保安処分新法

 差別者集団・日共の「5・30党見解」を断固弾劾する

  精神病者大衆に依拠しよう


 政府・与党は通常国会の「空転」を打開すべく、会期延長を打ち出し、七月一杯の長丁場の中で医療制度関連法案等の成立だけはおしすすめようとしている。
 その中で、保安処分新法である「心神喪失等の状態で重大な他害行為を行なった者の医療及び観察に関する法律」を医療制度関連法案の延長として本格審議し、今国会で成立させるという姿勢をくずしていない。精神病者の戦線にとって重大な危険がそこには存在する。
 そうした国会情勢の中、差別者集団・日本「共産」党は、こともあろうに、この法案の諸悪のカナメになっている「再犯のおそれ」に対する予防拘束の現実性・可能性について、「裁判官、医師、精神保健・福祉の専門家による合議体が、病状や本人の犯罪歴、おかれている社会生活状況などを慎重かつ精密に検討するならば、現行制度以上に的確に『再犯のおそれ』を判定することが可能であり、それはまた、市民の『不安』を解消する方策ともなりうる」(五月三一日『赤旗』)と言いはなったのである。
 現在、国会内では与党法案に対し、民主党が「再犯のおそれ」の予測を不可能とする立場から初犯の防止に重点をおいた「医療の強化・近代化」をめざす「対案」(しかしながら長年精神医療の足かせとなっている精神医療特例については触れもしないで)を出し、例によって責任野党ぶりを示し、また社民党は基本的に反対を表明していたが、これまで日共はいま一つ態度表明が釈然としていなかった。それが五月三〇日の党の見解と提案「重大な罪を犯した精神障害者の処遇の問題で、国民が納得できる道理ある制度を」として、なんと与党法案と五十歩百歩の再犯予測可能の立場からの態度表明を行なったわけである。
 これは、今や「国民政党」として国民多数の利害の代弁者の立場に立つかれらが、被差別少数者に対して取ってきた態度の集約ともいえる差別、偏見、無知、無自覚の声明となっているのである。われわれは断固としてこの声明を弾劾するものである。日共の立つ基盤は既存の社会の利害の防衛であり、その立場から精神病について語れば、「社会防衛にとって、かれらはやっかいな存在」ということでしかないのである。
 こうした日共の態度のバックには、精神病者や家族の「利害を代表する」とされる全家連や全精連との腐れ縁もあり、とくに「病者団体」として「全国組織」を標榜する全精連は今や、「ブラックリストに載っている患者はともかく、それ以外に対する拘禁には反対」などと、露骨な精神病者差別・分断への迎合姿勢を示し、しかも今や病者大衆からは見離され動員力も世論形成力もなく、県によって、もっと言えば幹部個々人によって見解はバラバラという断末魔の状況を呈している。

地域からの積み上げで6・23東京集会が成功


 こうした情勢の中、六月二三日、東京の国鉄労働会館で「予防拘禁法を廃案へ!6・23集会」が実行委主催でもたれた。
 集会呼びかけ人の中には、このかん、反保安処分の最左派として活動してきた「処遇困難者」専門病棟阻止共闘の名や全障連関東ブロックの名もあり、また、医療従事者の労組からの参加も多数みられた。それとは対照的に全精連や、それを容認するグループ・全国精神「病者」集団の名は一つもみられず、その意味ではこの集会は、今までのたとえば五月六日の全国集会(労働スクエア東京)のような、法案が保安処分であることすらあいまいにしたごった煮ではなかった。この集会は、ある意味では枠を狭くとったわけであるが、逆に参加者数は会場を超満員にする二〇〇名がかちとられた。
 この集会は成功であり、そして遅きに失した成功であった。病者の闘いは長らく、全精連と阻止共の対極の間で分断されていた。分断の責任は、運動の下からの、そして地域からの積み上げのないところで、上から全精連を作ろうとした者、そしてそのような組織に病者大衆が結集するかのような幻想をもった者の側にある。だが、この十年近くのあいだに、精神障害者手帳の制度ができ、全家連の要請で、通報一本で精神病院への移送が可能な移送制度ができ、そして今回の保安処分攻撃がある。結果としては、これらすべてに反対する勢力が、六月二三日の東京集会という範囲であれ、大結集をかちとったのである。
 本当ならば、地域集会の積み上げが、法案の全貌が明らかになる頃までには行なわれ、そして都道府県レベルの闘いがあり、今まさに全国的な国会へ向けた押し上げがあってしかるべきであったのだ。しかし、全精連への幻想が5・6全国集会の失敗(全精連はこの集会の呼びかけ人に名を連ねながら、当日、逃亡したのである)を呼び、他方では、今回の集会と前後して仙台、京都、東京東部地区などの孤立した地域的闘いがあるという、ジグザグをたどったのである。この経過は、まさに運動に対する正しい観点の欠如を示すとしか言いようがない。
 運動の譲ってはならない原則が何であるのか。病者大衆を政治的に利用するのではなく、病者大衆自身の闘いを先頭にすることを常に意識し、また運動は組織優先で上から行なわれるものではなく、生活と結びつき、居住地と結びついたところから出発するのだという、それらの点がまだ不明確であったところに、闘争の未成熟さ、不十分さがあらわれている。
 わたしは、これらの点が、今後のこの方面の闘いを決するリトマス紙であると考える。
 病者大衆は長らく地域で生活することさえ困難な状況におかれ、「福祉」とは名ばかりの、常に病者管理や社会復帰強要と不可分の「恩恵」の中で不安定なくらしを強いられてきた。その中で、家族は、「家族はつらい思いをしているのだから、家族が当事者である」という、全家連のスローガンにいつもコントロールされ、病者に精神的幼児状態と、犯罪素因者であるかのような見方を押しつけてきた。その中で、精神医療もまた、東大赤レンガの陥落が歴史的に象徴するように、今や病者の口コミの中でも、「入院してましな病院なんてない」と言われるほど、荒みきったものになってしまった。この情況の打開のためには、まだしばらくの時間と苦痛が必要であることは疑いないといえるだろう。
 病者大衆への苦痛を強いている張本人は、もちろん小泉内閣と翼賛政党である。われわれはこのことをしっかりふまえ、有事法制で戦争体制をととのえ、国内ではさらに被差別者への差別と危険視を強いるものとの闘いを強めていかねばならない。(A)