共産主義者は「憲法改悪阻止」をどのように闘わなければならないのか

      ――三中総・憲法闘争決議案への批判的見地からー

                                        谷川 洋平


現在、反動勢力の「憲法第九条」をターゲットとした改憲攻撃は、その赤裸々な目論見を隠蔽するため、「環境権」や「知る権利」「首相公選制」等の様々な癖玉を持ち出し、人民に改憲への警戒心を薄めさせ、国会と国民投票での正面突破を図らんとしている。
残念ながら今日の情勢は、労働者階級・人民の側から攻勢的にブルジョア憲法の「社会主義的改憲」を掲げ、この反動勢力から仕掛けられている改憲攻勢と同じ土俵に乗って戦うわけには行かない。
しかし我々が「九条改憲阻止闘争」を単に防衛的な戦いに止めるだけでなく反転攻勢への道を切開くためには、我々は「憲法第九条改憲」阻止闘争を、憲法違反の「世界で第三位ともなった巨大な自衛隊」の解体・「日米安保条約」の破棄、という焦点を定め、具体的内容に引付けて戦い抜かねばならない。又それと同時に、闘争渦中において一旦論争がブルジョア憲法としての「日本国憲法」の評価にいたる場合は、我々共産主義者は、徹底した「ブルジョア階級支配の法的支柱」としてのブルジョア憲法批判、すなわち「ブルジョア民主主義」に対する批判と「プロレタリア民主主義」の宣伝・扇動者として立ち振る舞わねばならない。この点においては、わが党の三中総に提案された憲法闘争決議案では極めて曖昧なものとしてしまっている。

T)「国際貢献論」に対してはプロレタリア国際主義の対置を

今反動勢力は社民党や共産党等の「護憲勢力」の「一国平和主義」を批判し、「日本だけが平和であれば良いのか」と小ブル平和主義を批判し,「世界の平和」のために、憲法第九条を改正し軍隊を派兵することが出来るようにするのだと言っている。
すなわち日本の反動勢力は、かっての社会党や共産党の小ブル平和主義の中途半端さを見抜き、まずは社会党に[帝国主義大国日本の「平和」は他の被抑圧諸国の収奪の上に成り立っているのだ、日本の「平和」はアメリカ帝国主義の世界の憲兵としての力が衰えて来て以降,日本も応分の役割を果たさないと維持できないぞ]との現状認識を突きつけ、多国籍企業を存立基盤とする連合等の圧力の前に瓦解させ、自衛隊・安保容認へと至らしめた。これはまさにブルジョア階級が国際的な観点から物事を考え、国際的な階級としての利害から動こうとしているのに、労働者階級の主流の政党であった社会党が帝国主義本国の労働貴族・労働代官として安逸を決め込みその結果としてブルジョアジーの軍門に下った典型であった。プロレタリア国際主義の旗のもと自国帝国主義打倒を鮮明にせねばならない。
我々革命派は彼らブルジョアジーの言う「平和」そのものを問わねばならない。帝国主義本国におけるプロレタリアートは他国・他民族の収奪・犠牲の上に築かれた「平和」、多国籍企業が全世界で収奪を自由に振る舞える「平和」、ブルジョア階級独裁下の「賃金奴隷の平和」を徹底的に批判し、その意味では「憲法第九条」の限界をはっきりと指摘しなければならない。
第九条はその冒頭次のように書かれている。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」 云々、しかしまさに「正義と秩序」の中身こそ問われなければならない 。残念ながら憲法第九条を誉めそやすだけでは左翼としては決定的に不十分なのだ。ましてや、憲法闘争決議案のように、九条から共産主義の将来像を語るなどという荒業は筋違いの迷路へと導いただけで、プロレタリア国際主義の内実も吹っ飛ぶことになってしまっている。
今我々は、戦後五十年近くを経て、日本人民の多数派の「小ブルジョア平和主義」を支えた政治・経済構造が激変する中で、その意識が大きく排外主義へと向かうかどうかの瀬戸際に立たされている。この流れに抗するのに、今は厚かましくも保守派に横取りされてしまっている「一国平和主義批判」を左翼の側こそ声高々と再度叫ぶべきであろう。
我々は、「ブルジョア的正義」と「国際的帝国主義の支配秩序」は拒否する。と。

U) なぜ「憲法九条の改憲」に反対するのか

今日、改憲論者の多くは、「自衛隊は憲法第九条に違反している」と公然と主張し始めている。但し彼らは、憲法を改正することで自衛隊を合憲の存在にしようとするわけであるが。
既に憲法第九条は、世界で第三位とも言われる軍事力を有することで形骸化している。「平和憲法」を「担保」していた「軍事力の不保持」は既に完璧に消え失せている。そして今や最後の仕上げとして、「自衛のための戦争」ではなく、「海外派兵」に大手を振って行ける軍隊へと自衛隊を認知させるため、日本社会の政治的合意を勝ち取るために、彼ら反動勢力は戦後最大の改憲攻撃を仕掛けてきている。それゆえこの改憲攻撃は「日本社会全体の、帝国主義戦争を遂行することを国是とする社会体制の確立」を目指す日本帝国主義の野望の中心・要の攻撃である。彼らは既に干からびた最後の外皮たる「憲法第九条」を粉々に打ち砕くことによりこの目的を達成しようとしている。それゆえ我々も又、何よりもまず、こういった日本帝国主義の野望を打ち砕くといった観点から、他の諸々の連動した反動攻勢とも対峙しながらこの「憲法第九条改憲反対」闘争に取り組まねばならない。
しかしまた我々は、多国籍企業をヘゲモニーとした「自国帝国主義の他国家からの収奪のシステムを維持する守護神としての自国軍隊」の解体を望むという観点からだけではなく、ブルジョア階級独裁の最大の暴力的支柱としての自衛隊の解体を望むという観点から、憲法第九条の改悪に反対するのだということをも明白に表明する。この点を曖昧にして小ブル平和主義者に追随したり、また自衛隊の階級的性格をいささかでも暴露しないような九条改憲反対闘争のブルジョア民主主義的傾向とは明確に一線を画しておかねばならない。
憲法闘争決議案と基調を一にする 山内論文(本紙三七九号『憲法改悪阻止の共同戦線へ』)に示される「九条の継承・発展を」「九条を共産主義者として再解釈することが必要である」などといった展開は、まさに現に存在する自衛隊の解体に一言も触れないで、すなわちその途中で発生する内戦又プロレタリア独裁を飛び越えるといったことになってしまっている。


V)「憲法第九条の改憲」を許さないということは、まさに帝国主義軍隊=自衛隊を解体するということである

1)「憲法第9条を守る」ということの重さ・困難さの最大のものが三十万人弱に膨れ上がった自衛隊を無くす、解体するということにあることは言うまでもない。
三十万人近くの武装した戦闘組織を解体するという戦いが、単に小ブル平和主義からの「憲法を守れ」といった闘い方だけで出来ないことは、既に肥大化することはあっても縮小さえしてこなかった自衛隊の歴史を見れば一目瞭然である。自衛隊の官僚組織その物の自己防衛と共に、この武装した三十万人の戦闘組織を握っているのは他でもなく日本のブルジョア階級であり、米帝の一定の統制もかかっている。
その兵士の多くが下層労働者階級・農民の出身とは言え、その上層部は自民党を始めあらゆる形態でブルジョア階級と結びついている。国会において護憲派が多数を掌握したとしても三十数万の武装組織がそう安易に自らの解体をすんなりと認めるであろうと考えるなどということは白昼夢・真夏の夜の夢である。プロレタリア階級・人民と一戦も交えずにプロレタリア階級の陣営に馳せ参じると考える訳にはいかない。しかしだからといって、今すぐの突撃を日本人民に呼びかけるのも時期を得ない方針であるに違いない。
今は、労働者・人民による「正規の包囲軍」を準備するということである。その第一は、日本の国家財政が破綻を来し、福祉や教育を始めあらゆる分野で人民の生活にそのしわよせが押し寄せてくる中で、年間五兆円もの軍事費が浪費されている。しかもその中身もおよそ自衛のための兵器とは名ばかりで、海外への軍事侵略にしか役立たないような巨額の先端兵器の購入に費やされている。我々はまず、この軍事費の大幅削減を、聖域無しの行革を掲げている自民党へ突きつけねばならない。
第二に、自衛隊の存在価値をここぞとばかりに強調せんとしている、災害派遣の役割を、今の防衛庁・自衛隊の組織から完全に切り離すことである。組織・予算・人員・装備・基地全てのものを切り離し、国際・国内における災害に対して迅速に対応できる、専門知識を有した組織として独立させることである。これこそ国際貢献の最も有効な手段でもあり、自衛隊の即時の縮小をも可能とする。
第三に、我々はその出身の大部分が下層労働者階級出身である自衛隊員を「自衛隊を解体」することによって、路頭に放り出す訳にはいかない。全ての自衛隊員に国家公務員としての再雇用を保証すること。又解体に至る過程において、政府との交渉を可能とするため下部自衛隊員に今すぐの組合結成を始め労働三権を認める必要がある。そのことにより始めて自衛隊の政治的解体の準備と自衛隊員の労働者・人民の側への同調を組織する条件が出来るであろう。そして我々は、「誰のための」「何のための」自衛隊なのかを徹底して宣伝・扇動するであろう。
最後に最も重要なことであるが、侵略戦争の準備のための日米共同軍事演習や、基地による被害を受けている周辺住民の反自衛隊闘争等に労働者階級人民の政治動員を強めていくことである。
2)ここにおいて、間違っても、「九条は国軍あるいは正規軍による自衛権行使を禁じているが、侵略者に対する国民的抵抗の権利を国民から奪っているものではないことを明確にする必要がある」(山内論文)などといった、排外主義を正当化するような主張に道を開くことになり兼ねないことは言うべきではない。
この主張はなぜ排外主義に道を開くことに繋がるのか。この主張は、「日本が他でもなく世界で有数の帝国主義国家であることを隠蔽している」、「日本が侵略されたらなどという、全く正反対の現状を押し出すことにより、現実の日本帝国主義の侵略を正当化する」、「すなわち侵略を極めて小さな概念で包み込み、いわば一昔前の侵略を押し出すことにより、グローバル資本を中心とした、現在の侵略に免罪符をあたえている」 。日本の支配階級は、自衛のための必要最低限の「自衛隊」は必要であるとの主張から、現代の世界に冠たる「軍隊」を作り上げたことを忘れてはならない。確かにミサイルやステルツ爆撃機の前にピストルでは自衛は出来ないのである。
「もしウィルヘルム治下の一ドイツ人(小泉自民党治下の一日本人)、もしくはクレマンソー治下の一フランス人(ブッシュ共和党政権下の一アメリカ人)が」「敵が自分の国に侵入する場合には、自分は社会主義者として祖国を守る権利と義務があるというならば、これは、社会主義者の議論でも、国際主義者の議論でも、革命的プロレタリアの議論でもなく、小ブルジョア民族主義者の議論である。なぜなら、この議論では、資本に対する労働者の革命的な階級闘争が無くなり、世界ブルジョアジーと世界プロレタリアの見地からの戦争全体の評価が無くなるからである。すなわち、国際主義が無くなって、残るのは、貧弱でがんこな民族主義だからである。自分の国が辱められている、私には、これ以上の大事はない、この議論はようするにこうなる。……・。私はー自国―の見地から論じてはならず(なぜなら、それは、自分が帝国主義ブルジョアジの手に握られた玩具であることを理解しない、哀れな、民族主義的小ブルジョアの議論であるから)、世界プロレタリア革命の準備、宣伝、促進に自分が参加するという見地から論じなければならない。」(レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』)
「帝国主義戦争における、自国帝国主義の敗北」という見地があって始めて、プロレタリア国際主義、全世界の労働者階級との連帯が語られるのである。しかるに、憲法闘争決議案および山内論文のように、憲法第九条の解釈を得意げにしてみせることはブルジョア民主主義者の尻尾に取り付く以外の何程の利益も労働者階級には与えないのである。又あえて「国民」なる用語をわざわざ使用しているところの問題点も指摘しておかねばならない。
3)さて更にもう一点山内論文の問題点を指摘しておかねばならない。それは、「九条の継承・発展」を言いながら、現存する「自衛隊」の解体にほとんど触れていない点である。「九条改悪阻止」は言っても、「自衛隊解体」のニュアンスは、社民党、日共批判の中に見て取れるが、極めて影の薄いものとなってしまっている。それは、「それでは、共産主義者が安保を粉砕した後、九条を継承・発展するという場合、何が問われるのだろうか。」と設問して、「自衛隊」の問題に触れないで一挙にプロレタリア独裁国家の問題に論点を移してしまっていることからしても見て取れる。これでは、「九条改憲阻止闘争」の核心部が抜け落ちるというものではないか。

W] 憲法九条の改憲を許さないということは、日米安保条約を無くすということである。

日米安保体制とは、今日においては世界の三分の一近くを占めるアジアから中近東までの人民を米帝主導下の帝国主義支配体制下の「正義と秩序」の下に縛り付ける、帝国主義間の軍事同盟以外の何者でもない。多国籍企業はこの軍事同盟を背景としてその世界的な収奪のシステムを維持している。この条約は間違いなく憲法第九条に違反している。この条約は沖縄に米軍基地の7割以上を押付けることによって沖縄人民に災禍を及ぼしてきた。又日米地位協定は米軍に治外法権の権利を与え、米軍の日本国内における乱暴狼藉を許してきた。そして毎年六千七百億円近くの「思いやり予算」を日本人民から税金として吸い上げ米軍に貢いでいるのである。我々は、在日米軍基地の撤去、日米地位協定の改定、思いやり予算の廃止の闘いを推し進め日米安保条約廃棄の闘いへ突き進まねばならない。