【論争・憲法闘争】

  なぜ「第九条の継承・発展」を掲げるのか

   ―三中総・憲法闘争決議案を支持する見地から

                          山内文夫

   

  「自衛権」をめぐって


藤田同志の「修正案−戦争の性格から見て」(本紙十月一日号)を読んで、アレッと思う点があった。
同志の意見の主旨は、「第九条の継承・発展」という三中総・憲法闘争決議案の核心部分を支持しつつも、現在の戦争の性格から見て、決議案が「侵略者に対する国民的抵抗」を語ることは非現実的であり、また日本が侵略されることを想定した論理は日本帝国主義の軍備強化を利するとも言えるので「強調する必要はない」とするものである。(なお、この「侵略者に対する国民的抵抗」の箇所は、谷川同志が「排外主義を正当化するような主張に道を開く」として激しく批判している点でもある)。
この点の論議については後述したいが、わたしがアレッと思ったのは、決議案の憲法解釈規定部分についての藤田同志の修正案では、日本国家は自衛権を否定されていない、という解釈がむしろ強調されている点である。同志は、「第九条は国際紛争を解決する手段として常備軍(国軍)の保持、を自ら放棄している。…しかし…自衛権は否定されてはいないことを認識する」としている。これでは、自衛隊は「国際紛争を解決する手段としての」軍隊ではなく日本への侵略を排除するための実力組織であるから合憲であるとしてきた、自民党などのこれまでの憲法解釈と大差がないのではなかろうか。
憲法闘争決議案の第九条解釈は、日本国家は武力による自衛権を否定されている、という見地に立っている。決議案は、「日本は主権国家として…自衛権を有するが、憲法第九条によって、国家の軍事力による自衛権を自ら放棄し、国軍を保持することを自ら禁止している。日本は第九条によって主権の一部を自ら放棄し」ているとしている。この見地は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争・戦力を放棄しただけでなく、侵略に対する自衛としての戦争・戦力も日本国家は放棄したとするものである。それでは日本に対する侵略者・占領者に対して日本国民は無抵抗主義である他はないのだろうか、そうではない、「しかしまた第九条は、侵略者に対する国民的抵抗の権利を国民から奪っているものではない」としている、これが決議案の第九条解釈である。
(なおブルジョア国際法では、全ての主権国家は「自然権」として自衛権を有しており、全ての人間が「自然権」として人権を有するのと同様、それは放棄したり付与したりできないものであるとする考え方が主流であると思えるが、そういう近代の法的イデオロギーを一旦是認するとすれば、日本国家は自衛権を有するが、第九条によって武力による自衛権「行使」を放棄しているという解釈がより正確な解釈になるだろう)。
第九条や憲法前文をどう解釈するかということは、政党の憲法政策においては、憲法学的に何が正しいかという問題ではなく、その政党が追求している政治目標にそって解釈し、憲法の全体あるいは部分について肯定したり否定したりしているのであって、わが党もそのようにしなければならない。(その際、あまりにもでたらめな法論理であれば、政治的に通用しないということになるが)。

  人民武装と抵抗権

たとえば旧社会党の場合、平和憲法擁護を最大の党派性としてきたが、武力によらない自衛権はある、その自衛権行使の具体的内容が「非武装中立政策」であるという立場であった。(冷戦終結後の社民党も、この立場の延長にあるといえる)。日共の場合、第九条擁護の民主連合政府においては武力による自衛権は否定されるが、その先の革命政府においてはどうするのか、明確にはしていなかった。しかし近年の日共は、将来展望としても社会党的な非武装主義の立場を打ち出しつつある。(その変化と裏表の関係にあるのか、現在の「自衛隊活用」や国連による安全保障を巡っては没階級的対応を深めている)。
わが党の憲法闘争決議案の第九条解釈規定部分(第十一項)は、この決議案の核心部分ではないにせよ、決議案の核心部分といえるその次の項、、「第九条の継承・発展」を掲げ軍隊なき日本社会主義国家の建設と世界革命の展望を述べる第十二項の論理的前提となっているので、慎重に規定する必要があるだろう。
わたしの決議案の読み方では、第十一項の「侵略者に対する国民的抵抗の権利」云々は、第十二項の「日本人民の武装」の法的根拠として主に語られていることが明らかとおもえる。決議案第十二項は、軍隊なき日本社会主義国家の安全保障政策として、全世界人民との連帯、人民武装、政府の外交政策という三要素を述べている。
第九条を発展的に継承する日本社会主義革命の勝利は、国の名によるあらゆる戦争を否定し正規軍を持たない社会主義国家が、世界史上初めて出現することを意味する。世界史を振り返るとロシア十月革命では、帝政軍が崩壊し、赤衛隊という人民武力が組織され、反革命干渉戦争に勝利する必要を契機に正規軍としての赤軍が建設された。中国革命での紅軍は基本的には正規軍であり、その中国共産党の軍隊が人民解放軍という国軍へ発展した。これまでの社会主義国家では武力による自衛権行使は当然であり、公民の国防義務は当然である。それでソ連邦憲法では、「社会主義祖国の防衛は、すべてのソ連邦市民の神聖な責務である」と規定され、中華人民共和国憲法では、「祖国を防衛し、侵略に抵抗することは、すべての公民の崇高な責務である。法律にしたがって兵役に服し、民兵組織に参加することは公民の光栄ある義務である」と規定されている。
軍隊なき日本社会主義国家では、国家の自衛戦争も否定している以上、そのように規定することはできないことになる。憲法の安全保障についての規定は、人民の国防義務としてではなく、社会共同体を防衛する人民の権利として規定されなれればならないだろう。
現憲法は国軍による自衛権を否定しているが、「侵略者に対する国民的抵抗の権利」を否定してはいないという解釈を取った場合、現在の日本でも、民兵的組織が憲法的には可能であるということになる。しかし、この「権利」は現在は、下位法によって民兵制度などについての諸規定が与えられていない以上実質性がないものと考えられる。決議案が念頭に入れているのは、明らかに将来の社会主義体制の安全保障である。谷川同志や藤田同志の批判は、現在の政治的・イデオロギー的攻防における実践上の懸念であり、その意味では考慮すべき点があるだろう。

  人民武装と第九条

また党内の論争では明確な意見となっていないが、一般には、「第九条の継承・発展」と「人民武装」は矛盾しないのか、という意見があるだろう。日本の平和運動・憲法改悪反対運動では、あらゆる武力組織に反対し、侵略に対しては非暴力抵抗を提唱する人びとが主流であると考えられるからである。(党内論争で出た意見は、米帝の侵略に人民武装で対抗することが有効か、という意見であり、それで「一時的な正規軍の組織化」を掲げるS同志の対案が出された)。
国際法や軍縮交渉においては、軍備と民兵的警察的武装は区別されている。しかし軍隊と人民武装は、軍事力の大小という尺度で言えば、その境界は相対的なものにすぎなくなる。我々が目指すべき人民武装は、軍隊と本質的にどう違うのか。それと関連して、最近の市民運動の主張として「軍隊は民衆を守らない」というとき、ブルジョア階級の軍隊なら民衆を守らないが、はたしてプロレタリア階級の軍隊なら民衆を守るといえるのか。こうした問題も、決議案の是非と密接に関わっているはずだが、それを論じるのはまたの機会としたい。(了)