改憲阻止の共同戦線へ(後)

  共産主義者は「第九条」をどう取り扱うか

                     山内文夫

  改憲と安保の現段階


前号で改憲諸勢力の主張の概要を見たが、それが「国際協力」「二十一世紀への対応」「新しい人権」等の美辞麗句を掲げ、また種々の改憲の諸点を挙げていても、その狙いの中心が第九条の二項(戦力不保持・交戦権否認)の完全な否定にあることは明らかである。平たく言えば、自衛隊が大手を振って戦争に行けるようにしたいのである。
ここで重要な点は、九条改悪推進勢力の意図は、まごうことなき戦力である自衛隊と「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とする憲法条文との明白な解離を、つじつまの合うものにしたいというような(一般に受け入れやすい)無邪気な意図ではないということだ。そのような現実と憲法の解離は、ここ何十年ずっとあった。なぜ近年になって明文改憲なのか。社会党の崩壊以降、戦後初めて国会で改憲推進・容認勢力が三分の二以上を占めるようになったという点があることは確かだ。しかし一番のポイントは、日米同盟の現在がそれを要請しているという点である。
アメリカ帝国主義は現在、日本に集団的自衛権行使を解禁せよと迫っているが、直接憲法改定の是非について語ってはいない。仮に米帝が日本の憲法改悪はアジア情勢に不安定要因となると判断し、明文改憲に否定的に臨めば、日本の改憲勢力は強い制約を受けることになる。米帝は日本の軍事力を動員したがっているが、同時に、それは米帝の世界戦略にとってコントロール可能な範囲のものでなければならない。日本は新ガイドライン安保の現段階に応じ、「戦争のできる国家」へ飛躍し、あわよくば日本資本主義の海外権益を自力の軍事力でも守れるようになりたがっているが、米帝の機嫌を損ねるわけにはいかない。もし石原慎太郎や西尾幹二などの極右が改憲勢力の中心に居座るようになれば、右翼のブッシュですら不安を感じるようになるだろう。
現在の改憲策動を観るうえで重要とおもわれる点の第一は、日米安保体制の現段階と密接不離であること、改憲策動がアメリカ帝国主義を支柱とする国際反革命同盟体制の再編の一つであり、その体制の枠内に日米の帝国主義間矛盾もあるということである。
このことは第二に、改憲の政治的性格がどのようなものであり、また改憲勢力が憲法改悪のための「共同戦線」をどのように作ろうとしているか、を規定してくる。現在のところ改憲攻撃は、厳密な意味でのファシズム攻撃や戦前の天皇制国家の再建を目指しているものではない。それは、米帝が主導する資本主義的グローバリズムへ日帝が軍事を含めて呼応しようとする攻撃である。そこでは議会制民主主義制度という支配制度の手直しを「改革」の怒号やナショナリズムの再建で補強しようとしているが、どうしても天皇制ナショナリズムが出てしまい、帝国主義国の市民的ナショナリズムが未成熟であるという日本的反動性が目に付くのである。しかし現在の攻撃は、単純な右翼反動の形をとった攻撃ではない。単純な右翼反動の主張では、改憲諸勢力をまとめることができず、国会と国民投票を制するだけの「共同戦線」は作れないのである。

  広範な共同戦線を


これらのことを踏まえたうえで、こちら側の、憲法改悪阻止の側の共同戦線の形成につい て考えてみよう。
第一に、我々は、憲法の平和的・民主的条項を守り現実に活かしていこうとする日本人民の運動を支持・支援し、九条改悪阻止の一点で一致できるすべての諸政党・諸勢力・諸個人の広範な共同を支持すべきである。憲法改悪を実際に阻止するためには、これまで左翼諸派が経験してきたような狭い共同行動では到底用を成さないのであって、もっとも広範な共同戦線が構想され、実践されなければならない。また、共同行動を内部から破壊しようとする者でないかぎり誰でも参加できること、共同行動の原則に特定の政治的条件を付けて特定の勢力(日共であれ、いわゆる過激派であれ)を排除することのないようにすべきである。
第二に、共同戦線の形成への共同行動のなかで、相互批判の自由があることは言うまでもない。現行憲法全体の評価、改憲攻撃の情勢認識、改憲阻止の運動論などで活発な論争が起きることは、共同戦線の発展にとってよいことである。社民党、日共は、改憲阻止共同戦線の有力な勢力であるが、憲法闘争の民主主義的次元においても重大な誤りをもっている。社民党は最近、参院選政策を発表したが、いぜん安保解消は将来の課題としており、自衛隊・安保を認める基本政策を維持している。日共も、入閣できたら過渡的には安保を容認すること、また自衛隊「活用」の政策を取ることを昨年の党大会で決定している。我々は、これら社民党、日共の態度を厳しく批判する。
第三に、労働者階級の政党は、改憲阻止共同戦線での労働運動の取り組みを重視すべきである。連合は、ナショナルセンターとしての憲法改悪反対運動を意識的に放棄しており、今のところ連合指導部は民主党多数派と共に改憲勢力に組している。最終的に連合が改憲の側か、改憲阻止の側か、ということは情勢を左右することの一つである。現在、市民団体、文化人、宗教者などが運動の中心となっているが、これと連携した労働組合としての憲法闘争を発展させることが問われている。
第四に、現在、改憲派が九条改悪を具体的に提案してくる以前に、「安全保障基本法」「緊急事態法」などを制定し、集団的自衛権行使と戦争体制を立法的に合憲とする動きが強められている。改憲阻止の共同行動が、これらの改憲的諸立法を粉砕する共同行動としても機敏に対応できるようにしておく必要がある。また、小泉新首相が「まず首相公選制の憲法改正を」などと突然言い出してもいるが、これは九条改悪への一つの段取りに他ならず、首相公選制それ自体への賛否にかかわらず共同行動が一致して小泉改憲発言を糾弾すべきである。(首相公選制改憲案は改憲勢力の中でも不一致であり、小泉発言はむしろ混乱を改憲勢力にもたらすであろう)
最後に、われわれ共産主義運動の政党に独自に問われる課題として、改憲阻止の広範な共同戦線の形成を支持・支援する中で、現行憲法の天皇制およびブルジョア憲法としての基本性格(ブルジョア議会制と資本主義的所有制度)に反対する左翼的勢力の独自的結集を支持し、推進する必要がある。共産主義者は、現行憲法の平和的・民主的条項を社会主義の実現へ向けて活用しようとするものであって、現行憲法を丸ごと肯定するという意味での「護憲」の立場に立つものではない。我々労働者共産党は、憲法闘争での左翼の独自的結集を、革命派の団結・統合をすすめる党の建党路線と結びつけ、また労働運動の憲法闘争への取り組みを強化する課題を、労働者階級を中軸とした全人民の統一戦線を形成するという党の基本的戦術と結びつけて、憲法闘争を闘うべきである。

  憲法闘争を革命運動

以上、改憲阻止の共同戦線の形成へ向けた諸論点を述べたが、つぎに革命運動における憲法闘争の一般的意義について考えてみよう。日本の革命的左翼は、一定の歴史的要因によって憲法闘争に直接取り組んだ経験に乏しく、憲法闘争という課題自体についてマルクス主義的認識を高める必要があるだろう。
第一に、憲法改悪を阻止する闘いは同時に、現行憲法が規定する民主的諸権利の完全な実現を求めるなど、民主主義闘争としての一般的意義をもっている。労働者階級とその党は、民主主義を完全に実現する道が社会主義−共産主義の道にあることを踏まえつつ、民主主義の先進闘士としての役割を果たすべきである。
第二に、憲法闘争は、国家体制および人民と国家の関係を規定する基本法をめぐる闘争であり、種々の民主的課題と違って、国家のあり方そのものを問う全人民的な政治闘争としての特別の性格をもっている。憲法闘争は、今後の攻防によっては、文字通りの全国民的な攻防へ発展していく道筋となる可能性をもっている。労働者階級は、憲法闘争を通じて、支配階級として組織されたプロレタリアートへ自己を高めあげるための階級形成を強化し、また全人民・全国民の指導階級として統一戦線をすすめる政治的能力を強化すべきである。
第三に、したがって憲法闘争は、日本革命が勝ち取るべき新しい国家体制についての、党と労働者階級の思想的・政治的準備の場としての意義をもっている。革命的左翼は、憲法闘争を通じて、日本社会主義革命の基本構想を検討し、発展させるべきである。要は、左翼の取り組みとして、「改憲攻撃粉砕」という急進的反政府派としての反発行動に終わらせないようにすることが問われる。
次に、現在の憲法闘争の攻防の焦点が第九条にあることを踏まえ、日本の共産主義者が第九条をどのように解釈し、現在と将来に渡ってどのように取り扱うべきかということを考察してみよう。これは興味を引く課題であるとともに、共同戦線へ向けて実践的にも重要な点である。
広い意味での日本の新左翼は、これまで「平和憲法」に対し、その改悪にはもちろん反対してきたものの言わば冷笑的態度を取ってきた。九条の下で自衛隊・安保が強化され、日本帝国主義が復活した。九条とは戦後民主主義の欺瞞そのものであり、それを守れと主張する既成左翼は帝国主義の城内平和にしがみついているだけである、と。九条に対する冷笑的態度は、一定の正当な根拠を持つと同時に、しかし新左翼の反帝・反政府急進主義者としての限界を示すものと言えるだろう。新左翼は「プロ独樹立」とは叫んだが、革命を可能とする統一戦線をどのように構想するのか、革命的統一戦線はどのような国家制度・法制度を樹立するのか、これらについて責任ある政策を取るには程遠いものがあった。
憲法闘争の必要に直面して、新左翼もようやく、九条を始めとする憲法をどうするのか、という課題に直面することとなった。新左翼には三つの選択肢があるだろう。一つは、これまで同様、九条を将来どうするかについては明言を避けるという態度を続けることである。二つ目は、日本社会主義国家の軍隊建設の方針を明らかにし、将来の九条二項廃止を明確にすることであり、論理的には明快な選択といえる。これは、新左翼の多くが、かっては赤軍建設として暗黙の前提としてきたことではなかろうか。三つ目は、九条を共産主義者として継承・発展するという態度と政策を鮮明にすることである。筆者は、三つ目の選択を提唱する。

  九条の継承発展を


それでは、九条の継承・発展とは共産主義者にとっては、どのような政策理念を意味するのだろうか。そのまえに「平和憲法」の成立の由来を考える必要があるだろう。
「平和憲法」は、ポツダム宣言受諾と連合軍総司令部の意思、一九二八年不戦条約など国際法の傾向、日本人民の敗戦による軍国主義への嫌悪感、これらによって成立が可能となった。また、日本降伏から片面講和までの時期での、戦後革命の挫折の結果として現行憲法があるという点も見落とすことはできない。(ここで、ポツダム宣言および第二次世界大戦の評価、ポツダム宣言完全実施と民主主義革命を当面の目標として闘った日本共産党の評価など一連の歴史問題について触れるべきであるが別の機会としたい。)
当初は、「平和憲法」と日米安保がセットだったのではない。「平和憲法」は、沖縄を日本から分離し米軍の軍事要塞とすることとセットだった。当初米帝は、日本を非軍事化する一方、米中軍事同盟を策していたが、中国革命の勝利によって、ポツダム宣言(日本の非軍事化・民主化達成の後、占領軍は完全撤退する)に自ら背き、日本再軍備と日米安保へ転換した。
最初のマッカーサー・ノートでは、「自己の安全を保持するための手段としても戦争を放棄する」徹底した日本非軍事化であった。しかしGHQ案ではそれは非現実的とされ、不戦条約に沿った「国際紛争を解決する手段としては」という現行の線となった。そして内閣提出案では審議途中にGHQの承認の下、いわゆる「芦田修正」が入った。日本国憲法の特殊性である九条二項、これの冒頭に「前項の目的を達するため」を付加する芦田修正は、安保条約を想定したものではなかったが、自衛のための再軍備を想定したものであった。憲法制定当時、日本共産党が九条について、日本の独立・中立を危うくするとして反対したのは、米帝の世界戦略と対日政策を踏まえれば決して間違っていたわけではないと筆者は考える。しかし、その対日政策が転換したことによって、安保が九条に楯突くという二重構造が生じたのである。
九条と安保をセットで捉え、日本革命によって九条と安保がセットで白紙になるという新左翼にありがちな見解は乱暴すぎる。それでは、共産主義者が安保を粉砕した後、九条を継承・発展するという場合、何が問われるのだろうか。第一に、「常備軍の廃止・全人民の武装」という第一インター以来の政策との整合性と、第二に、世界プロレタリア独裁をへて「世界単一の労働共和国」をめざす第三インター以来の世界革命路線との関連性が問われる。共産主義者にとっては、社会党−社民党のように、九条と「国連の普遍的安全保障」の実現とをセットで展望するような小ブルジョア平和主義的な幻想から出発する訳にはいかない。
第一については、九条は国軍あるいは正規軍による自衛権行使を禁じているが、侵略者に対する国民的抵抗の権利を国民から奪っているものではないことを明確にする必要がある。将来の日本社会主義国家は、人民武装、外交政策、世界人民との連帯によって国軍を建設することなく安全保障を保つことを追求する。
第二については、九条の自衛権行使の放棄が国家主権の最重要部分の放棄であることを、世界革命における各プロレタリア独裁国家の主権を止揚する過程の先例的一部分として位置付け、九条を共産主義者として再解釈することが必要である。主権国家なるものを構成単位とするブルジョア近代世界を、国際共産主義運動はどう乗り越えようとしているのか。この課題は、あまり目的意識的には論じられておらず、マルクス・レーニン主義の現代的発展の一課題であると考えられる。
以上、日本の共産主義者は九条を継承・発展する、ということの要点のみを提起したが、「非武装国家」「軍隊は民衆を守らない」など近年の九条擁護論議とも関連して、論議の発展を期したいと考える。(了)