大学受験資格民族差別に反対しよう
  在日朝鮮人・アジア人への選別排除


 三月六日、日本の文部科学省(以下文科省)が発表した「大学入試に関し高等学校を卒業したものと同等以上の学力があると認められる者の指定」、いわゆる大学入試資格が、米英の学校評価機関が認定した学校の卒業生にのみ認められるという決定は大きな問題である。
 なぜ日本の大学の試験を受けるのに米英の機関による資格認定を行わなければならないのか、なぜ日本の文科省が掌握して独自に資格認定を行わないのか不思議でならない、これは明らかに選別排除の思想が働いているだろうと考える。イラク侵略攻撃にいち早く支持表明した日本政府の追随外交は、日本に在住する外国人の教育権までをも米英機関に委ねてしまうことは、日本という国、教育権までもが米英機関に追随して自主的な政策が全くない国なのかと世界の国々から嘲笑の的になるだろう。まさに日本という国、政治の貧困が露呈したどうしようもない国に陥ってしまったといえる。
 ではなぜ、文科省は米英機関に委ねたかたちで入試資格の認定を与えようとしたのかである。明らかにアジア系人の排除であり、その根底には文科省の幹部が「いまは国民の理解が得られない」と発言するように、在日朝鮮人への選別排除が見え隠れしている。
 こうした排外主義的な日本政府の態度は以前から、日本国憲法や日本が批准している国際人権条約にも違反していることが繰り返し批判されてきた。それは、一九九八年には国連の自由権規約委員会が「朝鮮人学校の不認定を含む、日本国民でない在日韓国・朝鮮人マイノリティに対する差別の事例に懸念を有する」と指摘、さらに二〇〇一年には国連の人種差別撤廃委員会が同様な強い懸念を表明し、日本に対して「韓国・朝鮮人を含むマイノリティに対する差別的取り扱いを撤廃するために適切な処置をとることを勧告する。また、日本の公立学校においてマイノリティの言語での教育へのアクセスを確保するよう勧告する」としており、同時に、社会権規約委員会も「それが国の教育課程に従うものであるときは、締約国が少数者の学校、特に在日韓国・朝鮮の人々の民族学校を公式に認め、それにより、これらの学校が補助金その他の財政的援助を受けられるようにし、また、これらの学校の卒業資格を大学入学試験受験資格として認めることを勧告する」と具体的な勧告が繰り返されてきた。
 在日朝鮮人たちが戦後一貫して日本の地に民族学校建設に心血を注いできた大きな理由は、「かつて日本帝国主義から『皇民化教育』を強要され、人間性と民族性を傷つけられ、基本的人権のかけらさえない暗黒の世界に呻吟し…、一九四五年八月十五日の解放により朝鮮人としての人間性と民族性が回復された。…暗黒時代に自分自身が受けられなかった民族教育を子どもにほどこし、祖国の建設に役立てようと希望したところから始まった」(『在日朝鮮人の人権と日本の法律』姜徹著・雄山閣出版)。在日朝鮮人の人たちは民族の命運をかけた闘いのなか団結を通して幾多の危機的状況のなかで、「民族教育は民族生存のための基本的権利であるとして」(同上)、朝鮮学校を守り育ててきたといえる。
 日本政府による不当な弾圧を跳ね除け、幾多の苦境を乗り越えてきたなかで朝鮮学校の前に立ちはだかってきたのは、法律という厚い壁、一条校の問題である。つまり、学校教育法、教育施行規則では大学に入学できるのは、日本の高校(一条校)卒業者と帰国子女や留学生、大学入学資格検定(大検)合格者などと定めており、「各種学校卒業者は含まない」としてきた。
 それは旧文部省が一九五三年文部省大学局長通達「朝鮮高等学校卒業生の日本の大学入学資格について」を出して、「朝鮮学校を一条校でない各種学校とみなしているため、卒業生には大学の受験資格がないというのである」(『国際化時代の民族教育』高賛佑著・東方出版)。
 かれらは朝鮮高級学校(日本の高校と同じ)を卒業しても、大学入試資格が取れなくて、通信教育で高卒の資格を獲得するか、大検に合格するか、あるいは再度日本の高校を受けなおすかをして、やっと大学受験を果たすという、日本人の側と比較するとす二重、三重の苦労を積み重ねて初めて日本の大学に入るための入学試験を受けることができるということになる。
 やはりこうした差別的な条件は、かつての日本政府が行ってきた朝鮮植民地化政策による謝罪、自己批判が、戦後の日本政府によって常に曖昧にされてきたことにもよる。同時に、今回の入試資格の認定にしても、在日朝鮮人への差別だけでなくアジア人全体への差別の対象になっていること自体大きな波紋が起こっている。
 日本における外国人学校は約四十校あり、欧米系が二十三校、朝鮮学校などアジア系が十七校、今回の日本政府の対応によって認定されるのは、欧米系の十六校のみで、アジア系の民族学校は英語授業がやられていないということで、はじめから除外の対象であって、なんら考慮するという条件も示されていない。遠山文科相などは「一定水準の教育の確保という観点から検討した結果」だと説明する。大学課の官僚は「最初から特定の外国人を除いて検討したことはない」と言っている。しかし、授業の基準は英語教育が前提というハードルを決めれば、アジア系の民族学校は明らかに母国語を主体にした授業であって、英語主体の授業では決してない。それら民族学校は一条校に近い、日本の学校教育水準に近い形で教育を行っているにもかかわらず、その与奪権を米英語圏の機関に与えること自体、深刻な問題がはらんでいる。
 文科省の幹部は「多様で特色ある教育内容を国がチェックするのはなじまない、だから信頼できる第三者機関に任せたほうがいいと判断した」という発言は全くおかしな話である。
 こうした大学入試資格の認定を第三者機関に委任するのではなく、自国の問題は自国の問題として、きちんと解決処理する能力を持たなくてはならない。それを第三者機関に委任するというのは自国の問題に対する責任放棄であり、全く無責任でなげやりな人任せな措置だといえる。(関西M)