ハンセン病国家賠償請求訴訟に勝利判決

   「人間回復」の闘いは続く

             一医療関係支援者として考える

                          杉原一男

    はじめに


 五月十一日、元ハンセン病患者たちが、熊本、東京、岡山の三地裁へ起こしていた隔離政策九〇年の国家責任を問う国家賠償請求訴訟において、熊本地裁は「国の隔離政策は違憲」と判断し、「らい予防法」の早期見直しを怠った旧厚生省の違法性と過失と、国会議員の立法上の不作為について違法性と過失を認め、原告(元患者一二七人)へ総額一八億円の倍償を命令する原告全面勝訴の判決を決した。以降、国は控訴した後に和解を図る収束を画策したが、原告団、弁護団を始め、多くの支援の強い追及の中で、五月二十三日、国は控訴を断念、隔離政策を謝罪する事となった。
 ハンセン病訴訟の勝訴、国の控訴断念、謝罪という今回の展開の中で、私は国賠訴訟支援にかかわる一医療関係者として、原告の皆さんの国の責任への憤りを改めて痛感し、いまなお差別と偏見が続くなかで社会復帰への未だ長い闘いに更に支援を深めていかなければならないと感じた。

   ハンセン病とは
 
ハンセン病は、結核菌に近い「らい菌」という細菌によってひきおこされる慢性の細菌感染症である。「らい菌」の感染力は弱く、たとえ感染しても発病に至るのは一部にすぎない。感染は、過去は皮膚から皮膚への接触感染が重視されてきたが、最近は経気道感染が重視されている。感染、発症すると、主に末梢神経が侵され、次いで皮膚、粘膜が侵される。発病は少なかったが、適切な治療がなされずに病気が進行すると、手・足・顔面などに知覚まひ・運動まひを起こすこともあり、身体的障害を残すこともあり、誤解と偏見のため不当な恐れをもたれた病気である。
 ノルウェーの医師ハンセンが、一八七三年(明治六)年「らい菌」を発見、以降ハンセン病と呼ばれるようになった。一九四三年までは有効な治療法はなかった。四三年米国でプロミンという薬の有効性が発表され、日本においても四七年には導入された。治療薬の研究が急速に進み、プロミンの有効成分のダプソンの精製による錠剤(飲み薬として可=外来診療への転換可)の開発を経て、抗結核剤としてのリフアンピミンの有効性が認められ、クロファジミンの追加を経て八〇年代には多剤併用療法がWHOによって提唱され、治療法は確立されてきた。現在は、発病しても通院治療で治り、後遺障害も残らなくなっている。

   「隔離」を主とした日本の対策

 日本においてのハンセン病対策は、従来、患者数も少なく「救済」としての対象であったものが、明治維新後、患者を地域から故郷から徐々に追い出し始めた。外交上の体面と社会防衛論の立場から、政府は隔離を基本にした政策を取り、一九〇七年「癩(らい)予防ニ関スル件」の制定を図り、全国を五ブロックに分け、公立療養所を設置(〇九年)、患者を強制的に収容し始めた(現在は全国に国立十三、私立二の十五ケ所、入所者は約四四五〇名、平均年齢は七十四歳に達して入る)。日本における誤りはここに始まる。以降九〇年余、一世紀におよぶハンセン病患者の隔離が続いたのだ。
 予算を低くしか組まない政府の療養所の中で、患者作業は必須となった。このため軽度の人達の身体的障害は加速された。しかし苦しい中で「逃走」も起きる。診療所の秩序維持のため、「断種手術」を条件とした所内結婚が認められた。人工中絶も前提となった。中絶は「らい予防」法廃止の直前まで続いたという(毎日新聞より)。三八年には、懲戒検束権を所長に付与した。この中で強制隔離は絶対化し、三一(昭和六)年に改正された「癩予防法」では、隔離の対象が放浪するハンセン患者から全てのハンセン患者に拡大され、当時の「民族浄化」思想とあいまって、社会からも「無癩県運動」という患者狩り=収容隔離が更に強まったのだ。

    遅きに失した「らい予防法」廃止
 
戦後、各療養所の自治会は五一年「全国国立癩療養所患者協議会」=全患協を組織し、運動を始めた。五三年には予防法改正は前進したが、「癩予防法」は「らい予防法」と、口語体に直しただけだった。
 五六年ローマで開かれた国際会議で、「ハンセン病患者に対するすべての差別待遇的な諸法律は撤廃されるべきである」という「ローマ宣言」が決議され、日本の隔離政策は批判されたが、日本政府は無視した。
 六〇年代、七〇年代には、六四年全患協からの「らい予防法の改正等に関する請願」が衆参で採択された。しかし、国会は法改正には動かなかった。十一日の熊本地裁判決では、このような態度を「立法上の不作為」と明確に断罪した。八〇年代後半より、再び隔離政策に批判が高まり、九一年に「全患協」から「らい予防法改正要求」が出され、多くの関係団体が同調、やっと九六(平成八)年四月一日、「らい予防法」は廃止されたのである。 「らい予防法」は廃止され、一方制定された「廃止に関する法律」では、療養所の入所者には従来通りの医療と福祉を講ずるが、退所し社会復帰する場合は、国の支援金が最高二五〇万円の一時金にとどまり、障害年金も最高で月一〇万円程度である。退所者は数十名にも満たない。なにより平均七四歳と高齢化している事、所内労働により後遺症として重復の障害を持っている事、家族への配慮から縁を切っている事が多い事(帰るべき故郷がない)、そしていまだ社会に根強い差別・偏見が行手を遮っている。「断種手術」「中絶」により、子どもがいないことが復帰の受け皿を持たない、という厳しい現実がある。

   ハンセン病国賠訴訟へ起ちあがる

 しかし、ハンセン病患者、元患者たちは闘いを続けた。国は、らい予防法廃止当時の菅直人厚相も法の廃止が遅れたことは謝罪したが、国の責任は(補償について)言及しなかった。国は、「療養所での処遇を一律に維持することで補償問題は解決した」と、姿勢を変えなかった。
 熊本における元患者たちの提訴は、まず「問題は解決済み」という国の態度に対する憤りがきっかけに、九州弁護士会で「弁護士は人権を守る専門家といいながらこの法律の違法性について何もしてくれなかった」との発言を機に、弁護士たちが療養所の元患者ひとりひとり訪ねて訴訟に踏み切ったことから始まる。
 九八年七月、熊本県内と鹿児島県内の入所者計十三名が熊本地裁に提訴、以降西日本八国立療養所の入所者が十四次にわたって提訴してきた。九九年からは東京・岡山両地裁にも訴訟がおこされ、総原告数は熊本判決直前で七四〇名におよんだ。原告団は、国賠訴訟原告団協議会を結成し団結、弁護団は西・東・瀬戸内弁護団が全国弁護団連絡会を結成、全面弁護を担当した。
 一方、訴訟を支援する諸団体が次々と発足、九九年六月熊本で「支援全国連」が結成された。ハンセン病を学ぶ会、ハンセン病国賠訴訟を支援する市民の会大阪(名称は多少異なるが、熊本、福岡、東京、北海道等)、ハンセン病と人権を考えるネットワーク(大阪)等々、団体、個人が参加した。

   裁判の争点
  
 今回の熊本地裁での国賠請求訴訟は、第一次〜四次原告一二七名で、一人あたり一億千五百万円の損害賠償を求めていた。
 争点は、一、隔離政策について原告は少なくとも五〇年代には世界的に在宅医療が主流、国内でも五一年学会でプロミンの治療効果が確認されていたと主張、医学的根拠が失われていたのに五三年「らい予防法(新法)」を制定、放置したと訴えた。二、除斥期間、国側は不法行為でも二〇年経過すれば損害賠償請求権が失われる民法上の「除斥期間」をひき合いに出し、「二〇年前よりの昔のことまでの主張はおかしい」と反論。原告は「不法行為は予防法廃止まで続いていた」「人権侵害に除斥期間の考え方は適用すべきでない」と反論。三、結果責任では、国はらい予防法廃止時に入所者は「特別な状態」にある(社会復帰が極めて難しい)と位置付けた。それが過去の行政の結果として生じたことは否定はしないが、補償は「解決した」と居直っていたのである。

   5・11熊本地裁全面勝利判決の骨子

 十一日熊本地裁判決の骨子と意義について、弁護団の評価からみてみる。
 まず「全面勝利といってよい画期的判決」と評価し、
一、厚生省の責任、国会の責任について、「新法の隔離規定は、新法制定当時から既に、ハンセン病予防の必要性を超えて過度な人権の制限を課すものであり、公共の福祉による合理的制限を逸脱」とし、六〇(昭和三五)年における厚生省の責任のみならず、とりわけ六五年の時点における国会の責任を明確に認めた意義は大きい。本件における立法不作為が「他におよそ想定し難いような極めて特殊で例外的な場合」に該当するとした。二、除斥期間排除、加害行為は法廃止のときまでとし、法廃止のときから除斥期間進行とし、国の主張を完全に排除。
三、被害の本質について、「継続的、累積的」に発生、「人生被害を全体として一体的に評価」すべきとしている。
四、損害について、「本判決が処遇のあり方を左右する法的根拠となるべきものではない」として、処遇の維持は当然の前提と明言。
五、判決は「真の権利救済」のために、共通損害について包括的な賠償認定をした。
──と、判決直後の弁護団見解で述べている。
 全国原告団協議会は、弁護団と共同で「判決は司法救済からさえ隔離されてきたもと患者らに対するはじめての司法判断であり、‥‥もと患者らが『人間回復』をはかるうえで画期的」とし、「いまこそ国の責任を前提とし『真相究明』『人権回復』『再発防止』を柱とする全面解決がはかられなければならない」との声明を発表した。
 私から見ると、六〇年以前の隔離政策については違法性を明言せず、隔離九〇年を問う事には至っていない歴史的限界点は問題として感じた。しかし十一日判決の意義は、現時点では「ほぼ完全勝利判決であり」、断固守り抜かねばならないものであった。

   原告・支援の闘いで政府は控訴断念へ
 
国は訴訟期間が民法上二〇年を超える事、国会の不作為を違法とされたこと等にこだわった。大きな判断は控訴し、法的主張について同意せずを明らかにし、その後、包括的和解で図るというものだった。「国は過ちを犯さない」「かりに過ちを犯しても過ちと認めない」姿勢を一貫してとってきた。しかし、原告の怒りや国民の反発を考慮し、高齢化が進むための人道的救済策を打ち出し、控訴による国への反発を和らげる意図であった。
 しかし、原告、弁護団、支援の控訴断念を迫る取り組みは死をかけた激しいものとなった。連日の要請、元患者の追加提訴、十九日の邑久町で岡山訴訟の原告等が、かつて乗車拒否をされた路線バスの十九キロをデモして控訴断念をせまる。二十一日には、首相官邸前に原告、支援が結集、小泉首相への面談を求め追及した。原告の「私たちがどういう思いでここに立っているのかわかりますか」との問いに、秘書官は「集団的圧力だ」と言いはなったのだ。その日は小泉首相は面談を拒否した。
 二十三日、政府は控訴を断念した。原告団全患協・弁護団そして支援と、世論が断念させたのである。しかし政府は、この熊本地裁判決は最高裁判例に反して国会議員の不作為に法的責任を不当に広く認めており、また判決が民法規定に反し四〇年間の損害賠償を認めているのは国民の権利義務関係を混乱させるなどと主張して(実際はメンツにこだわって)、「法律上は問題点があり本来は控訴せざるを得ないが」とする一項を入れた「政府見解」を二十五日表明した。しかし、判決が明確に述べたのは、最高裁判例とも異なる判決を下せるのは、国会の不作為が「他におよそ想定し難いような極めて特殊な例外的な場合」に及んでいる事からなのだ。
 種々な問題は未だ残しつつも、控訴は断念され、勝利判決は確定にいたった。しかし元患者の社会復帰は極めて厳しい状態がある。引き続き元患者たちへの支援がわれわれに求められている。医療関係者の立場からは、五三年の法改正闘争が名称変更に留まった大きな理由に、五一年の国会での「三園長証言」が大きく影響していたことを自戒しない訳にはいかない。
 この間三月の薬害エイズ裁判における安倍無罪判決、四月の関西水俣病訴訟の高裁全面勝利判決と国・県の上告と、公害・薬害問題など大きな裁判上の動向が続いた。引き続き、時期的には逆になるが、この二者についても考えていきたい。