米国経済の「雇用なき景気回復」
   資本の非人間性示す

 大統領選挙まであと一年と迫ったアメリカでは、今年七〜九月期の経済成長率が七・二%を記録した。大型減税で個人消費を刺激し、景気回復を軌道に乗せ、企業収益を改善させる──というブッシュ政権のシナリオからすると、七〜九月期の高成長は思惑通りかのようである。
 だが、実際のアメリカ経済は、非常に厳しい状況である。クリントン前政権から黒字で引き継いだ財政は、〇三会計年度(〇二年一〇月〜〇三年九月)が過去最高の赤字三七四二億ドルを抱えるまでになっている。アフガニスタンにつづくイラク侵略で、戦費がかさなり、財政赤字はさらに拡大する勢いである。経常収支の赤字も〇三年には、初めて五〇〇〇億ドルを超える勢いである。かつてのレーガン時代にも、「双子の赤字」が話題となっていたが、その時ですら赤字幅は多くとも二〇〇〇億ドル台(財政収支・経常収支とも)であった。それが今やそのレベルさえも、簡単に短期間でオーバーしているのである。
 また、「資本主義としての体制問題」、すなわち体制の不安定性、歴史的限界性に発展しうる重要問題に、「雇用なき景気回復」の問題がある。アメリカ企業の今年七〜九月期の当期収益は、前年同期を二〇%上回ったといわれる。それは二〇〇〇年四〜六月期以来の、三年三か月ぶりの高い伸びといわれる。だがしかし、企業収益の改善は、そのまま雇用情勢の改善につながっているわけではない。確かに、九月の非農業部門の就業者数は、八カ月ぶりに五万七千人の増加に転じた。だがアメリカでは、過去三年間で雇用者数は二〇〇万人以上も減少しているのである。9月の失業率も、六・一%であり、依然として高い水準の失業は続いているのである。このような状況は、「ジョブレス・リカバリー(雇用なき景気回復)」と一般にいわれているが、アメリカでは九〇年代始めにもあった。しかし、今日では九〇年代始めの時期とは異なり、IT(情報技術)産業さえも例外ではなく、一部では「ジョブロス・リカバリー(雇用喪失下の景気回復)」とも言われている。 周知のごとく資本主義というのは、利潤追求を自己目的としている。したがって、“資本主義は効率的で経済的である”とか、よくいわれるが、それは資本の活動自身にとってそうなのであって、人間生活一般にとって効率的とか経済的とかではない。だからこそ、景気が回復し、企業収益が改善しても、雇用の改善がすすまないことは、資本にとって別段不合理なことではない。それほど、資本主義というのは非人間的だと言えるのである。 資本のこのような非人間性は、日本の九〇年代半ばから顕著となった首切り・リストラではさらに露骨である。巨大企業を先頭とした資本家階級は、グローバル資本主義のもとでの熾烈な国際競争に勝ち抜くことを理由に、平然と労働者の首を大量に切っている。この結果、企業の経常利益は、九六〜九七年につづき二〇〇〇年以降は連続して三〇兆円台の黒字となり、バブル期に匹敵するほどに改善させているのである。それでも、首切りやリストラは、おさまりもしない。
 そして、大量首切り・人員削減のために、残された職場では圧倒的な人手不足と非人間的な労働強化・搾取強化が進行している。いわゆるカロウシ(過労死)やサービス残業などに代表される悲惨な事態の進行である。まさに「去るも地獄、残るも地獄」なのである。このような状況は、ムチャクチャな一時的乗り切り策でしかなく、労働者全体の労働士気を低下させるのは誰が見ても明白である。
 だが、資本主義の下では、このような経済運営が、合理的、経済的といわれるのである。だが、合理的とか、効率的とか、経済的とかの意味内容は、いったいいかなるものだろうか。はたしてそれらの概念は、資本にとって意味する場合と、人間にとって意味する場合とでは、同じ意味をもっているのであろうか。
 『岩波国語辞典』によると、〈合理的〉とは「合理であるさま」となっている。そこで〈合理〉を調べると、それは「道理にあっていて正当であること。論理的必然性によって支配されていること」と、なっている。〈経済的〉とは、「支出に無駄が少ないこと、特に安あがり」となっている。同じく〈効率〉とは、「機械が有効に働いてなした仕事の量と、それに供給した総エネルギーの比率」となっている。
 この中では、〈効率〉が、主に工業を基盤に発展した資本主義に最も適合的な意味内容となっている。〈効率〉がいつ頃から人口に膾炙(かいしゃ)されるようになったかは、筆者は知らないが、ポピュラーになったのは、恐らく〈経済〉とか〈合理〉とかの言葉よりも遅かったのではなかろうか。
 資本制経済では、よく〈合理化〉という言葉が使われる。これを『広辞苑』で調べると、 むだを省き、目的の達成に好都合なように体制を改善すること、 もっともらしく理由づけること、 主として自責または罪の感情からまぬかれるために、自分の考えや行動を正当化すること、 労働生産力をできるだけ増進させるため、新しい技術を採用したり企業組織改変すること。実質的には超過利潤獲得の一手段となる──と、なっている。
 これらの内、経済に関係する内容は、 と であろう。この二つを、もとの〈合理〉の意味と比較しながら検討すると、両者の間には大分、時代的な縣隔を推測できる。すなわち、〈合理〉という概念にはもともと「道理にあっていて正当であること」という意味内容があった。つまり、「正当である」という価値観が含まれていたのである。だが、資本制社会で多用される〈合理化〉になると、「正当である」という価値観は完全に放逐されている。これこそがまさしく、資本主義のもつ欺瞞性そのもである。
この欺瞞性の下で、第二次世界大戦後は多くの資本主義諸国に、大量生産─大量消費─大量廃棄の生産様式・生活様式が普及した。その結果は、周知のように地球的規模での自然破壊の進行である。この事態に直面しては、誰しも疑問をもたざるを得ない。このことは何を意味するのか。
 「正当である」という価値観を抜きにした、資本主義的な〈合理〉概念の使用を再検討しなければならないということである。それは、〈経済性〉とか〈効率性〉とかの場合も、同じである。資本にとっての合理性は、しばしば労働者あるいは人間一般にとっての不合理性になっている場合がある(資本は自然破壊だけでなく、人間破壊も推進しているのである)。
資本主義を先験的に「合理的なシステム」と思い込むことは、考え直すべきであろう。(T)