追悼  井上清さん

    在野性つらぬいて

       革命党創建に協力

 
 傑出した歴史家である井上清京都大学名誉教授が他界された。井上さんは京都大学という象牙の塔にありながら、在野の歴史家羽仁五郎氏に師事したこともあって、つねに人民の闘いとともにある歴史学をつくりあげることに努力し、その在野性を貫いた。
 六八─六九年、全国学園闘争が燃えあがる中で、井上さんは全共闘の学生たちの闘いを断固として支持し、『東大闘争 その事実と論理』を著わしたし、尖閣列島(釣魚諸島)問題が起きると直ちに「釣魚諸島は日本のものではない」ことを論証して発表した。当時、それが闘う者にとっていかに大きな励ましとなり、また理論的武器となったことか。
 そればかりではない。『日本の軍国主義』『部落問題研究』『日本女性史』『現代日本女性史』『米騒動の研究』といった著作を見てもわかるように、労働者階級・人民の解放にむけた闘いに次々と理論的武器を送り続けたのである。確かに日本では在野的であったが、中国では一時、「日本史」といえば井上さんの著作を指すほどに高い評価を得ていた。 井上さんは、日「共」宮本修正主義集団と決別すると、新しい真の革命党を創建する事業に協力を惜しまなかった。わが党の母体の一つ、日本共産党(マルクス・レーニン主義)全国委員会の結成前後から一貫して路線・政策を正しくするために貴重な意見を寄せ続けた。ことに日共MLが「民主主義的課題の解決をあわせもつ社会主義革命」という路線を確立できたのには、井上さんの影の功績があったことを忘れるわけにはいかない。
 井上さんは、党学校をはじめ労働学校、各地での労働者集会などでの講師を快く引き受けられた。時には党の学習訪中団の団長さえ務められた。また七五年に出版された『昭和の五十年』では、結語として当時の日本の四大矛盾をあげ、その中での主要矛盾が日本独占資本と日本人民の矛盾であることを指摘し、広範な人々に闘いの方向を示すとともに、結果としてわが党の路線を播布してくれたのだった。
 わが党と阿吽(あうん)の呼吸で闘われてきた三十年、井上さんに歴史家のあるべき姿を見る思いである。定めとはいえ、その逝去は誠に残念という他ない。
                            (徳永恵一)