【企業献金と議員の不逮捕特権】

問われているのは公私混同と観客民主主義


 問われているのは公私混同と観客民主主義
「族議員のチャンピオン」「利権政治家の典型」とも目される鈴木宗男議員が、逮捕された。
“企業などから金をもらい、役所に口利きをする。これが政治家の生業(なりわい)だ”という、これこそが利権政治家の常識である。こうした政治観は、保守政治家には圧倒的に多く、中には「革新」と自称する政治家の中にもいる。こうした政治観が“常識”とされているからこそ、宗男議員は今もって「何故、俺だけが‥‥」とつぶやき、利権政治家は“口利きが否定されたら、政治家の存在理由がなくなる”と考えているのである。
 テレビでの評論家にも、“古いタイプの政治家”と言うだけで、決して“誤った政治家”とは批判しないムキがいる。つまり、このような政治家は高度成長期には許されるが、膨大な財政赤字の今日では許されないかのような立論である。
だがこうした政治観は、公私混同にもとづいたものであり、徹頭徹尾、変革されるべきである。議員の活動の根本は、公正な立法にあるのであって、すべての人々の活動に公正なルールをつくるからこそ公的な活動なのである。それに対し、個々のA企業、あるいは個人のBさんの利害にかかわる口利き活動などというのは、エゴイズム的な活動そのものでしかない。利権政治家は、よく地元の利害のために働いているからと言ってやましいことはないと胸をはる。だが、それが一地元の利害でしかなければエゴイズム的なものでしかないのは言うまでもない。この点では、族議員の連合でしかない自民党などは、エゴイズム政治の総合商社なのである。
 公私混同の政治を変革するという意味では、主権者からの「陳情」「請願」という名の要求も、公的性格をもったものでなければならない。公的活動はなにも「お上」や官の独占物ではなく、諸個人一人ひとりの活動の中にも取り戻す必要がある。主権者が観客となっているような「民主主義」は、テレビ時代劇「水戸黄門」の域をこえていないのである。 公私混同が“常識”とされている今日の政治の弊害は、政治献金にも及んでいる。ヤミ献金はいうにおよばず、法的にクリアーした政治献金であろうと、個別の私的利害とバーターになっているのが、企業献金などの多くの例である。
 企業献金のこのような実態が自民党政権を長期化させている要因の一つではあるが、そもそも企業献金を合法化していること自身、根本的な問題である。一九七〇年、最高裁は企業献金を合法とする根拠として、「会社は、自然人たる国民と同様、国や政党の特定の政策を支持、推進し、または反対するなどの政治的行為をなす自由を有するのである。政治資金の寄付もまさにその自由の一環であり、会社によってそれがなされた場合、政治の動向に影響を与えることがあったとしても、これを自然人たる国民による寄付と別異に扱うべき憲法上の要請があるものではない。」としている。
 だが、「国民の寄付」と「会社の寄付」とを同じものとするこの判決は全くの誤りである。大勢の労働者(下請け企業群の労働者も含め)から搾取・収奪してえた利益の中から寄付を行う大企業などの寄付と「国民の寄付」(たとえ大金持ちであろうと)とでは、とても同等とは言えない。このようなルールは、集団と個人を同等に扱うのと同じで、とても公正とはいえない。このような不公正なルールこそ、公私混同の利益誘導型政治の物質的基盤を合法化しているのである。裁判官は恥を知るべきである。
 小泉首相は、議員などの口利き問題でスキャンダル続出という事態に直面して、公共事業にかかわる企業の政治献金を規制しようとポーズをとった。しかし、自民党が乗り気でなくウヤムヤになっている。小泉の「改革」などというものは、この程度のしろものなのである。
 小泉首相といえば、鈴木宗男議員への辞職勧告決議を採択しろ、という野党攻勢に会うたびに、“議員の辞職は本人が判断すべき問題だ”と呪文のごとく繰り返してきた。表向き主権在民となっている日本の憲法ではあるが、議員は一度選出されてしまうと、主権者は基本的に関与できない仕組みとなっている。これこそ国民主権論の根本的欠陥である。(堀込)