第32回釜ヶ崎越冬闘争

 反戦・反失業・反グローバリズムの旗掲げ

   「野宿生活者自立支援法」早期成立求めて

 釜ヶ崎における越冬闘争は、01〜02年の今回、第32回目を迎え、十二月二十五日〜一月十日まで行われた。まず、十二月十九日、午後六時より芦原橋の大阪府総合福祉センターに百二十名の参加で「釜ヶ崎越冬闘争支援連帯集会」が開かれた。「一人の路上死も許さない闘い」を作り上げ、「野宿生活者自立支援法」早期成立実現を勝ち取ろう!をメインに掲げ、まず越冬実より基調報告が提起された。ひとつに、バブル崩壊以降、高齢者の失業率が増大する中で、反失連の形成と釜日労の取り組み等により、行政に「雇用を創らす」責任を明らかにし、特別就労事業拡大など、反失業闘争の足場を形成してきたこと。ひとつに、「野宿生活者支援法」要求について賛否両論・意見があるが、要は「法」は道具であり、どのように使っていくかはわれわれの力に結束による大衆運動が決めていくものであり、今強固な団結力が求められている。「法」を踏み段にして失業から野宿に至ることがない安全網を整備させ、誰もが自分にあった形で働きながら自己実現していく社会へと大きく舵をとっていくことが今後の労働運動に求められていること。そして、グローバリゼーションという名の下に、アメリカは貧しい国、地域に軍隊を送り、民衆を弾圧している。越冬闘争を反戦運動と結びつけ闘い抜こう、と簡潔に提起された。
 各戦線からの決意表明に移り、「野宿者ネットワーク」の北側さんが西成公園でのシェルター建設をめぐる活動について報告し、数回の団交を持つ中で、強制的入所はさせないこと、テント・小屋の強制撤去はさせないことを確認しており、改善要求を具体的に突きつけることを重ねていると述べた。釜ヶ崎キリスト教協友会の秋山さんは、夜回りを中心とした活動の中で、野宿者の切実な要求を聞き取り、汲み取って歩いていくことが述べられた。釜ヶ崎反失連の本田さんは、今回の基調は簡潔で分かり易い。反失連の活動は、釜ヶ崎を変えていくというより、今日のこの現実を生む社会を本質的に変えていく視点でやってきた。仲間が一層団結して、釜ヶ崎が、世間に、社会に見えていける活動をしていこう。そのためにも「法律」をキチッと整理・確立・運用させていくことが重要である。釜ヶ崎だけの運動ではない。全ての人々の連帯でこれからの運動を進めていこうと結んだ。ワテら釜ヶ崎からは毎月の夜回りを中心に担うこと、厳しい寒さと腹の立つ情勢だが、闘いの中で仲間と出会うことがうれしいと述べた。
 釜日労の山田委員長は、釜ヶ崎の越冬闘争の歴史を紹介し、行政の対処主義、おまえらに施しをやってやるんだというものと徹底して対決してやってきた。今後も手を緩めず闘いを強めていくと決意表明を行った。
 その後、越冬実の文化、資材、情宣の各班より取り組み内容と予定が提起された。集会は、越冬実の指導で「越冬闘争歌」(アメリカ黒人労働者の闘いの歌の替え歌や韓国の闘争歌、「喜びも悲しみも幾年月」等を集会参加者全員で大きな声で歌った。
 集会は、一、野垂れ死にを許すな!01〜02年第32回越冬闘争を闘おう!一、反戦・反失業・反グローバリズム(多国籍企業の世界支配)を闘おう!一、小泉内閣の戦争加担政策を許すな!一、「野宿生活者支援法」の早期実現を勝ち取ろう!一、反失業闘争を闘い抜いて仕事と住まいを勝ち取ろう!等のスローガンを全員でとどろかせ越冬闘争前段の意志を固めたのだ。
 越冬闘争は、二十五日午後四時よりの三角公園での百五十名が結集しての越冬闘争突入集会より開始された。集会後、大立看を西成労働福祉センターの医療センター下まで運び、八時からの布団敷き、十時からの地区内(北回りと南回りの二コース)と大阪市内一円への医療パトロールが始まった。朝五時に布団をあげ、連日、「日刊えっとう」がセンターで配布され情宣が行われる。炊き出しも三角公園で連日行われた。二十九日からは、越冬闘争集中期に入る。大阪市が南港に開く臨時宿泊所が受け付けられる。今年は翌三十日の入所者と合わせて二千三百八十六名が入所した。昨年より若干増加した。この数年、隔離された・二段ベットの南港は人気が無く、減少してきた。今年の増加は、絶対数の増加が如実に現れた結果だろう。
 一方、西成公園に市が建設していた仮説一時避難所は、一部が完成し二十五日より入所が始まった。しかし入所は、年末までに40名にも満たなかった。ベニヤ一枚とカーテンで区切られたベット(個室と市は称している)でのシェルターには、居住条件からも、出口での仕事の展望がない中では、やむを得ずとはいえ住み慣れた・生活の知恵としてのテント・小屋掛けをたたんでまでの入居を決意する労働者は少ない。既に一年前の長居公園での入所をめぐる時点でも、明らかになっていたことであり、数年前、反失連がシェルター建設を申し入れた時点ならまだしも、テント生活が大阪府下一円に広がっている現在、行政の施策は常に後手に回っていることがより明白となった。
 集中期には炊き出しも回数が増え、連日夕方より三角公園にて集会が開かれた。その日の闘いの報告を確認する集会後、参加者百名から二百名は、恒例の「人民パトロール」に繰り出す。人パトは、野宿する仲間の安否を確認し、元気付けを行い、翌日の臨泊受付や医療相談の知らせを行い、越冬まつりの案内を行うものだ。二十九日天王寺、三十日日本橋、三十一日なんば、一日梅田、二日天王寺、そして三日は地区内を一周するパトロールが行われた。二日には、天王寺商店街アーケード下の現場で三年前虐殺された小林さんの追悼の集まりを行った。
 三十一日からは越冬まつりだ。夕方から三角公園には多数が押しかけ、数多くのバンドがライブを行った。仲間に人気の高い演歌の曽野恵子さんが出演。その後は皆の楽しみののど自慢大会だ。明けて一日に卓球大会、二日には餅つき、三日はソフトボール大会が行われた。連日ライブが続くが、三日は恒例のがじまるの会(関西在住の沖縄出身者の会)による沖縄ソバの炊き出しと、三線とエイサーにより盛り上った。
 四日は、恒例のお礼参りデモだ。この数年、大阪市庁でなく、対策の遅れる府の姿勢を糾弾し、大阪府庁へ要求書を提出するのが常となった。四日からは特別清掃事業も仕事始めである。二百三十名の登録労働者と指導員が仕事に就く中、百五十名がセンターで集会後、三角公園まで地区内デモをし、腹ごしらえの後小雨の中府庁まで、元気にデモを貫徹した。大阪府庁内に陣取り、要求書を読み上げ手渡した。
 要求は、一、特別就労事業を一日当たり千人以上の規模で実施せよ。一、特別就労事業の詰所を増設し、野宿生活者雇用開発促進センターを併設せよ。一、野宿からの脱出を目指すもので、短期雇用、派遣労働、都市雑業に就くものに「半就労・半保護」を実施せよ。一、日本橋、梅田、難波、等に市街地小型シェルターを設置せよ、等である。いずれも、この間、進められた特別就労事業の中から出てきた具体的な、切実な要求である。また、要求書前文で、府・市が失業率が高くなる中で、雇用創出型ワークシェアリング実施の方向を取り、新・緊急地域雇用創出特別交付金を活用することを求めている。更に、安全網整備の一環として、失業―野宿対策に焦点を置いた野宿生活者支援法の成立を国に要望すること、公園から野宿生活者排除することのみを目標とする実状に即さない動きについて、府、市が人権・社会研擁護の立場からリーダーシップを発揮するよう強く求めている。
 越冬闘争は十日に、実際は翌十一日朝の布団あげと情宣をもって終了した。パトロール、炊き出し等は継続される。十四日には、山谷での日雇全協総決起集会へ「勝利号」で大量決起し、また二十五日には、「支援法」早期成立を求める国会前大行動に代表派遣を行い新宿連絡会などの仲間と共に闘った。

 「釜ヶ崎講座」は、「野宿生活者支援法」案が十二月はじめ審議ストップとなり、与党三党のワーキングチームも動き出す中で、来る二月十六日に第二回講演の集いを「野宿生活者自立支援法の早期成立を!」と題して行う。講師は、連合大阪の中小労働運動センター所長の要宏輝氏である。
 九三年、釜ヶ崎反失連は府・市に対し、「釜ヶ崎総合対策に関する要望書」を国に提出せよと要求した。九九年、釜ヶ崎反失連は、野宿を余儀なくされている労働者の経済的自立支援のための特別立法を要求して府・市議会に請願提出を行い、〇一年、府・市議会の全会一致の特別法制定決議を勝ち取った。
 一方、連合大阪では、九八年、「あいりん地区問題プロジェクト」が発足。〇〇年十一月、「野宿生活者自立支援の特別立法を」と題するシンポジウムを開催。〇一年一月、五大都市の連合が連名で、「特別措置法(仮称)の立法化」を提言。そして同年六月、民主党による「ホームレスの自立支援策等に関する臨時措置法(案)」国会提出に至る。
 連合大阪の取り組みの中心が要氏である。その要氏より、「支援法」の意義、提言提出の経過等について語っていただく。
 「野宿生活者支援法」早期成立を期し、「釜ヶ崎講座」の第二回講演の集いを成功させよう。(関西I・S通信員)