史的唯物論と共産主義革命についての平易な一考察

  レーニン主義の創造的発展によせて

                西条 龍太郎

 

  レーニン主義否定の大流行 

今日、レーニン主義の発展について、あるいはレーニン主義そのものについての否定が潮流化している。学者を中心とした人々は初期マルクスへ回帰し、左翼活動家の中でも、エンゲルス、レーニンへの批判−否定が流行となっている。曰く「スターリン主義の原型である」、「マルクスの歪曲である」等々。
 ソ連東欧「社会主義」が崩壊して、すでに十年以上経過したが、その明確な総括がなされないまま、レーニン主義への批判が国内外で一大奔流となっている。ブルジョア政論家、自由主義経済学者たちは、私有制−資本主義の勝利に酔い痴れ、共産主義思想と労働者階級への罵詈雑言を欲しいままにしている。
 さすがに、わが「社会主義者」たちは、資本主義や反動政治を賛美する訳にはいかない。そこで流行の中道政治であるとか、第三の道政治が登場する。公認のヨーロッパ社民は、EC全域でほぼ政権を維持してきたが、リストラ、解雇・失業、そして戦争に対してブルジョア政権と何ら異なることは無かった。環境問題等でわずかに前進面もあるが、米帝との同盟の下で現体制を擁護するという根本問題で一致しており、かれらに体制の基本的変革は不可能である。(独仏等の社民、緑の党の転落はあまりにも悲惨である。)
 このように、二十一世紀を迎えた情勢下、オルタナティブ、対抗社会論等が登場し、NPO、国連下部組織等を通した社会変革の運動の中に、将来社会の展望を期待する流れが台頭している。左翼活動家が、ソ連「社会主義」、中国「社会主義市場経済」に失望し、その根底からの、また一方でのおのれ自身の総括を放棄して、最初は、レーニンの批判から始まり、エンゲルス批判へと進み、ついにはマルクスを批判するまでに至り、市民運動への溶解に行きつく。それらは労働者階級の革命性への絶望、史的唯物論への不信、大衆−党−革命への敵対にまで至っている。恐るべき総転向−総乗り移りの状況である。
 しかしながら、これらの流行もまた、当然理解できないものではない。かっては、スターリン、ブレジネフに至る共産党官僚による専制的国家支配・社会帝国主義を批判できず、今度は、ソ連崩壊も、世界革命の挫折も全く馬耳東風、千年一日のごとく、「マルクス」「レーニン」主義万歳、あるいは名称変更して若干の修正を加え、民族の立場からソ連批判を表明し、スターリン主義と決別した等と称している日共を始めとする世界の旧共産党、今なおスターリン万歳を称しているロシア共産党の亜流どもの存在。また、これらを乗り越えると称して、教条的にマルクス、レーニンの一言一句を模倣し、二十一世紀の現代世界の、地球と人類の情勢分析を全く放棄して、生きた実践から隔離している潮流等などが存在しているからである。

   限界にきた資本主義の政治経済


 今日、ブルジョア政治と資本主義経済が万能であり、人類最後の社会であるという思想が全世界を覆っている。社会というものは、未開から文明へ向かって一歩一歩進んでいくものであって、唯物史観とか革命とかいうものは、歴史に対する誤った考え方である。歴史は上流階級=文明階級が指導するものであって、下層の労働者が政治・文化を指導するなど不可能であるとブルジョアジーはのたまう。
 しかし、ソ連崩壊十年にして世界資本主義は、戦争、貧困、環境破壊、病死・餓死、何一つ解決することができないまま、米国ツインタワービル同時テロ崩壊で西洋近大文明がイスラム復興主義との戦いに動揺する情勢は、かれらブルジョアジーの云々するような未来が、資本主義・民主主義制度からは生まれないことを益々明らかに示しているのではないだろうか。
 資本主義経済が生成・発展してから、すでに五百年が経過している。その現状は、絶えざる過剰生産と恐慌による貧困化、富める階級と貧しい勤労人民との矛盾の拡大、世界的恐慌下の市場争奪戦と帝国主義間戦争、今日では多国籍企業化によるグローバルな利潤の飽くなき推進、人民抑圧の戦争・貧困・環境破壊、ヒトゲノム・ナノ研究と病死・餓死など人間破壊、地球と人類・自然そのものの破壊にまで至っている。改良も改革も何ら実行し得ない歴史的段階を迎えている。
 かって、アダム・スミスやケネーなど自由主義経済の初期理論家たちは、「封建身分制の消滅と自由な生産流通の発展、良き経営者の手腕そして神の見えざる手によって、万人が豊かさと幸せを享受できる社会が可能である」と夢見たものであった。以降資本主義は、産業資本の時代から金融独占資本の確立による帝国主義時代に発展した。
 このかんさまざまな矛盾が現出し、資本主義社会は貧富の対立を拡大し、階級闘争を推し進めることが明らかになった。そこで多くの「良心的」自由主義経済学者たちは、資本主義経済の欠陥を是正・修正しようと努力してきた。ピグー、シュムペーター、ケインズ等の経済学者らは、資本主義の病理を修正せんと様々な政策・理論構築を試みたが、結局のところ、私的所有制−独占資本家体制をそのままにしては解決策は存在しないことが明らかになった。
 今日では、新自由主義、新古典派等の学者達は、資本主義経済についての「良心的」な姿勢を喪失し、数量合わせや株式投資の統計などに研究課題を歪曲し、御用俗物に成り下がっている。曰く「自由経済に勝者と敗者ができるのは当然。経済学の目的は勝者になることだ」とか、「経済学者の任務は、失業を無くすことではなく、自分がどう生き残るかを考えることである」とか、「利潤追求−利的欲求こそが一番大事」等とうそぶいてはばからない。
 政治的上部構造については、どうか。フランス・ブルジョア民主主義革命から約二百年が経過した。今日、先進国と言われるアメリカ合州国、西欧諸国、そして日本などでは君主の有無にかかわらせず、制度的に民主主義国−議会制民主主義体制と言われている。アジア、アフリカ、南米などは様々な政治制度の型を採っているが、多くで王制あるいは軍事的開発独裁政治が行なわれており、形から見ても人民のための民主主義国家とは程遠い状況である。
 また、いわゆる先進国での議会制と言論の自由は、形式上優れているが、フランス革命が二百年前に理想としたところの全人民の理性に基づく、神も王もいない平等な社会とは程遠い。金融独占資本によるマスコミ機関等を通した人民支配の下では、真実の人民の自由も権利も表現できない。米国の大統領選挙をみよ! 労働者人民、女性は絶対に選出されない。その貧富の絶対的格差をみよ! 日本においても、独占資本と自民党の支配は、マスコミ−権力機関によって維持されている。森政権から小泉政権への移譲をみよ! 西欧諸国も似たり寄ったりで、理性に基づく人民の人民のための政治とは程遠い。全ては資本とその国家による全世界支配を維持するこの体制に対して、手をつけることは不可能な政治体制である。
 そして何よりも、この「民主主義」なるものは、第三世界への抑圧・侵略と搾取に依拠し、第三世界人民の不自由と人権無視に依拠して成り立っている。これらの世界的支配構造について、先進国−帝国主義国の自称民主主義の政治家は、保守派から社民改良主義者まで全く無自覚である。
 かって、ブルジョア民主主義に夢をかけた「良心的」ブルジョア政治家・思想家のモンテスキュー、ルソー、ディドロ、ロビェスペール、サンジュストから、近代ではリンカーン、ルーズベルト等々に至るまで、彼らがいかに「良心的」であったとしても、今日の腐敗した政治屋たちには、民主主義・自由を真から建設しようなどという意図は持ち合わせていない。米国、西欧、日本のブルジョア政治家には、人類の未来、自然と人類の共生、全世界人民の生活と権利について何一つ考えもつかないのである。二十一世紀を迎えて米国を始めとした近代合理主義の生産力主義、キリスト教的文明が歴史的な限界にきている時代、世界貿易ツインタワーの同時テロ崩壊にまさに象徴されている時代、この情勢が二十一世紀である。

  根本的変革は共産主義の道


 このような時代の中で、オルタナティブ、対抗社会の運動を進めることは、断固追求しなければならないことは言うまでもない。NGO、NPO、国連下部組織等での活動を広げることは絶対必要であろうし、現に広範に拡大している。我々は、これらの闘いを支持し連帯して闘うことが必要であろう。また、一方での民族解放運動−社会改革運動の後退の中での、イスラム復興運動の台頭は、思想上の後退であるにもかかわらず、二十一世紀の未来を切り開く闘いとして評価せざるをえない。
 しかし我々共産主義者は、これらの運動、これらの過程に留まるかぎり、根本的な変革、私的所有と独占資本の打倒、全人民の解放、世界人民の共生は勝ち取れないと確信している。
 結局のところ、究極に至るまで闘いを推し進め、資本の私的所有の体制そのものへの闘いが必然化する。緑の党が、NATOの核武装、ユーゴへの侵略爆撃を支持し、イスラエルのパレスチナ人民への抑圧戦争に反対できない現状、またイスラム復興運動が、中世・古代への回帰という形でしか闘い得ない根本問題、これらの過程での世界人民の闘いは、結局のところ、共産主義−前衛だけが、その闘いの確固たる推進翼であることを再び明らかにしつつある。世界共産主義革命によってしか、地球的解放は不可能であることが二十一世紀に益々明らかになりつつある。

   ソ連崩壊の歴史的人間的総括とは


 しかし、ソ連社会主義は崩壊し、中国の社会主義市場経済も矛盾を拡大しているではないか? マルクス・レーニン主義は誤っていたのではないか? 課題はそこにある。ソ連「社会主義」崩壊の歴史的総括、冷静で科学的な、より人間的な視点の総括が必要である。
 一九一七年ロシア革命が、人類初の労働者・農民の社会主義を目指す革命として成功してから七十余年、そして一九四九年の中国革命を始めとする途上国いや「登場国」での民族解放−社会主義革命が成立して四十余年が経過した後、それらはほぼ崩壊し解体された。今日では社会主義を目指している「登国」も、キューバとベトナムがわずかに苦闘しているのみとなっている。
 このかん、ロシア革命後のヨーロッパ革命の情勢、その後の安定期を経ての世界恐慌と革命的激動期、そして第二次大戦直後の戦後革命の激動期、さらに相対的安定期を経ての一九六〇年〜七〇年の民族解放闘争やベトナム反戦の闘いに至る「共産」党、革命的左翼の牽引する闘いが繰り広げられた。これらの過程で結局のところ、世界革命−先進国革命は成功しなかった。結果として、後進的帝国主義ロシアと、未だ資本主義が確立していなかった「登場国」が社会主義建設に向けて出発しなければならなかった。帝国主義に包囲された世界資本主義の真中で、一国において理想の社会を建設することは文字通り困難な事態であった。
 一国における社会主義建設を、世界情勢に適応しつつ世界革命と結合して推進するという、きわめて優れた政治・経済・軍事体制が要求されたのであり、党−大衆の関係が徹底的に民主主義的に押し進められねばならなかった。歴史発展段階的にみれば、世界共産主義革命の時代の到来が明確に確立しており、一国社会主義と世界革命との結合の失敗は、きわめて党の指導性の敗北と言えるであろう。
 唯物弁証法的に言えば、歴史の発展はまさに飛び越しは不可能であり、ジグザグを経ながらも前進と飛躍を持って進んでいくものであり、一挙に歴史発展が段階的に進むものではない。五百年の資本主義の歴史にしても、ブルジョア民主主義革命から今日の政治制度までには二百年余の時間がかかっており、その過程は、自由経済と絶対主義統制との攻防、商人資本と産業資本また独占資本の争闘戦、ブルジョア革命と反革命の闘い、それらが総体として今日の帝国主義ブルジョア制度を確立してきたのである。そして、その世界資本主義は歴史的使命を終了し、崩壊の必然性の過程にある。結局のところ共産主義革命は不可避であるが、帝国主義に包囲された「社会主義」国が一国社会建設を進め、世界革命の時代を切り開くには、マルクス・レーニン主義に依拠し、それらを発展させた正しい路線、何よりも人民大衆の支持が必要であった。
 知的水準、民主主義的作風、深い教養と洞察力、革命的インテリゲンチアの養成、労働者人民の人間としての成長・変革、総じて社会発展に応じた「社会主義」的人間の形成が必然化しなければならない。労働者の保守的成り上がり根性から生まれる、旧権力と癒着した官僚主義の打破と民主主義的作風の確立が必要となる。
 先進国革命・世界革命に支援されない未熟な「社会主義」国が、崩壊するか、歪曲されるか、または原則を守りながら苦闘するかは必然であった。ソ連の崩壊を喜び、キューバやベトナムの苦闘を嘲笑するものはするがよい。それらの反共主義者や「左翼知識人」が、キューバやベトナムが「遅れている」とか「貧しい」とか云々するのはたやすい。しかし、かれらは、歴史の発展や弁証法を理解しない人々である。
 全世界人民の解放を目指すものは、革命家でなくても、NGOや国連の下部組織の人々でさえ、全人類の幸せを目標にして、オルタナティブで奮闘している。ソ連崩壊の総括は、利己主義・個人主義の眼から「人間なんてものは理想では食えない」、「人間は利己主義で成り立っている」、「勝者と敗者は必然」等と訳知り顔に言うところの、人類のこれまでの発展、まさに猿が人間に成るために前進してきた全歴史の今日的段階を踏まえない感情論を排して、哲学・経済学・政治学・自然科学の叡智を基礎にして行なわれるべきである。

 以上、レーニン主義否定の潮流が大きくなっていることの客観的基礎と、それを批判する基本姿勢についてやや長くなってしまったが、次号では、では我々はどのようにレーニン主義の創造的発展を進めるべきなのか、について述べてみたい。(つづく)