのではないか。これが日本におけるアジアの変動、世界の変動に対するシニシズムの原因ではなかろうか。
 こんなことを私は言ったわけであります。
 だが私はこのシニシズムが崩れてきたように思うのです。それはいつからか。この歴史解釈はいろいろ検討していただきたいのですが、一九九一年一月の湾岸戦争から崩れ出したと思います。このときから日本は少なくとも巨額なお金を出さないといけなくなった。世界が不幸では日本はそのまま島国として平安を保てることができないということを認識してきたのではないか。かつて一九五〇年から三年間、朝鮮に南北の戦争があった。しかし日本はそれでよかったんだ、かえってそれが日本に利益になったという認識は、日本にとってももはや許されない時代にだんだんなってきたのではないかと思います。
 ここで私が提起したい問題があります。「冷戦前の言語」と「冷戦後の言語」との間にニュアンスの違いがある。しかし、私たちにとっては、そこには共通して流れている一致しているものがあると私は思っています。それは何かというと、その根底において、状況に誠実に立ち向かう。その状況を常に人間的方向に動かそうとする言語です。具体的な現れ方は違っていても、状況に誠実に立ち向かい、状況を人間的方向に動かそうとする言語(あるいは行動といってもいい)を我々は模索すべきではないか。「民主化時代の言語」と「民主化後の言語」についても同様のことがいえるでしょう。
 このようなときに、少なくとも韓国においては、いま北に向けての言語を発しなければならない。東アジア全体の言語を発しなければならない。我々は日本だけを眺めるのではない。日本の経済が悪いとかいいとか、その言語だけではなくて、アジア全体に向けての言語、東アジア全体に向かっての言語を考えなければならない。こうした言語を、反動的な人々はそれをうち消そうとしているのです。
 T・K生は本当に暗い時代に革命を訴えてきたのでした。いま韓国の状況においてはどのような言語を編み出すべきか。民主主義が欺瞞のように見えるこの時代に、どういう言語を生み出すべきであるか。いま私たちが逢着している問題です。こういう目で見た時に、私はT・K生の目の中にあった楽観的歴史観に対して反省しなければならないと思っているわけです。私が「韓国からの通信」を中断してから、一九八七年に廬泰愚政権が立ち、九二年に金泳三政権が立ち、そして九七年に金大中政権が立ち、それから二〇〇三年にいまの盧武鉉政権が立って、だんだんと韓国においても革命のない時代になってきました。八七年六月における民主革命以降、革命というものはだんだん小さくなってきました。
 こうした果てに、政治に関係する人たちは、革命的理念なしに単なる権力争いをする。いま、こういうような状況です。私はこういう状況を見ているので、いまの盧武鉉政権に対していろいろ批判するわけです。革命的であると自ら唱えていた人たちが、反革命へと転落していく。こういう傾向です。そしてそこに現れるのが民衆の背反です。権力と共に民衆が変わっていく。革命的民衆ではなくなる。民衆がものすごく自己利益追求の民衆に変わっていくという状態が現れてくるわけです。政権が自己利益に集中すればするほど、民衆はその方向に自分たちも先になって変わろうとするという現象です。
 そうなるとどうなるか。権力を持っている層と民衆との間に離反現象が起こる。その間は割れてしまうわけです。そういう辛い経験を我々はしなければならない。盧武鉉政権は執権わずか半年で支持率三〇%に下がってしまった。二〇%とも言われる。これから何が起こるかわからないという状況です。一番国民において頭を悩ましていることは、これから何が起こるかわからないという現象です。こういう不安な時代を作ってしまった。
 だから私に与えてくださいました演題「T・K生の時代と『いま』」に即して考えますと、「T・K生の時代」は非常に困難な時代ではあっても未来が明るく見えた時代であった。ところが「いま」の時代は、T・K生は迫害を受けないし、帰って何をしゃべっても構わないのですが、しかし未来は暗く見える時代である。だからこの演題は非常に優れた演題だと思わざるをえません。「T・K生の時代」は苦しみながらも未来をバラ色に見た時代でありました。しかし「いま」というのはT・K生は苦しまない、楽しんでいるけれども、しかし未来に対しては暗く見えている、雲がかかっているように見える、そういう時代になってきた。
 いわば楽観的歴史観が全面的に転落してしまった。革命的言語の喪失の時代です。シニシズムのほうが強い時代になってしまった。
 こういう次第で、私は変革への勇気と情熱をかなり失っている状況に立たされているのですが、それでもなお、これからどうすべきかを考えるのです。我々が成しうることは何であろうかと。
 今まで私は大きなことを言ってきました。それがだんだん弱くなって、じり貧になったような言葉をいうと叱られるかもしれませんが、私は最後に提言としてヒューマニティ〔という言葉〕を留めておきたい。ヒューマニティを謙虚に求める連帯というものを、これからのアジアで模索すべきではなかろうか。最近とくに考えていることを申し上げたいと思うのです。
 アドルノは『啓蒙の弁証法』の中で言っています。この本は、一九四七年に岩波で翻訳されて出たものです。
 ――今日語りかけることのできるだれかがいるとすれば、それはいわゆる大衆でもない。こういう心情でいま我々が目指したよき時代が失われているということを語りかけようとするけれども、それに応えてくれるのは大衆ではない。あるいは無力な個人ではない。無力な個人でもなくて、むしろ架空の証人である。いまは存在しない架空の証人に向かって、我々はこのような現実から脱出して理想の時代を持たなければならないという我々が描いた時代を、いまはない架空の証人に対して言わざるを得ない。彼らに我々は言い残していくのである。我々と共に、我々が目指したすべてのものが無に帰しないために。
 これがアドルノが一九四五年ごろ考えた考え方です。
 私は八〇歳近くにになるまでこの言葉の意味がわからなかったのです。これまで私は希望に向かって走ってきたのです。しかし、いまは謙虚な立場に立って、韓国の解放のために闘ってきたこれまでを無に帰してしまわないようにするがために、何かを書きつけていかなければならない、と思う。韓国全体を変えるというよりは、より理想的な時代を目指した一人の人間として、その証言を残していきたいという心情です。フランス革命を経験した知識人たちも、もしかしたらそのような心情になっていたのかもしれない。
 こうした悲観論を、なぜようやく八〇代近くなって思うようになってきたのだろうか。それはやはり日本の植民地からの解放があまりにも喜ばしかったからかもしれない。それで楽観論がつづいてきた。いまになってようやく悲観論が私の老後と重なってきたように私は思えるのです。こういう前提のもとに、日韓関係について、韓国内のことについて、いくつか提言を申し上げて私の責任を終わらせていただきたいと思います。
 これまでの我々は、政治に期待して働いてきたのではないかという反省です。こうやれば政治が変わり、問題を解決してくれるのではないかという期待のもとに働いてきた。それは日韓問題においても同じようにです。だが私はこれからはヒューマニティにおける連帯を考えよう、そこに集中しようということです。特に東アジアのコンテクストにおいて市民の交流ということ。その中においての友情の成長に希望をもとう。そうでないと我々は暗黒で希望がなくなるからです。政治に対してもっていた今までの希望を、我々は大胆に市民の交流へと、友情の成長へともっていこう。こういうことを私は本日の講演会の責任において提言したいと思います。
 とくに〔我々の眼前には〕中国の台頭という問題があります。巨大な中国の台頭ということを前にして、私は何よりも日韓におけるヒューマニズムに基づく市民的交流の活性化が非常に重要だと思います。東アジアをヒューマナイズするために、東アジアをヒューマン的にするためには、その根幹における日韓交流が、いま非常に重要であるという思いをしています。
 我々ができることは、そんなに大きなことではない。できることからやっていこうということを申し上げたい。それは我々の環境をヒューマナイズすると言ってもいい。
 韓国でも日本でも、さまざまな美術展、文化展などが行われます。それは京都のあとは東京へ、仙台へ、さらに札幌へと行くでしょう。それをそこで終わらせないで、さらにソウルや釜山まで伸ばしてほしい。なぜならば同じ文化の中で我々は共通の考え方をしているから理解できるからです。これを基礎に、ともに語り合う時代を作らなければならないのです。ゆくゆくはそれが上海、北京へと伸びていく。そしてそれが北の平壌にまで伸びていく。そんな時代を我々は市民の力で作っていかなければならない。東アジアの文化の時代です。支配ではなく協力する関係。これをどう作るかということです。
 これからは「韓国からの通信」を越えて友情の時代を我々は共に築いていかなければならない、このようにみなさまに提案して終わりたいと思います。どうもありがとうございました。