アメリカ帝国主義の新世界秩序と我々の課題
    どのような「帝国」なのか
                               深山 和彦

 米帝は、イラク・フセイン政権解体劇によって、新世界秩序の主宰者たる特別の地位と役割を帝国主義諸国をはじめ全世界の諸国家に認識させ、力に応じたイラク石油利権の再分割を強行した。「イラク」後の国連安保理やサミットは、米帝による覇権と利権の強権的的再分割を、フランス帝国主義等々がしぶしぶ受け入れる場と化した。
とはいえ、米帝の横暴が吹荒れるたびに、新たな秩序が構築されるのではなく、無秩序が拡大し反米感情が増大している。アフガンがそうであった、今回のイラクもそのようだ。米帝によって諸国の軍隊も無秩序化の沼地に投げ込まれる。この過程は、新自由主義下での資本の横暴が、社会の崩壊を引き起こしている一般的経済過程の集中的現われに他ならない。
問われているのは労働者である。自己解放への共同の戦略を獲得していかねばならない。
 
   米帝をどうみるか

 イラク侵略戦争は、米帝問題を浮上させた。米帝問題は、日帝自立・従属論争として、かつてわが国の共産主義運動において中心的な論争点であった。この議論はこの間、共産主義の中味の再構築が問われる時代に入る中で後景化したが、打倒対象は誰かという問題は、革命を目指す勢力の団結に不可欠な、解決しておくべき課題として残っているのである。
 われわれは、今日の諸国家の国際関係を、超大国が他の帝国主義諸国をも一定統制・支配する国際反革命同盟体制と捉えている。
 私は、理論誌『プロレタリア』創刊号でこの体制の特徴を、現代帝国主義論として次のように整理しておいた。
「第一は、帝国主義諸国の上に立つ超大国が誕生し、帝国主義諸国の国際反革命同盟体制が形成されていること。旧植民地の新興独立諸国が国際反革命同盟体制に組み込まれたこと。第二は、超大国を主柱とする国際反革命同盟体制の下で、帝国主義国の金融独占資本が、かつて共に世界を分割して争った他の帝国主義国の本国市場を含む旧勢力圏に、大規模に浸透し、グローバルな搾取体系をつくりあげていること。第三は、帝国主義諸国の金融独占資本が、相互に、本国市場を含む旧来の勢力圏の枠を超えて大規模に浸透し合い、それぞれのグローバルに発達した搾取体系を基礎に国際寡占体制を発達させていること。第四は、金融のグローバリゼーションが実現し、貨幣資本の投機的自己増殖運動(マネーゲーム)が実体経済に比べて圧倒的に肥大化したこと。第五は、社会主義革命の物質的その他の諸条件が全面的な成熟段階に入っていること」(理論誌『プロレタリア』創刊号、「現代帝国主義とその没落の素描」深山和彦 p2)
「単独行動主義」「先制攻撃正当化論」に象徴される米帝の横暴は、超大国という特別の地位と役割に付随するものである。ただそれがここに来て「ネオコン」の台頭という形で、突出してきたのには、次の理由があるだろう。
一つは、ソ連社会帝国主義の崩壊によって、米帝に対して軍事力で対抗できる国家がなくなったこと、つまり軍事力の行使を自制しなければならない大きな要因が消失したことである。二つは、多国籍企業の発展と共に全面的に発達しはじめた国際分業構造において、先端(情報・通信等)と土台(資源・食料)をおさえるて支配的地位を再構築する七〇年代初頭以来の米帝の戦略が、九〇年代のクリントン政権期に実を結び、それがまた他の帝国主義諸国との軍事力格差をさらに拡大したことである。三つは、国際分業の発達が国際的規模での産業の成熟段階に入り、過剰生産・過剰資本が肥大化し、市場再分割競争が熾烈化する時代に入ったこと、そうした中で、軍事力の圧倒的優位を武器に、諸国の政権の在り方をとがめて介入し利権を拡大していこうという欲望が、アメリカ資本の間で高まったことである。四つは、「世界の支配者」としての存在と意識の高まりが、その対極に醸成される全世界人民の反米感情に直面して、世界の警察官たる態度を増幅させてきたことである。
 こうした現実に触発されて、革命の対象の問題に関わる議論が、新たな装いをもって展開されてきている。
 一つの典型は、中核派の帝国主義間世界大戦必然論であり、日帝自立論に基づく革命路線への固執である。この党派は、イラク侵略戦争の最中に発行した「前進」二〇九五号で次のように論じた。
 「しかしそれ(=『侵略戦争を強行することにより、米帝を基軸として全世界の政治的・経済的・軍事的な再編を行うこと』−引用者)は、EUや日帝(さらにはロシア、中国)との矛盾、対立、争闘戦を一気に激化させ、帝国主義的侵略戦争の時代を引き寄せる。そしてついには帝国主義が二大陣営へと分裂して、第3次世界大戦へと突き進む。いまやそうした情勢が始まったのだ」と。
 彼らは、超大国(及び、超大国を主柱とする国際反革命同盟体制)と曖昧にしか対決せず、来るはずもない帝国主義間の世界大戦を主観的に想定し、そうした戦争の内乱への転化をめざす見当違いの路線に陥っているのである。
 日共中央幹部会副委員長の上田耕一郎は、昨秋「ブッシュ新帝国主義論」(新日本出版社)を著した。だがその中味は、従来の対米従属論の焼き直しでしかないものであった。
すなわち上田は、今日のアメリカ帝国主義を「核・軍事帝国主義」と名付けて、核独占体制を要とする軍事的世界支配に対する批判を従来にも増して強調する。そして米帝の「単独行動主義」を前に、「アメリカが横暴をほしいままにする戦争と抑圧の国際秩序か、国連憲章に基づく平和の国際秩序か―この選択がいま、人類に問われている」として、(米帝一極覇権秩序の一側面に過ぎない)国連を媒介とした帝国主義諸国の協調的連合支配を賛美する。結論的には、この帝国主義諸国の協調的連合支配の均衡の中に、日米安保条約の破棄、「独立・中立日本」の可能性をなんとか見出そうとしているのである。
超大国、国際反革命同盟体制、金融独占資本の多国籍展開と国際分業の発達という現実の下では、「独立・中立日本」は存立困難である。「一定」の自主性の獲得ならば、日朝国交正常化の実現をはじめアジア諸国との友好関係のしっかりした樹立をもってすれば不可能ではないし、それは労働者の自己解放運動にとっても政治的条件の少なからぬ改善を導くが、それは同時に金融資本の多国籍展開に道を拡張するものでもある。結局「独立・中立日本」の路線は、後者の改良主義路線に収斂する以外ない。
アントニオ・ネグリ、マイケル・ハートが、ソ連崩壊後の世界史的転換の中で「帝国」(以文社)を著している。これは、最近わが国でも翻訳され、「帝国」のネーミングがその中味から離れて広く受け入れられ一人歩きしているほどである。しかしその中味は、帝国主義の平和的同盟論の現代版になってしまっている。
「帝国」の著者たちは、十九世紀の英国の地位を、今日において米国が獲得し、基軸帝国主義の諸実践が繰り返されているだけだという見解を批判し、次のような自己の見解を披瀝している。
「新たな<帝国>の主権形態が出現している、というのが私たちの基本的な前提なのである。実際いかなる国民国家も、今日帝国主義的プロジェクトの中心を形成することができないのであって、合衆国もまた中心とはなりえないのだ。帝国主義は終わった。今後いかなる国家も、近代ヨーロッパ諸国がそうであったようなあり方で世界の指導者になることはないだろう。」(p6)
 01年の「アフガン」、03年の「イラク」で世界が経験した現実は、ネグリ、ハートのこの見解と異なるものだ。確かに今日の世界は十九世紀のそれではないが、変化の方向は彼らが主張する「中心」の消滅という方向ではなく、「中心」の確固とした形成であった。十九世紀の英帝は「基軸」的地位を占めてはいたが、しかし世界の分割・再分割にしのぎを削る列強の一つに過ぎなかった。当時の英帝には、例えば、今日の米帝のように自国の貨幣を金に裏打ちされない章標貨幣のまま世界市場に広く流通せしめる国家的強制力をもっていなかったのである。十九世紀的世界からの転換は、まずもって他の帝国主義諸国さえも一定統制・支配する「超大国」(中心)が形成された点にあるのである。
 この超大国と超大国を主柱とする国際反革命同盟体制の下ではじめて多国籍企業が大量的に生まれ、それとともに国際分業が全面的に発達し産業の成熟という状況が現われてきている。そうした中で、資本(生産手段)の拡大再生産を目的とする社会から一人ひとりの自由な発展の実現を目的とする社会への転換の欲求が労働者階級・人民の間で増大し、指令型のシステム(「中心」、官僚組織、労働の専門化・細分化)に換わる新しいシステムへの模索も広がってきている訳である。つまり、超大国なり多国籍企業という究極の「中心」の形成が条件となって、その対極に「脱中心化」への流れが形成・拡大され、矛盾が激化していくという関係である。「中心」の消滅は共産主義世界革命によってのみ果たされることなのである。今日の国際国家体制における「中心」形成化の否定は、階級矛盾・階級闘争の現代的非和解性を曖昧にする理論体系の集中的現われに他ならない。
同時にわれわれは、ネグリ、ハートの上記の見解が、「帝国」を構成する国際的権力関係を友好・平等な関係であるかのように一面的に描いているということに関して、批判しておかねばならない。
「帝国」(われわれの言う米帝を主柱とする国際反革命同盟体制)は、超大国による他の帝国主義諸国に対する一定の統制・支配を不可欠の要素として成立している。超大国が世界を力で抑えておればこその「帝国」なのである。その下での市場再分割競争の熾烈化は、多かれ少なかれ、超大国による圧倒的な軍事力格差を利用した「イラク型」市場再分割として展開される。
超大国(および超大国を主柱とする国際反革命同盟体制)とのたたかいを曖昧にする共産主義革命の主張は一つの欺瞞であり、民衆運動の政治的発展を押し止めるものである。

  いかに闘うか

 米帝によるイラク侵略戦争に対して、全世界の人民が反対して立ちあがった。一千万人の反戦・反米ウエーブが地球を駆け巡った。この高揚は、イラクの石油利権をめぐり矛盾を抱えていた米と仏・独・ロ・中の関係を一気に険しくさせ、国際反革命同盟体制を一時的にせよ機能不全に陥れたのだった。それは世界が現実に、米帝vs全世界人民の対立関係を軸に展開しだした瞬間であった。
 この民衆運動は、「9・11」の華々しくも逆効果なテロリズム的反抗の限界を力強く突き破るたたかいであった。この運動は、民衆が、米帝と米帝を主柱とする国際反革命同盟体制を根底から転覆できる自己の国際的・集団的力を自覚し始める契機となったといってよいだろう。
 とはいえ民衆運動の性格は、様々であった。イスラム教的運動、民族主義的運動、民主主義的運動などが、比重の違いはあれ、世界各国の民衆運動に刻印されていた。
中東諸国においては、米軍のイラク侵攻をキリスト教「十字軍」と批判するイスラム教スンニ派が、部族社会を背景に運動を牽引した。イスラム教スンニ派は、アフガニスタン・タリバン政権の崩壊に続くフセイン政権のあっけない解体で、深刻な総括を迫られている。
アジア諸国においては、民族主義的立場からの反発が強く現れた。典型は、米帝からイラクの次の標的と名指しされた朝鮮人民民主主義共和国(以下共和国と略す)が存在する朝鮮とその周辺諸国である。たしかに民族主義に立脚した反発は、反帝民族解放戦争の勝利を経験してきたアジアにおいて広範に存在する。それは、米帝の世界支配に抵抗する一翼の位置を占める。しかし民族主義は、厳格な在り様においては、今日では経済的に成り立たず、政治的限界があり、反戦・反米闘争の勝利を導く原理たり得ないものである。
 欧米(そして日本)においては、人権・民主主義の立場からの反抗が主要な特徴だった。それは、イスラム的抵抗や民族主義的抵抗が、米帝の民主化強要路線に対して、「強要」についてのみ反駁できる受身の抵抗にとどまらざるを得ない時代状況の中で、イデオロギー的には同等の立場にたって対抗できる運動としてあった。この運動は、米帝・ブッシュ政権が世界的に突出した軍事的優位に依拠して、正当性をないがしろにした侵略に打って出たことから、グローバルかつ大規模な抵抗運動として爆発したのだった。
 ただ人権・民主主義の立場は、米帝(ネオコン)の民主主義的覇権拡張路線と根底から対立するものではない。それは、帝国主義的民主主義に絡め取られる内的可能性を孕んでさえいる。この民衆運動の確固さと広範さと勝利の展望は、グローバルな規模で資本主義がたゆみなく引き起こしている社会の崩壊を新たな社会システムの創造に転化することのできる労働者階級の階級闘争と固く結合することの中にある。そこでは労働運動の質的転換が問われる。反戦・反米運動における労働運動との市民運動の乖離は、わが国においてとりわけ大きい。米帝が対共和国で軍事侵攻路線を一歩一歩あらわにし始め、朝鮮を巡る内外情勢が緊迫する事態に対応し、われわれはこの課題の克服を早急に果たしていかねばならない。



  朝鮮侵略戦争の阻止へ

 米帝による朝鮮侵略戦争の発動と日帝の参戦とは、東北アジアを戦争の惨禍に投げ込み、民族的不信と憎悪を途方もなく増幅し、わが国における排外主義国民統合と人民監視・動員体制を飛躍的に強化せしめる。それらはまずなによりも、米帝による東アジア統治と市場の再分割に利するものである。
 日帝ブルジョアジーの少なからぬ部分は朝鮮侵略戦争への道に危惧を深めている。この部分の間から発信される東アジア経済圏構想は、韓国、共和国、中国、ロシア、東南アジア諸国との友好関係を基盤に、米帝と一定距離をおくことができて初めて実現可能となるものである。日帝ブルジョアジーのこの部分は、国内的には、アメリカ金融資本の多国籍展開に最も有利となる新自由主義政策と一定距離を置き、新自由主義政策がもたらす社会の崩壊をNPOなどの育成で押しとどめる政策を押し出す。
支配階級の内部矛盾は、朝鮮情勢の緊迫と共にシビアにならざるを得ない。国際的に連帯した労働者、市民の強力なたたかいがあれば、支配階級の内部矛盾を利用し押し広げ、東アジアの平和と革命への道をたぐり寄せることは十分可能なことなのである。        〔了〕