東京
4・12二千、4・19一万人が占領反対!

  朝鮮半島の占領阻止へ

 イラク攻撃反対の運動はフセイン政権の崩壊後も、米英の占領反対!占領軍はイラクから出ていけ!の反戦運動として、世界でも日本でも持続している。
 四月十二日には、米国反戦団体ANSWERなどの呼びかけによる世界一斉行動として、日本各地でも行動が取り組まれた。東京では午後一時から茅場町・坂本町公園で、「STOP THE WAR!4・12世界中がピースアクション」が主催・実行委員会、協賛・ワールドピースナウ実行委で取り組まれ、約二千名が参加した。
 集会では、有事法案を廃案へ市民緊急行動の高田健さん、「人間の楯」としてバグダッドで活動し帰国したジャミーラ高橋さん(アラブ・イスラーム文化協会)、また浄水場で「人間の楯」の活動をしてきた志葉玲さん、日本山妙法寺の武田隆雄さんなどが発言した。集会では、闘いはこれからだ、小泉政権による占領当局への要員派遣を許すな、有事法制を阻止し新たな戦争への動きをとめよう、と強調された。その後、銀座方面へデモ行進が行なわれた。
 四月十九日には、ワールドピースナウ実行委員会の取り組みとして、東京・代々木公園からの約一万人の反戦パレードが取り組まれた。参加者は、労働組合からサンバの踊りまで非常に多様であった。
 この日は、米国の環境団体が呼びかけて一九七〇年から始まったアースディの日で、代々木公園ではアースディ東京2003の催しが行われていたが、反戦パレードはこの催しと渾然一体となったような格好で、ケヤキ並木に集合して午後二時頃出発、土曜日の賑わう渋谷から原宿を一周した。パレードでは、「イラク占領反対」のプラカードや「米軍は帰れ」のコールが叫ばれていた。
 なおイラク占領という局面に対応し、この日の行動では、即時停戦・撤退、日本政府の戦争支持の撤回というこれまでの要求に加え、「日本政府にアメリカ主導の復興に協力しないことを要求する」、「イラク侵略という国家犯罪に対して国連で検証を」、「イラクの復興は国連主導のもと、イラク市民の手で行なわれるべきであり、日本を含め各国政府は、信頼のおける民間NGOなどを通して救援に協力を」等のアピールが掲げられている。ワールドピースナウには、ピースボートなど国際交流・援助団体の参加も少なくないので、復興支援をめぐる態度は重要な点とおもわれる。
 東京での4・19などの成功は、「反戦」トレンドがいぜん活力を持続していることを示した。イラク占領反対、朝鮮半島での戦争絶対阻止、ブッシュの戦争放火に協力する有事法制の廃案、これらへ「反戦」を一層盛り上げていこう。(東京W通信員)


関西
戦争も雇用破壊も許さない4・15集会

  NO!労働法改悪・有事法制

 四月十五日、「労基法大改悪・有事法案反対、イラク侵攻糾弾−戦争も雇用破壊も許さない関西集会」が、新装まもない大阪・中之島公会堂に約一千人の労働者・市民を集めて開かれた。主催は、しないさせない戦争協力関西ネットワーク、おおさかユニオンネットワークなどによる実行委員会。
 この集会は、独占ブルジョアジー日帝・小泉政権が、戦争準備の有事法制制定と解雇自由の労働基準法大改悪とを連動させ一体で押し進めていることに対決するものである。
 労働法制改悪は、@労基法に「使用者は解雇できる」と明記し、A有期労働契約期間の上限延長−正社員が減り有期雇用が主流に、B労働者派遣法の改悪−派遣期間の三年への延長と生産現場への拡大、C裁量労働制の要件緩和でサービス残業と過労死の増大、これらを押し進めるもので、労働者の諸権利を徹底的に破壊し安価な不安定労働者を大量に生み出し、これまでの労資関係そのものを変えてしまい、戦争準備へ全労働者を駆り立てようとする代物なのである。
 集会は、主催者を代表してユニオンネット代表の馬場徳夫氏が基調提案を行なった。馬場氏は、「イラクを奪い取った米帝ブッシュの次の狙いはシリアであり、その次は朝鮮半島だ。そのためにも小泉は米帝の戦争に協力する有事法制を今国会で成立させ、また労働組合・労働運動そのものを壊滅させる労働法制改悪をもくろんでいる」と述べ、「両法案を絶対阻止する闘いを作り上げよう!」と提起した。
 続いて、米帝のイラク侵攻糾弾の提起を、しないさせない戦争協力ネット事務局の神志那氏が行ない、有事法案阻止の提起を同事務局の山元氏が、「有事法案なるものはアメリカの侵略戦争協力を準備するための法案だ!日本の防衛をする法ではない!このことは今回のイラク戦争で明らかである。」「関西においても全港湾、全日建等、ベトナム戦争以来の反戦ストが打ち抜かれた。このような闘いを今後も地域で継続・発展させよう」とアピールした。
 大阪府会議員の小沢福子氏が「労働法制改悪案を廃案に」と決意を語った後、最後に全日建連帯労組の川村氏による団結ガンバローで締めくくり、中央郵便局までのデモンストレーションを行なった。釜日労−反失業連絡会も百名の動員でこの日の行動を闘いぬいた。(関西Sa通信員)


沖縄
「地球の絆4・20県民大行動」に5000余

  カデナ基地に「殺すな!」の人波

四月二十日、嘉手納基地西側を包囲する「地球の絆4・20大行動」は、成功裡に終わった。
 子連れのお母さん層、女性、若い人達が多い。イラク侵略における米軍の暴虐さが、わが身のなまなましい危険性を認識させている。基地のフェンスには、お手製のアピールが数キロに連なってビッシリ貼りつけられている。
 「NO WAR」「ブッシュこそテロリスト」「これ以上殺さないで」などのアピールから、古着、鍋、バナナ、雨傘、そしてバツ印の星条旗まで、ありとあらゆる表現がそこにはある。
 南側は自治労、全港湾、教組ら、北側は読谷村職、嘉手納町民、名護反対協、平和市民連絡会などがいる。
 数キロに渡る細長い人間の絆だ。ここは幹線道路であっても、滑走路と誘導灯路にはさまれた基地そのものの中を数キロ進まねばならない、まさに病的な空間なのだ。
 主催者発表五〇〇〇名。午後五時を過ぎても、指定駐車場の北谷町役所には参加者がまだ来ている。発表以上の参加で、4・20は成功である。
 終了直前、水釜の第四ゲートの平和市民連絡会の持ち場で、私服刑事ら十数人が島田正博氏にからんできた。先ほど、具志川東中学の生徒が学校で募金した二十万円を島田バグダッド訪問団長に渡し、イラクの子どもらへの友情を示したばかりである。私服らは何かをねつ造することができず、結局退散した。
 四月二十七日、宜野湾市長選に勝利した。伊波(イハ)洋一氏が勝った。
 ここ数年、名護市長選、県知事選でも「普天間基地を名護市、辺野古へ移す」日本政府の策に、沖縄県民は「県内移設反対」を主張し闘ってきているが、首長選挙はすべて敗北してきている。橋本・モンデール会談での「普天間基地返還」合意は、七年目にしていまだ実現していないが、ついに基地所在地の宜野湾市民そのものによって、県内移設にNO をつきつけられたのだ。
 「辺野古であれどこであれ県内移設、基地強化、戦争協力を拒否する」、「私的な金銭欲ではなく、沖縄全体の将来を」、「県内の軍事基地は県民が決めるのである。一日も早く返せ」という堂々たる路線が、まがい者たちをしりぞけたのである。
 この勝利は、県会野党らが「歴史的勝利」と説明ぬきで言っているが、イラク戦争など歴史への民衆のまなざし、反戦運動への共感と連帯の広がりを抜きにして、抽象的言葉で片付けてはならない。女性の市民たちは「勝手連」を作って奮闘するなどしたが、この「勝利」は深い意味を持っていると思う。多くの人々による、時代の変化を把えた主体的な分析が望まれる。(沖縄T通信員)


今だからこそ日朝問題を考える3・7尼崎集会
  人権状況の改善から
     東アジアの平和創造へ


 「いまだからこそ日朝問題を考える尼崎集会」が、尼崎市職労、地区人権平和センター、市民グループなどの呼びかけで、三月七日、百名あまりの結集で開かれた。沖縄人、在日韓国・朝鮮人が多数住んでいる兵庫県・尼崎で、イラク情勢、朝鮮人民民主主義共和国(北朝鮮)情勢の緊迫の中で討論の場が持たれた意義は大きい。
 集会では一坪反戦地主会代表世話人、沖縄大学教授の新崎盛暉さんが、「拉致報道の洪水を超えて」と題して以下のように講演を行なった。
 昨年九月十七日に行なわれた日朝首脳会談による平城(ピョンヤン)宣言の前後から始まったマスコミ報道は、あまりにも拉致問題に比重を置いている。これらの報道は、日朝問題の真実を見えなくする。政治権力者間も意見が別れているが、イラクに対して日米同盟があるから武力攻撃を認める、北朝鮮の問題を抱えているから独仏と同じ態度をとらずに、米と同じ態度でなければならない、という意見が強い。その流れは拉致被害者家族を米に送り、米に北への制裁をさせようとしている。これらの動きは日朝ピョンヤン宣言を破綻させるような動きでもある。
 沖縄で、一九九五年の米兵による少女暴行事件を一つのきっかけとして日米地位協定の改定が大きな政治的争点となった。そのころ私は次のように書いたことがある。「私達は主権国家の平等性の関係や大国日本の威信の為に地位協定を問題にするのではなく、より普遍的な人権の確立と言う観点からこの問題を取り上げるのでなければならない。そこから日米地位協定の見なおしが、韓国民衆の人権状況の改善に役立つという展望も生まれる。不幸な歴史を背負った日朝人民が直面する人権状況の改善という共通の課題において共闘する可能性も見えてくる。さらには沖縄民衆の人権を守ることは沖縄基地のターゲットにされている諸地域の民衆の人権を守ることでもあり、多くの米兵を非人間的な環境から救済することでもある」と。
 人権問題と位置づけて東アジアの平和創造に結びつけようとしていたこの頃、九七年二月沖縄で、米軍基地強制使用の公開審理が開始された。この公開審理を傍聴するために韓国各地で米軍基地問題に取り組んでいる人達とその家族四十三人が来沖した。これが最初の大衆的出会いとなった。翌年私達は「米軍基地に反対する運動を通して沖縄と韓国の民衆の連帯をめざす会(略称・沖韓民衆連帯)」を立ち上げ現在も交流が続いている。沖・韓は、現代史の上で地上戦と米軍政を共に体験している。これらが相互理解の素地となっており、その後沖縄と韓国の民衆運動の交流は加速化している。そして交流の中心テーマは「東アジアの平和」である。
 このような運動の中で私はピョンヤン宣言が、六五年の日韓条約と同じく相手の弱みにつけこむような、日・韓・朝民衆の将来に未解決の課題を残すものだったとしてもやはりそれは評価に値するものだと思う。と言うのは、ピョンヤン宣言は植民地支配から拉致問題に至る不幸な過去を清算する第一歩となりえたし、残された課題は日韓朝民衆が共同してその解決に努力していくことが出来るからである。拉致問題での大騒ぎにもかかわらず、日韓朝三か国による東アジア共同体を視野に平和創造の民衆運動に国境をまたいで参加して行く必要性が今後ますます高まっていく。
 集会は、お互いの立場を超えて平和共存社会の道を切り開かねばならないとの決意が伝わるものであった。(関西H通信員)