追悼 藤井利明同志

    釜ヶ崎労働者の心をつかみ
      関西党統合のカナメともなって


 六月二十二日午後八時五十分、藤井利明同志が肺ガンの為、入院先の京都南病院にて亡くなった。享年五十四歳。
 四年前、以前肋骨を骨折した胸の痛みが消えず、精密検査の結果肺ガン(腺ガン)が分かった。以降大阪市大付属病院に入院し、手術は無理とのことで抗ガン治療をうけ、一時回復し活動に復帰した。完治は無理、見通しも難しいことを宣告される中で、あくまで活動を続けながら、治療では免疫療法や鍼灸をうけ、一方次第に強くなり、耐え難くなる痛みを薬で抑えながら闘ってきた。四月末、消耗する体力と押さえ難くなる痛みのコントロールを期して入院したが、既に病気は進行しており、南病院のスタッフの手厚い看護の中で、亡くなった。
 発見時より難しいとされ、昨年末には「余命は一年無い」と宣告をうけ、覚悟しながらの闘病ではあっとはいえ、彼を亡くし我々は悲しみに打ちのめされそうになる。去る五月十三日には田中年広同志を失い、我々は二ヶ月の中で、代え難い両雄を失ってしまった。 藤井同志は一九四九年二月四日、大阪泉南の尾崎町(現阪南市)に生まれた。中学卒業後、泉佐野の工業高校定時制に進み、昼は堺の職業訓練校に通った。堺市の変速機メーカー・山合製作所に就職し、全国金属の組合に参加する。高校卒業頃には民青に参加し、程なく日本共産党に入党したという。組合活動、民青地区活動を活動的に行う中で、安保問題や「敵の出方論」などで論争となり、離れたという。
 その後建設会社に勤める中で、釜ヶ崎に出会う。七十年代後半、鈴木国男さんを虐殺した大阪拘置所を糾弾するビラをみる中で、釜ヶ崎の闘う仲間と出会う。越冬闘争などに参加するなどの中で、釜ヶ崎日雇労働組合に参加した。以降釜ヶ崎労働者の先頭に立って闘ってきた。八十年からの釜ヶ崎春闘や賃金闘争で活躍を始める。八十二年五月の全国日雇労働組合協議会(日雇全協)の結成宣言集会の情宣活動の中で不当逮捕されるなど、闘いの先頭の中で逮捕、起訴、不当判決をうけることも多かったが、八六年の堺市での植樹祭闘争での不当弾圧では、無罪判決を勝ち取っている。
 八三年十一月からの東京・山谷での三次・五年間に渡る対国粋会金町一家との闘いで、釜日労派遣団として一貫して先頭で闘い抜いた。彼は、三里塚・関西新空港などの侵略空港反対闘争・反天皇制・反差別の闘いなどで常に先頭になり闘い抜いた。闘いのある所、釜ヶ崎日雇組合の旗のある所、常にマイクを持つ彼の姿があった。西成労働福祉センターの情宣では何時間もマイクを握りしめていた。彼のわかり易い、熱の籠もった話しかけは労働者の心を、気持ちをつかんで離さなかった。労働者は、彼を「ふじやん」と心を込めてよんでいた。彼は日雇労働運動だけでなく、共同闘争の発展に心を配り、尽力した。
 九十年の釜暴動、そして九二年からの釜ヶ崎の反失業闘争の先頭に常に立った。闘争の成果としての「特別清掃事業」の確立に指導員として自ら働いた。病気が分かってから、 一線を引いた後は、釜ヶ崎の闘いの宣伝・紹介に行脚し、釜を訪れる人々の案内役を自らに課して闘い抜いた。
 彼は、労働者の解放には革命党の建設が要とし、八五年対金町戦の渦中で共産主義者同盟(機関紙名『赫旗』)に加盟し、九九年労働者共産党結成に参加し、同年の関西地方党大会で関西地方委員に選出された。彼は、我々関西地方党の実質的な統合の要となって活躍した。
 彼は病床で身動き出来なくなって「涙が出て来て仕方がない」と言った。まだやり残したことだらけだったのだろう、もっと労働者に呼びかけ、話しかけたかったのだろう。
 「悲しみを力に変え、彼の遺志を継ぐ」、我々は問われている。
      二〇〇三年七月一日
               労働者共産党関西地方委員会

最後のガンバローのこぶし
  常に民衆の先頭に立って

 藤井同志から教えられ、学んだことは、活動家・革命家は常に民衆の先頭に立って闘うこと、そのことを身をもって教えてくれました。
 病院に見舞いに行った時、帰り際に「藤井さん、ガンバロー」と言ったら、彼は右手でこぶしを作りガンバローと言ってくれました。本当に嬉しかった、本当に残念です。くやしいやろー、志を受け継いで前進あるのみです。
 ゆっくり休んでください。(関西・斎藤)


党派を超えて信頼された
  優れたオルガナイザー

 すぐれたアジテーターであった同志。しかしそれ以上にすぐれていたのは、オルガナイザーとしての活動であった。釜の日雇労働者の運動を、広く関西の大衆運動と結びつけるのに多大の役割を果たした。同志以外に、この任務を果たせる者はいなかった。
 釜の日雇労働者をはじめ、党派を超えた多くの活動家から信頼され、その疲れを知らない活動で全国を駆け回り、その気概のほどを見せてくれた。
 ほんとうにごくろうさまでした。(関西・森川)


残念だが、「もう、
    ゆっくりしときゃー」

 六月二十二日午後、同志藤井は帰らぬ人となりました。
 あまり苦しまなかったと聞きました。……が、同志は芯の強い人ですから人前では絶対泣き言は発しなかったと思います。
 同志とは四年前、労働者共産党の結党大会の帰りの新幹線で一緒になり、その第一印象(わたしは旧日共MLの人間ですから)は、誰でも知っていることですが、「まあー、ようしゃべる人やなー」でした。帰りの新大阪まで三時間中しゃべっておりました。
 その後は、関西の大衆運動の中で共に活動して来ましたが、この一月ぐらいに、「僕はもう年内もたないかもしれんわー」と初めて同志からの弱音を聞き、「藤井さんがそんな事言うたら、関西の大衆運動前進せいへんがなー」等など励ましましたが、やはり二月以降、大衆運動の場より姿が見えなくなり、五月入院時に見舞いに行った時は、もうかなり弱っているなーと思っていましたが、こんな急な話になるとは!
 まだまだ関西の大衆運動で活躍してもらわなければ、と言う気持ちと、「もう、ゆっくりしときやー」と言う思い半々です。(関西・榊原)


彼の戦闘魂を
  受け継ぎたい


私が釜越冬闘争に関わったのは、十七年前であった。おもに医療連で夜回り病院回りをしていたので、あまり彼と話すことはなかった。
 しかし、いろいろな集会で顔を合わせたら、今の釜の状態や大阪の野宿者の状態や、政治状況、他党派の活動の状態をくまなくポンポンしゃべった。ちょっと私には理解できない部分もあったが、リアルな釜の動きを聞くことができた。
 三年前、彼が胸部の癌で倒れてからは、入院先の病院へ数度見舞いに行った。 
 そのときは、「元気になったら関西空港闘争に行くのだ」、「全国寄せ場集会に行くんやのにな」と痛さで顔をしかめながら活動できないことを嘆いていた。
 退院しても、やはり反戦闘争の集会での日雇い部隊の先頭で痛さを我慢して行動していた。根っからの活動家だったと思う。それが釜の活動だけでなかった。どんな大衆闘争や集会の場にも顔を出していた。底辺から関西の政治闘争の一翼を担った一同志であった。
 彼のにこやかな笑顔とおしゃべりが聞けなくなったことは残念だが、彼の戦闘魂を私たちは受け継ぎたいと思う。(関西・兵頭)


「共産党員」としての藤井同志
  
党建設の途上で倒れて

 多くの人にとって藤井さんの思い出は、労働者の闘いの先頭に立つ藤井さんだろうし、そこに藤井同志の本領もあったと思いますが、わたしは共産党員としての彼との一こまが強く印象に残っています。
 昨年の夏、労働者共産党の第二回大会が地方都市の近郊で開催されましたが、その一時休憩か何かの時に、わたしは一人で会場の外に出て、ある遠方の同志がそろそろ到着するかなと、道の向こうを見ていました。
 すると、少し上体を傾け片手を胸に当てた人がひとり、ゆっくりゆっくりこちらへ向かってきます。あー!藤井さんだ、病をおしてよく来てくれたと思う反面、やっぱり痩せたなー、痛いんだなーと悲惨な気持ちにもなりましたが、それを顔に出しちゃいけないと思い、「おー!ご苦労さん!痛い?」と明るい声で彼の手をにぎりしめました。
 藤井同志は、「三回も休んでしもうたわ!ハハハーッ」と息を切らしながら明るく答えました。道すがら三回も休みを取りながら、党大会に結集した同志よ! 思わず熱いものがこみ上げてきて、握る手に力が入りました。
 同志は、一九九九年に東京で開催された労働者共産党結成大会にも、代議員として上京・参加し、統合の成功に尽力しています。
 同志は、「ガンで死によるやつは、抗がん剤で死によるんや」と言っていました。おれは抗がん剤には頼らず、がんばるで、まだやりたいことがあるんや、ということでしょうか。
 釜の運動でも遣り残したことはあるのでしょう。しかし、わたしが付け加えたいと思うことは、彼が「共産党員」でもあり、労働者階級の党建設の途上で倒れたという一面です。
 釜ヶ崎などで彼と運動を共にしてきた仲間の皆さんが、労働者の党の建設という彼の遺志を継いでくれることを切に願いたいと思います。
 同志よ! もう痛みはない、安らかに!
(東京・若杉)


セクト主義に対し
   常に大衆の利益を守る 

私が藤井君と初めて会ったのは、八〇年代初頭、当時「革命の旗」関西地方委員会の建設の為東京から派遣され、解放会館プレハブで三ヶ月程生活していた時でした。
 当時から、大衆性が全くなく「活動家」としか話ができなかった「最近プレハブにいる変なやつ」に対しても、藤井君は気さくに声を掛けてくれて、一緒に仕事(京都の現場での鉄筋屋だったと思います)に連れて行ってくれたことを今でも覚えています。
 藤井君は、常に大衆と共に、その先頭で闘う人でした。
 そして、闘いの大衆的発展に水を差すセクト主義、分裂主義に対して、大衆の利益を守るという一点において、常に鋭い批判を持っている人でした。
 それは、金町戦においてもそうでしたし、その闘いの中から「赫旗」派に結集し、二度にわたる分裂にも「共産主義者の団結・統合」の旗を守り抜き、労働者共産党の結成を喜び参加していったことでも明らかです。
 今でも、金町戦において何時間でもマイクをはなさずアジっている藤井君が、大衆的戦闘場面で金町一家の組員に自転車を投げつけている藤井君が、またともすれば寄せ場にこもりがちなメンバーをさそって三里塚などの闘いに参加していき寄せ場の闘いへの連帯を呼びかけている藤井君の姿が目に浮かびます。
 同志の死を前にして、私は、あなたの代わって闘うことはできませんが、あなたが目指していた寄せ場日雇労働者、野宿労働者の闘いの大衆的発展の為に、そして下層の労働運動と固く結びついた階級的労働運動の発展の為に、そして何よりも日本の革命党の建設の為に闘っていきたいと思います。(東京・佐々木)