修 正 案

            ―戦争の性格から見て

                 藤田成雄


九月十一日、アメリカ帝国主義の中心部でおこされた同時多発テロの報復作戦に向かう米軍を「後方」支援するためとして、日本政府は九月中にも「支援艦隊」を編成し、インド洋へ米空母と共に自衛隊を派遣するという。これは全く集団的自衛権の行使を禁じている憲法に違反する。日帝が一九五〇年代より自衛隊(国軍)を発足させ、この五〇年の間に世界第三位の軍隊にまで成長させ、一九九〇年代に国連平和維持活動(PKO)協力法、新防衛指針および周辺事態法を成立させ、海外派兵の準備と実行を行ってきた。海外派兵は、日帝ブルジョアジーの資本投下地域での権益擁護を軍事威嚇によって行おうとするものである。今回は反テロということで超大国米帝と共に行動するが、現代社会では、日帝単独で戦争を行える世界情勢ではない。
 過去の戦争を振り返ってみれば、二〇世紀前半では各国ブルジョアジーが保護主義に走り、資源確保のため、投資地域確保のため(植民地維持のため)、世界分割のため、二度の世界戦争を引き起こした。これは帝国主義ブルジョアジー間の戦争であった。この時期のプロレタリアートのとる態度は、「他国への侵略に対して断固として反対すること、自国軍隊を解体すること」であった。自国への他国からの侵略に対して、プロレタリアートはこの戦争が両国ブルジョアジーの権益のための戦争であることを暴露し、戦争を止めさせることであった(レーニン「社会主義と戦争」)。しかしながら、プロレタリアートは戦争を阻止できなかった。 
 現代社会では超大国と主要帝国主義国が金融独占資本と多国籍企業の権益のため、小中国(貧困国、途上国)を従わせるための戦争(主に民族紛争だが、湾岸戦争では一部の発展途上国の権益を拡大させないために行ったものであったが)をしてきた。しかしながら多くの発展途上国も帝国主義のグローバル資本主義に組み込まれていて、発展途上国のブルジョアジーもこの戦争に加担し、させられている。したがって、他国への侵略に対して、プロレタリアートは断固として反対すると共に超大国、主要帝国主義国、発展途上国のプロレタリアートに呼びかけて、戦争が金融独占資本と多国籍企業のためのものであることを暴露し、やめさせねばならない。
 決議案の中の11項「侵略者に対する国民的抵抗」などは、非現実的である。現実的に日本は帝国主義国であり大国である。軍備も世界第三位である。過去、軍事強化の理由として侵略されることを名目としてきたので、強調する必要はない。

 憲法論議で重要なことは、「国際紛争を解決する手段としては、戦争、武力威嚇、武力行使、は放棄する。」という第九条の解釈と、ブルジョア国際法、国連憲章で「平和の破壊に対する集団的処置(平和的手段)による解決、いかなる国の領土保全、又は政治的独立に対して、武力威嚇、武力行使を慎むこと」から導かれる独立国家の自衛権の問題である。
 もう一つ大切なことは、国家権力の問題であり、階級対立の非和解的産物である国家は、軍事、官僚機構をブルジョアジーが握っていることにあり、プロレタリアートの革命は出来合いの国家機構をそのまま手中に納めることはできない(レーニン「国家と革命」)ことである。

 これらの原則の上にたてば、三中総・憲法闘争決議案の「四、『憲法第九条』の継承、発展について」11、12は次のように改めるほうが良い。

11、現在、憲法闘争の攻防の焦点が第九条にあることをふまえ、党は、第九条について以下の見解に立つことを表明する。憲法第九条は国際紛争を解決する手段として常備軍(国軍)の保持、を自ら放棄している。そして国際社会の公正と信義にその安全保障を委ねている。しかし国連憲章などブルジョア国際法に言う自衛権は否定されてはいないことを認識する。

12、党はこうした内容として第九条を、現在と将来にわたって継承し、さらに発展させるという立場に立つ。日本は第九条および憲法前文において国際社会の協調と対等関係による恒久平和を唱えてはいるが、もちろん、現実の国際社会は超大国帝国主義米国と英、仏、伊、独、日などの帝国主義国が国際反革命同盟を結び、中小国(貧困国、途上国)を従属し、支配、搾取している。また国際的なNATO、日米安保体制等で軍事支配し、国連派遣軍の名で中小国の民族対立を武力解決せんとしている。第九条の理想は現在的には幻想的性格を持っている。しかし、第九条の理想は、国際労働運動の発展、日本人民と世界人民の平和闘争・反帝闘争の強大な発展によって現実のものとなるし、そのように憲法闘争も戦い抜かなければならない。
 (以後は案の条文は省いたほうが良い。)

 「五、将来の日本の憲法についての党の展望」14、15は憲法闘争を戦う上で現在は必要ない。


                               二〇〇一年九月二十六日