人権思想と契約理論の歴史からの教訓

   もともと不平等だからこそ

     労働者保護法が必要だ


 イギリスの十七世紀の市民革命、一七七六年のアメリカ・バージニア州の権利の章典(世界初の人権宣言)、一七八九年のフランス革命での『人および市民の権利宣言』などは、人権思想を発展させ、一九世紀にはさらに世界のかなりの地に普及した。
 この古典的人権は、信教の自由、言論・出版の自由、住居の不可侵、財産の不可侵などに見られるように、基本的に「国家からの自由」を求める自由権が中心であった。近代法における契約概念もまた、自由意志による合意という「契約自由の原則」を基本とした。 
 もちろん、契約は古くから存在するが、近代資本主義社会において契約は、社会現象としてきわめて広範な普及をみた。そして、生産と分配における契約は、同時に法的概念としての契約と密接に関連している。すなわち、資本主義経済の順調で安定的な運行において、法的な契約はいわば不可欠かつ恒常的な道具としての機能を果たすのである。
 だが、産業革命を経て資本主義が発展すると、貧富の格差拡大、労働者の貧窮、繰り返す恐慌での大量失業など、資本主義に根差す深刻な社会問題が、社会を根本から揺さぶった。その結果、“市場における資本の自由競争により、経済の繁栄と、社会正義が実現するのであるから、国家は契約の自由さえ確保・維持しさえすればよい”、という自由放任主義は実践的に批判され、近代的契約理論も大きく動揺する。自由放任主義は、社会正義を実現しないからである。
 もともと資本家と労働者の間での雇傭契約は、「契約自由の原則」が伴ったものではない。資本の原始的蓄積期に、生産手段から強制的に分離させられた労働者は、ほとんどの場合、資本家に雇われる以外に生計の道をもたないのである。資本主義社会における経済的強制の環境下での契約が、自由意志による合意という契約であるはずがない。労働者は、貧困と失業に絶えずさらされながら、自己の生命と生活を守るために、さまざまな手段で資本家との闘いに起ち上がる。進んだところでは、工場法など労働者の保護法を作らせた。 だが、資本家と労働者の間の不平等性は、資本主義の発展により、企業の集中、独占的寡占的な企業体の出現で、より一層、社会的に明らかとなる。
 まず第一には、大企業と労働者の力関係は、今まで以上に乖離し、大企業は雇傭契約において、一層有利な位置に立つ。第二は、社会生活においてさまざまな財貨とサービスの供給・需要関係で、供給者側の独占体が有利になる状況が生み出され、不平等な契約関係に陥らざるを得なくなる。ここでは、供給者側が一方的に定めた契約条項に従って売買契約が行われざるを得ない。独占資本主義の下では、ある特定の個別大企業の商品を嫌ったとしても、たいていの場合、代替品もまた他の大企業の商品でしかない。このような不平等性は、典型的には、今日の電気・ガス・水道などの公共企業体の供給する商品を見れば、一目瞭然である。
 このような状況下では、契約内容は、社会的・経済的に優位に立つ側が、あらかじめ定めた内容となり、劣位に立つ労働者、市民はそれを全面的に受け入れざるを得ない。このような契約を「フランスのサレーユという学者が一九〇一年に附合契約(contrat d'adh sion)という巧妙な用語で呼んで、その特殊性を強調し、その契約性を否定した。それ以来、フランスでは、この語が用いられており、英語圏でも直訳されて用いられている(contract of adhesion, adhesion contract)。これに対し、ドイツでは、契約という観点でなく、そのような契約において一方当事者が多数の公衆を相手に画一的な内容で作成する契約条項という観点から、これを一般的(または普通)契約条款(または約款)(Allgemeine Gesch ftsbedingungen,AGまたはAGBと略する)と呼び、まずそれが契約の内容を構成するための要件が論じられた。」(星野英一著「契約思想・契約法の歴史と比較法」─岩波講座『基本法学』4−契約 に所収)という。
この附合(ふごう)契約は、伝統的契約概念と比較するならば、契約内容の自由な商議が当時者間でなされないこと、また当時者の間には平等性が存在しないこと(法律的には平等とされるが、経済的社会的には不平等)などを特徴としている。
 ところで資本主義の独占資本主義段階が明確となるにつれ、一九世紀の末ごろから、欧米では旧来の市民法の体系の枠からはみだすような労働立法や経済立法が作られようになる。その典型とも目されるワイマール憲法(第一次世界大戦後のドイツ憲法)は、人間としての生存を保障することを目的とした正義の原則に合致した経済秩序を目指し、生存権、労働権、労働者の団結権などの社会権を保障した。それだけでなく、これまで不可侵とされてきた経済活動の自由と財産権を制限付きで保障するようになった。たとえば、同憲法第一五一条一項は「経済生活の秩序は、各人に人間に値する生活を確保することを目的とし、正義の原則に適合しなければならない。各人の経済上の自由は、この限度内で保障される」とか、第一五六条一項は「所有権は義務を伴う。その行使は、同時に公共の福祉に役立つべきである」とか、である。
 一八七一年のパリ・コミューン、一九一七年のロシア革命など労働者人民の闘いの影響も含め、ブルジョア人権思想も、従来の自由権を中心とした人権に、新たに生存権、労働権、労働三権(団結権、団体交渉権、争議権)などの社会権を加えざるを得なくなったのである。
 だがそれでも、社会権も含めた人権は、女性、子ども、先住民族など社会的にみて、弱い立場におかれた人々に対する保護、あるいは権利の確立は未だなおざりにされていた。それらを取り組むようになるのは、ようやく第二次世界大戦後である。国連は、一九四八年に、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である」(第一条)ではじまり、伝統的な自由権、参政権に加え、社会保障、労働基本権などの社会権をうたった世界人権宣言を発する。そして、一九六六年には、国際人権規約を採択する。これは「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)と「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(B規約)からなる。日本は七九年に、A、B両規約に加盟した。
 このようなブルジョア人権思想の発展の下で、では附合契約や普通契約約款の理論は、一体どうなったのか。サレーユがはじめ附合契約論を唱えたときには、その対象には大企業と労働者の間の雇傭契約が含まれていたのにもかかわらず、その後はほとんど問題とされなくなる(ドイツのライザーが唱えた普通契約約款論には、はじめから労働契約関係は対象からはずされている)。日本に附合契約理論が導入された時には、労働契約関係では就業規則という一部で論じられたものでしかない。
 附合契約と普通契約約款の理論は、そのご資本主義の発展にともなう取引の大量化、定型化と、独占体のますますの強化に対して、独占資本の優位な力の濫用を規制するということで、一九七〇年代ヨーロッパ諸国で各種の消費者保護法として次々と立法化されていった。そして、労働契約関係での、不平等な契約については、ほとんどかえりみられなくなっていく。これは極めてゆゆしき事態である。労働基本権の憲法規定や各種の労働立法があろうとも、資本家と労働者の雇傭関係は、依然として不平等だからである。特に、日本では中小企業ではほとんど労組が組織されていないだけでなく、大企業などの労組も企業内組合が圧倒的であり、労資間の不平等性は、欧米以上に深刻な問題だからである。
 サッチャーリズム以後の新自由主義は、文字通り歴史の逆流である。国際社会の常識である社会権ですら、おびやかすからである。新自由主義の反動攻勢は、人権意識が必ずしも定着していない日本社会ではとりわけ猛威を振るう可能性が十分にある。近年の労働法制の改悪攻撃は、その象徴である。(堀込)