追悼 石井武さん
    三里塚闘争第一世代の代表
       一貫して空港反対の中心に


 去る七月八日、三里塚・芝山連合空港反対同盟世話人の石井武さんが亡くなられた。七十八歳だった。
 この数年耳下腺ガンと闘い、去年4・18暫定滑走路供用開始反対闘争を先頭で闘い抜いた後、脳出血で倒れ、退院後、自宅で療養中だった。夕方、眠る様に静かに亡くなられた武さんだったという。
 妻こうさんを喪主に、成田市の八富成田斎場にて十二日午後六時より通夜が、翌十三日、弔問客の多さに予定より早めて午前十一時四十五分より葬儀が行われた。
 通夜、葬儀とも、全国より三里塚を闘う仲間がかけつけ、また、かつて闘った旧友達も顔をみせた。受付は、反対同盟の違いを越え東峰部落総出で行われ、会葬者は元代表熱田一さん、加瀬勉さんを始め、かつての青年行動隊の面々、熱田派反対同盟支援全党派、元東峰被告や、そして北原派反対同盟支援党派や戦旗(日向)も来て、まとめ役だった石井さんの姿を反映させた。葬儀では、三里塚闘争に連帯する会の上坂喜美さん、戦争への道を許さない女性の会の小川るみ子さんが弔辞を述べた。
 石井さんは、敗戦直後に東峰の現在の地に入植し、厳しい開拓生活を経て、やっと営農の基礎が出来た頃、三里塚地区全体が農業構造改善指定の養蚕団地指定をうけ、武さんの息子さん恒司さん等農村青年達は長野県に研修に出て、植樹した桑もやっと育ち、シルクコンビナートの操業が目前になった六六年七月四日、突然の閣議の新空港三里塚決定だった。八月の三里塚・芝山空港反対同盟結成(戸村一作委員長)以降三十五年余、一貫して空港反対の中心となってこられた。
 私達に語りつながれている初期の説明会での「農民に断りもなく決定した国の言うことは信用できない」との発言、先のシルクコンビナート計画での「空港建設で、今度は桑を引抜き、息子を長野まで研修にいかせたのに中止せよという、空港建設決定の白紙撤回、われわれ農民に政府は謝罪せよ」という明白な態度はその後の反対運動の柱となった。
 また、反対運動での闘いの基礎となった人でもあった。七〇年の強制測量立ち入り阻止闘争(三里塚三日戦争)では、「自分たちの畑に無断で入る者を許さない」「一人で十倍の敵と闘う」「個人が責任を持てる範囲の戦いで無尽に闘う」という鮮明な闘う方針で、一家総出で闘い、娘さん達が逮捕されながらも東峰での測量を阻止した。七一年の強制収用では地下壕に身ら潜って抵抗し、逮捕された。一方で、七八年二月の第二要塞鉄塔決戦で、命の危険におよぶ状態になった時、支援に対し「御苦労様」と撤退の決断を下す幹部であった。
 九一年よりの「成田空港問題シンポ」では、反対する我々に対し、国との話し合いを青行にまかせ、「国の姿をよく見ておけ」と後見にたち、国の謝罪の場には盟友の「小川源」さんの遺影を抱いて会場に立った。
 暫定滑走路計画が浮上してからは、ガンと闘いながら東峰部落の先頭に立った。東峰神社の無断立木伐採に対しては、体ごと権力にぶつかり抗議を行って闘い抜いた。用地内の〇・二ヘクタールの土地は手放さなかった。
 私達は、八一年以降は東峰部落の中に建つ「東峰団結小屋」に集い、三里塚闘争を闘った。石井武さんには、小屋に、団結小屋維持会の取り組みに多大な御世話をいただいた。感謝を込め、三里塚闘争の第一世代の代表の石井武さんのご冥福を祈る。東峰団結小屋維持会と石井武さんとの思い出は別に語りたいと思う。
(関西・東峰団結小屋維持会 渡辺)