中教審中間報告 

教育基本法の全面見直しの策動

  問題すり替えで国家教育へ


文部科学相の諮問機関「中央教育審議会」(鳥居泰彦会長、前慶応義塾長)は、教育基本法の全面見直しを検討してきたが、その中間報告の素案が、十月十七日の各紙に報じられた。
 『朝日新聞』の整理によると、具体的な見直しの視点としては、以下の六点が明示されている。すなわち、@国民から信頼される学校教育の確立─個性に応じた教育や、グローバル化、男女共同参画などに対応した教育など、A「知」の世紀をリードする大学改革の推進、B家庭の教育力の回復、学校・家庭・地域の連携、協力など、C「公」に関する国民共通の規範の再構築―二十一世紀の国家、社会を主体的に形成する日本人育成のため、「公」に主体的に参画する意識・態度の涵養、また国際社会を生きる日本人としてのアイデンティティの基礎となる伝統、文化を尊重し、国や郷土を愛する心を持つこと、D生涯学習社会の実現、E教育振興基本計画の策定─基本法に根拠規定を置き、五年単位で具体的な政策目標を定め、政策評価に基づき見直しを行う――というものである。

  国家教育から脱却進めた戦後教育


 支配層にとっては、今日の教育全般でふかまるに諸矛盾を、放置しておけないことは当然なことではある。だが、資本家階級の利害の観点からすると、中でもグローバル資本主義の下での国際競争の激化に対処しうる、主体的で創造的な労働力の確保・充実は不可欠なことである。この点では、旧来の詰め込み教育、暗記教育、協調性を第一とし個性の開花を封じた集団主義の育成では、今日の厳しい資本間競争に対応した労働力を確保できないということとなる。
 だが、個性を開花させない、鋳型に押し込める教育、丸暗記・詰め込みで創造性を引き出さない教育は、むしろ近代公教育がしかれた、戦前の国家主義教育の産物なのであった。そして、戦後教育は、たとえ不十分だったとしても、そのような戦前教育を根本から改革しようとして進められてきたのである。だからこそ、現行の教育基本法は、その前文で、「日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」として、その第一条(教育の目的)で、「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」としている。そして、その第二条(教育の方針)で「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」としているのである。
 戦後の民主教育では、多くの教師と教育関係者が心ある父母らとともに、このような教育を実現するために、懸命に努力してきた。このことは評価しなければならないであろう。ただ、限界があったとすれば、その最大の問題は、学歴社会の弊害を打ち破れず、受験競争を根本から廃止できず、教育の全体系が、資本と国家が必要とする、人材・労働力にふるい分けするシステムとして機能することを廃止できなかったことである。ただし、これは教師や教育関係者のみでなく、全人民の責務ではあるが‥‥。

  諸矛盾は経済成長一辺倒から


 このような経過からすれば、中教審の中間報告は、全くのお門違いの判断を披瀝している。それによると、現行教育基本法の全面見直しの理由として、「現行法には、新しい時代を切り開くたくましい日本人を育成する観点から重要な教育の理念や原則が不十分だ」と、決めつけているからである。個性をもった、創造性のあふれる人間の育成は、現行基本法の理念であり、むしろそれが十全に展開できなかった限界こそが問題なのである。ところが中間報告は、そうではなく、問題点の焦点を、「『公』に関する国民共通の規範の再構築」などに求めているのである。
 中教審メンバーに伺いたい。あなた方が言う“「公」に主体的に参画する意識や態度を涵養”し、“伝統、文化を尊重し、国や郷土を愛する心をもつこと”が、子どもたち一人ひとりの個性を発揮させ、創造力を発揮する人間を育成することになるのか、と。中教審の中間報告は、全くの「問題のすり替え」である。
 中教審報告なり、支配層なりが、言いたいことは、別のところにある。それは第一には、日本企業の多国籍企業活動が本格化し、またグローバル資本主義化が進行する中で、彼らがいう「伝統的な日本人の価値観」(天皇を頂点とする差別と序列の体系を基本とする)が風化することに危機感をいだいていること、第二に、戦後の高度成長いらいの経済主義一辺倒の風潮がもたらした、教育をはじめとする社会諸矛盾の蓄積を、いわゆる彼らの言う「モラルの低下」や「公共心の低下」に求めていること、などにある。これらは、むしろ支配階級が実践してきた戦後の諸政策と、資本主義そのものによって、生み出されているものなのであり、それを現行の教育基本法にもとめることは全くのお門違いである。

  上からの「日本人のアイデンティティ」作り


 「『公』に関する国民共通の規範の再構築」については、その具体的内容は、愛国心などの育成以外については不明確である。
 中間報告は、「日本人のアイデンティティの基礎」として、日本の伝統、文化を尊重し、愛国心や郷土愛をもつことが重要といっている。一人一人のアイデンティティを自ら作り上げることを無視して、まずもって、国家の側から「日本人としてのアイデティティ」をつくる、そのために愛国心を強要するなどというのは、まさに戦前の国家教育と同じものである。そのような愛国心は、一握りの独占ブルジョアジー、特権的政治家・官僚が牛耳る国家を愛するということであり、自由と平等を希求する諸個人が期待する日本社会ではない。
 また、十月十七日付け『読売新聞』は、「『新たな公共』の概念は、長く議論されてきた『個と公』のバランスの問題に対し、中教審として一つの答えを出したものと言える。/現行法は『個』の尊厳に重きを置くあまり、戦後教育では『公』の意識が育たなかったとの指摘がある。」といっている。この指摘もまた、問題を混乱させているだけである。『読売新聞』は、まず『個と公』を対語的にあつかっている。「公」の対語は、「私」であり、「個」ではない。「個」に対する語は、「全体」であり、「公」ではない。
 このような間違った前提から、『読売新聞』は、さらに問題を「『個と公』のバランス」の問題に置き換えてしまっている。つまり、推測するならば、戦前は「公」が強すぎた、だが戦後は逆に「個」(実は「私」)が強すぎた、だからこれからは、「バランス」が重要だ、というのである。これは「公」と「私」の関係を「反比例関係」でとらえ、しかも「公」を「お上」が独占する、伝統的な日本の垂直的公私観の枠を一歩もでていないのである。社会を構成するすべての「個」それぞれに、公的側面と私的側面がそなわっているのであり、それら諸個人の民主的討議の中から「公」なるものが、生み出されるのである。この意味で公と私の関係は上下関係なのではないのである。垂直的公私観を前提とした論議では、いかに両者の「バランスを」と、言っても、問題の正しい解決はありえないのである。
 最後に、戦後憲法に対して、“権利と自由ばかり強調し、義務と責任を無視している”という批判をコメントしよう。国際的な自由概念は、「自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存する。その結果各人の自然権の行使は、社会の他の構成員にこれら同種の権利の享有を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法によってのみ、規定することができる。」(一七八九年フランス革命時の『人および市民の権利宣言』の第四条)と示されるように、そもそも他者との関係における厳しい「自己責任」に裏打ちされたものである。ところが、日本では、近代にいたるまで、「自由」とは、「我がまま」、「勝手きまま」という否定的意味合いが強かった。このような日本の前近代的な「自由」概念に引き戻そうとする策動に対しては、断固とした態度が必要である。 (H)