【論争・憲法闘争】

  なぜ「第9条の継承・発展」を掲げるのか

       ―三中総・憲法闘争決議案を支持する見地から

                         山内文夫


谷川同志が、三中総・憲法闘争決議案への反対論文を本紙九月一日・十月一日号に発表し、その冒頭において憲法闘争で取るべき基本的態度を大要次のように提起している。
すなわち「我々が九条改憲阻止闘争を単に防衛的な闘いに止めるだけでなく反転攻勢への道を切り開くためには」、「改憲阻止闘争を自衛隊解体・日米安保破棄という具体的内容に引き付けて闘いぬくこと、また同時に一旦論争が現憲法の評価に至る場合は、ブルジョア憲法批判、すなわちブルジョア民主主義への批判とプロレタリア民主主義の宣伝・扇動者として立ち振る舞わなければならない」と。この態度が、決議案では「極めて曖昧なものとなってしまっている」と。
この提起の「防衛的な闘いに止めるだけでなく」攻勢的な闘いを、という部分は重要な提起である。ブルジョア基本法がより悪くなることを阻止する改良闘争をそれなりにやっておればそれでよい、と憲法闘争を位置付ければ、我々共産主義者は民主主義運動の後衛以下的なものとなり、情勢に決定的に立ち後れることになるだろう。憲法闘争を共産主義者として如何に積極的に闘うべきか、我が党の中央もその課題意識を谷川同志と共有するからこそ憲法闘争決議案を提案してきたのである。
しかし同志の提起の後半は、わたしの見方では「憲法闘争政策」それ自身の提起にはなっていない。同志は決議案が「自衛隊解体に一言も触れていない」と憤慨しているが、自衛隊・安保政策と別なものとして独自に憲法闘争政策を作ろうとしていることの意義が分かっていないのではないか。(同志は論文で自衛隊政策を一定詳しく提案しており、その内容は妥当なものと考えるが)。日本の広い意味での新左翼は長年、自衛隊解体・安保粉砕は言ってきたものの、憲法を巡るまとまった政策を作ろうとしてきていない。これには色々な要因があるだろうが急進主義者としての限界を示すものと言えるだろう。しかし、わが労働者共産党は、政権政党としての思想的準備を欠いた反帝急進派の限界にとどまるわけにはいかないのである。
同志にとって憲法闘争政策とは、現憲法をブルジョア基本法として暴露し、プロレタリア民主主義を宣伝・扇動することである。これは間違っているのか、いや粗筋としては間違っているわけではない。それではそのことの一部分として、憲法第九条についてはどのような態度・政策をとるのか、同志はこの肝心な点について何も語っていない。第九条の戦争・戦力放棄はブルジョア平和主義であり我々はこれを断然否定する、そしてプロレタリア民主主義では「戦争・戦力放棄」は次のように変えなければならない……と提起するならば、それも一つの憲法闘争政策であるのだが。同志よ、論争を噛み合わせてくれ。

  軍隊なき社会主義日本の実現


わたしは、決議案の「憲法第九条の継承・発展」という政策を明確に支持する。いわゆる平和憲法がブルジョア民主主義・ブルジョア平和主義であるというようなことは、共産主義者の間では論争の共通の前提である。そのようなものの「継承・発展」を主張することは、谷川同志が言うように「ブルジョア民主主義の尻尾に取り付く以外の何程の利益も労

働者階級には与えない」のだろうか。
決議案の論争の核心は、簡単に言えば我々のめざす日本社会主義革命を、軍隊なき社会主義国家の実現としてめざすということに賛成なのか反対なのか、という点にある。もし賛成ならば、現憲法の「戦力不保持・交戦権否認」条項は共産主義者としても使える、という結論になる。簡単な話である。(一定複雑であるのは、「軍隊なき社会主義国家」の実現ということが、常備軍廃止・全人民武装という旧来のマルクス主義理論の単なる言い換えではないという点にある)。
「第九条の継承・発展」を掲げるこの決議案の評価は一つは政治問題であり、一つは理論問題である。
政治問題であるというのは、今後の憲法改悪反対の攻防が九条改悪案の提出という段階に至り一大政治決戦の情勢へ入った場合、共産主義者はどのような政策(九条の評価、九条をどのように取り扱うのかという点での態度の明確化が避けられなくなるだろう)を取ることが、全人民の統一戦線の形成と革命勢力の進出にとって有利なのか、という実践的な政治判断の問題であるということである。予想されるこうした情勢下で、共産主義者が九条評価そのものについて沈黙していたり、ブルジョア民主主義ナンセーンスなどとしていれば政治的大失敗となることは明らかではなかろうか。
理論問題であるというのは、二十一世紀に問われる国際共産主義運動の現代的発展の内容の一つとして、それが「主権国家」の止揚という歴史的課題に直面しつつあるという認識をもつのかどうかという点である。基本法で自衛権行使を制限したり放棄したりすることは主権国家の歴史的前途に関わることであり、憲法闘争政策が現代共産主義運動の理論課題と接点を持つことになるからである。

  課題としての「主権国家」批判


これまでのマルクス・レーニン主義では、歴史的諸国家の階級的性格を明らかにし、プロレタリア独裁国家を経て階級と階級対立を消滅し国家一般の死滅をめざすという綱領路線が明らかにされてきた。しかし、主権国家の成長期にまさに確立したマルクス主義においては、近現代に世界を覆った「主権国家」という国家システムがこれまでの歴史的諸国家とどのように違っており、その歴史的特殊性がどこにあるのか、またその生成・発展・その動揺と質的転化がどうなるのか、という側面からの理論的解明と歴史的展望までは持っていないと考えられるのである。主権国家の歴史的動揺という現代世界が、初めてその理論課題を提起したのである。(いや、マルクス・エンゲルス・レーニンなどの理論の中にそういう部分もある、という指摘のできる方がおられたらぜひご教示いただきたい)。
マルクス、レーニン以降の国際共産主義運動においても、「主権国家」批判は理論化されていない。一九二七年のコミンテルン世界革命綱領においては「世界プロレタリア独裁連邦」が展望されているが、世界連邦の構成単位はプロレタリア主権国家であり、その主権国家の止揚の課題はいぜん未解明である。一九六〇年の世界諸党モスクワ声明もこの延長以下であるにすぎない。そしてその後は、チェコ侵略を合理化するために、ブレジネフの 「制限主権論」という反動的な形で主権論が出てきた。ソ連・東欧のいわゆる社会主義共同体は、主権国家の歴史的地平を前方へ乗り越えることができず、ブルジョア主権国家へ後退してしまった。わたしの考えでは、「主権国家」批判は社会帝国主義批判に新しいアプローチを示すものでもある。
谷川同志は、「九条から共産主義の将来像を語るなどという荒業は筋違いの迷路へと導いただけで、プロレタリア国際主義の内実も吹っ飛ぶことになってしまっている」と批判している。「共産主義の将来像」は、資本主義的グローバリズムの世界史の最新局面という客観的条件と、わが党がマルクス・レーニン主義の現代的発展をかちとるという主観的条件の双方から出てくるのであって、同志が懸念しているように平和憲法の文言から出てくるというようなものでは決してない。
しかし、我々が平和憲法の文言を政治的にうまく活用すること、現代の国境を越えたグローバルな民衆運動を味方につけて共産主義運動の大衆的復興をかちとるために、決議案にあるように「第九条の理想」を語ることは許されるのではなかろうか。むしろ、わたしには「第九条の継承・発展」を掲げて闘うことこそが、共産主義運動のルネッサンスを実現するための絶好の機会であるとすら思えるのである。(つづく)