追悼 田中年広・常任委員同志

  団結・統合に大きな貢献


 五月十三日の午前四時過ぎ、田中年広・常任委員同志が十数日の急病との闘いむなしく、盲腸炎に端を発する多臓器不全にて、淡路島の県立洲本病院において息を引き取った。あまりにも突然の、早すぎる急逝であった。享年五十九歳。
 われわれ中央常任委員会は、中央常任委員の一人であった田中同志の急逝にきわめて痛恨の思いであるが、革命運動に長期に献身してきた同志の生涯を追悼し、悲しみを力に変え、同志の遺志を継いで闘いぬいていく決意である。
 田中年広(組織名・熊本五郎)同志は一九四四年青森県八戸市に生まれ、その後青年期を京都で過ごした。同志は、洛陽高校電気科定時制に在学の頃から政治闘争に参加し、京都労映や日中友好協会(正統)などにも関わった。この一九六〇年代の一時期、同志は日本共産党に入党していたが、日共の現代修正主義への転落に抗し、離党届を出して決別した。
 同志はその後、日本共産党再建準備委員会の結成に参加し、関西の青年共産主義同盟などを指導。大衆運動では、滋賀県の長浜合板争議の支援共闘、大阪地域合同労組などで奮闘した。
 七四年の日本共産党(マルクス・レーニン主義)全国委員会の結成に参加。結成大会で               の団結を呼びかける決議を起草し、また全国委員・常任委員に選出された。以降、同志は一貫して中央指導部の一員として活動し、わが党の労働組合運動や関西地方委員会の指導などに当たった。
 大衆運動では、七十年代後半から全金港合同田中機械支部の争議支援のために支部組合員となり、電気工事士として自主管理闘争に参加し、争議勝利の直前まで長期に闘いに貢献した。
 同志は九十年代の半ば以降は、中央の日常指導の一線からは退き、関西地方委員会で指導的役割を果たすと同時に、兵庫県淡路島に居住し、塾経営などに当たっていた。阪神淡路大震災では被災者となり、仮設住宅から本紙へ「震災体験記」を書き送るなどして被災者の要求を支援した。
 同志は、革命路線の一致による共産主義者の団結・統合を求め続けた。共産主義者同盟(機関紙『赫旗』)との統合を早くから提唱し、九九年の共産主義者同盟と日本共産党(マルクス・レーニン主義)との統合すなわち労働者共産党の結成に大きな役割を果たした。労働者共産党結成大会で、中央委員・常任委員に選出された。
 同志は、最期まで現役の中央指導部の一員であり、同志を失ったことはきわめて大きな損失である。第一線を降りていたとはいえ、常任委員会には毎回必ず出席し、幹部同志たちをまとめる役割には重要なものがあった。その労働者的なさっぱりした豪放な気風は、「クマさん」の愛称とともに同志たちに親しまれ、信頼されていた。
 同志は近年、腰痛の手術を終え、杖をつく身となりながらも元気を回復し、まだ多くの仕事ができるという現況にあったが、思わぬ急逝となったことは筆舌に尽くしがたい無念さである。この無念さは、同志が半世紀近くに渡って追求してきた革命運動の前進を、残された我々が立派に進めていくことによって晴らすしかない。
 クマさん! 君が敬愛していた毛沢東などとともに天界から我々を見守ってくれたまえ。我々は君の遺志を継いで闘い、勝利するだろう。
        二〇〇三年六月一日  労働者共産党中央常任委員会


「おもろいオッサン」は、
   信念あるマルクス主義者だった


 熊本同志と初めて会ったのは私がまだ高校生で、彼が二十八歳の頃の時だった。梅田の洋食屋でS同志に紹介されたのだ。実はこれ以前に広島の集会で拝顔させてもらっているのだが、この「洋食屋会談」の時のほうが今でも脳裏に焼き付いている。思えばこれも、日共修正主義に代わる新たな党建設という戦略課題を掲げた故安斎庫治同志を中心とした動きの中での、引き合わせであったのだが。
 最初は、ただの「おもろいオッサン」という印象であった。しかし寝食を共にしてゆくと、案外繊細な人やという見方に変わっていった。楽しかったのは、当時の事務所の近くで一杯のんで、オールナイトの映画やらみんなでよう観に行ったことが思い出される。そこで、同志は邦洋画を問わず、出てくる人物の階級性・政治性を私ら若いもんに注入しようとするのであった。
 また、私はよく同志におこられたものだ。「おまえは主観が強すぎる。エエとこのボンボンのままではあかん。いつも組織の全局に目向けてるケ?」。またある日は、「おまえ、それでどう対処したんや。いやその前に大事なんは、どう政治判断したかや。組織の看板背負うとったら、人はおまんを普通の人とはみんわい。そこらを考えて行動せなあかんで」云々。私が青共のキャップの任に当たっている頃だったが。
 それからも同志は、党関西地方委員会の草創の時期に、まだ故掘江壮一同志も参入されていない時期に、強い自覚と責任感でオルガナイザーとして無給専従として、一貫して奮闘された。彼は一貫して、細胞生活を基礎とした地方党の独自建設の強化を!という信念をつらぬいた数少ない関西でのマルクス主義者であった。
 同志は、活動のかたわらよく自分で工夫して大工仕事をやったり、本もよく読み学習していたが、会議でキレルこともあったし、毒舌を吐くこともあった。うるさいオッサンでもあったが、それが会議にもう出てくることはないのか!と思うと淋しい限りである。
 中国の文革当時、「造反有理」「刻苦奮闘」のスローガンのなか、私も中国社会主義革命の息吹を体で感じた。「逆らうのはワケがあるからや! 好き放題せんと、逆に秩序もわからんケ」と言う、あのころの同志のはずんだ声が今も思い出される。プロレタリア的資質を重んじ、組織・政治路線の研鑽に情熱をもって生涯をかけられた同志に、心からの哀悼の意を表します。
 マルクス主義者としての熊本同志の遺志を受け継ぎ、団結して前進しよう。
                                   (関西・伊東)
 [追伸] 熊さん、天国で安斎同志や原田長司同志に再会されたら、当時の「第三世界論」の論争のリベンジをやってください。ただし、仲良く!


 関西党の融合・発展を共に担って

 五月十三日未明、熊本五郎同志が急逝した。
 五月連休中、倒れたとの連絡があり、淡路島まで見舞いに行くも、集中治療室の中で、残念ながら話はできなかった。万一の期待もあったのだが、未明の知らせにきわめて口惜しい気持ちだった。
 同志とは、労働者共産党の統合結成後、関西地方委の一員同士として、組織拡大を中心に活動を共にした。
 彼の古くからの活動・組織・人としてのつながりが、結成後、関西地方委員会が確立し、関西地方党が発展する上で大変大きな力を発揮した。統合後、旧両組織が更に融合しあう上で、共同したオルグ活動ほど、融合を推進させるものはない。これからも、種々の拡大計画の途上にあっただけに、残念でならない。
 私は、彼とは、旧組織が統合論議に入る前からのつきあいである。
 私が三十年前頃、大阪の労働運動に入り、南大阪や全大阪の活動に出ていくと、常に熊本同志がいた。ナッパ服の彼を見つけるのは簡単だった。彼は、素人に近かった私に、労働運動について話をしてくれた。故堀江壮一さんを紹介してくれ、AA連帯や岩井会運動にも触れさせてもらえた。
 熊本同志のおかげで、関西の運動が手にとるようにわかった。私の大阪での労働運動を入り口から導いてくれた。本当に感謝したい。心から追悼します。
                                (関西・島田)


  青年に常に関心を払っていたクマさん

 熊本同志。と、いうより愛称としてみんなが呼んでいたクマさん。あなたの危篤の報を聞いて、細胞の皆は何で自分の健康をかえりみないんだ、となげいた。そしてその数日後、クマさんの死というつらい知らせをうけた。
 クマさんの死を知って、思い浮かべたのは、今を去ること二十五年前、私が当時の日共(ML)の青年同盟の専従をしていた頃のことである。この頃のクマさんは、全国常任委員の会議があると、一週間くらい、東京に滞在していた。青年同盟の事務所と言っても、特別にそれ用のものはなく、党の事務所と同居だった。それだけにクマさんをはじめとする全国常任委員の面々、党専従の面々とは毎日のように顔を合わせていた。
 クマさんは、とくに、青年同盟に常に関心を払っていた。もっと言ってしまえば、専従である私がダウンしてしまわないよう、気配りしてくれた。
 同じ釜の飯を食った。銭湯にもいっしょに行った。酒好きのクマさんは毎日のように専従に声をかけては呑みに出かけていた。持ち前のひょうきんな性格から、みんなにはとても好かれていた。全国常任委員とヒラ専従の区別などなかった。
 私が専従をやめてからも、クマさんと会う機会は少なくなったとはいえ、中総や大会では「夜、クマさんと飲めるなあ」というのが、私のひそかなたのしみだった。「赤石はん、ヨメさん大事にしておるか」こんなことから夜通しの飲み会ははじまっていくのだった。
 昨年の大会でも作務衣姿で登場し、元気満々だった。それがこんなことになるとは…・
 クマさん、もう一度酒を飲みながらそのユーモアたっぷりの話を聞きたかった。でももうそれはかなわない。さようなら、クマさん。(東京・赤石)


 見返してやりたかったが突然の別れに

 四月の末に、仙人のような杖で体を支えつつ上京された熊本五郎同志。あなたが急逝されたとの報せをいまだに受け入れることが出来ないでいます。
 学生出身の私のことで、あなたはふがいない思いをずいぶんされたことでしょうね。忘れられないことは、会議の席でお茶を入れることすら出来ない私に、自ら進んで範を示してくれたこと。関西地方委員会の故堀江壮一同志が不慮の交通事故で急逝されたとき、酔っ払って泣いている私に喝をいれてくれたこと。中国政府の天安門事件に対する弾圧に怒り心頭に達し、酒を飲み続けて何キロも太ってしまったこと。怒っている姿、説教している姿がばかりが思い出されます。
 私は、ほめてもらおうなどとは思いませんでしたが、何とかあなたを見返してやりたいものだと思いつつ日々を過ごしてきました。しかし、淡路島に帰られた後は真摯な話が出来ないまま突然の別れとなってしまいました。
 熊本同志、雲の上でマルクスや、レーニンや、安斉庫治さんたちと喧嘩しているのはあなたに似合いではありません。いつまでも我々と共にいて時には苦言を呈していただきたい。我々の生きた証、生きる証はこのどうしようもない日本の現実の変革を通じてしかありえないのですから。(東京・橋田)