教育改革国民会議最終報告のキーワードとは

  思考停止の「伝統」観


教育改革国民会議の最終報告(本紙前号を参照)は、「大競争時代」に勝ち抜くための新たな労働力育成と、人民に対する国家支配を強化するという二つの目標をめざして、現今の支配層がどのように考えているかをかいま見させている。
後者にかかわる彼らの理念をみると、ほとんど戦前と変わりない。それを象徴するキーワードは、おそらく「奉仕活動」と「伝統的文化」であろう。

    「奉仕」

「奉仕」とは、特に戦前、“献身的に国家・社会のために尽くす”という意味で使われた。さすがに現今では戦前のような形で露骨に使うことができないから、福祉や自然保護などの領域でのボランティア的な意味を全面に出している。しかし、それは国家の奨励というレベルさえ超えて、教育過程を通した実質的な強制である。まさにボランテイアという意味からすれば論理矛盾もはなはだしい。
 それを無視してまであえて、「奉仕活動の促進」を教育にもちこむというのは、他者に命令された「奉仕」なるものは、容易にその対象を福祉・自然保護などから侵略戦争などの国家目的に振り替えることができるからである。
 そもそも「奉る」とは、「動詞の連用形について、その動作を行う主体が、動作の及ぶ主体より下位であることを表す謙譲語」(『広辞苑』)である。まだまだ、公と私を上下の関係でとらえ、しかも対立的にとらえる垂直的公私観の強い日本で「奉仕」(森首相の座右の銘は滅私奉公である)を国家的に推進するということは、戦後の経済主義的国是でゆるんだ国家主義の立て直しを旧来の反動的国家観で行おうとするもの以外の何物でもない。

   「伝統的文化」

「伝統的文化」なるものも、おなじ思考方法である。それは、「個人の力を越えたものに対する畏敬の念を持ち、伝統的文化や社会規範を尊重し郷土や国を愛する心や態度を育てる」という文脈からすれば、国家的に神秘主義をあおりたて、ついには現人神(あらひとがみ)=天皇に容易に結び付くものである。。
人はおうおうにして、「伝統」というととたんに、思考停止に陥りやすい。しかし、「伝統」なるものは数十年程度つみ重ねると、簡単に「伝統」になってしまうのであり、「伝統」を神秘化する必要はさらさらない。現に歌舞伎でも茶道でも時代とともに変化してきたのであり、万古不易の「伝統」など一つもないのが実情である。
 最近、話題になっているものに、女性を土俵にのぼらせるか否か、がある。女人禁制を擁護する論拠で、主なものは“神事だから”とか“伝統だから”とかが、あげられている。だが、それらの論拠はまったく成り立たない。
 多くの芸能・スポーツは神事から発しているが、女性を完全にシャトアウトしているものは、ほとんどない。擁護者は、宝塚や歌舞伎をあげて反論するが、それは筋違いというものである。まさかそれらの舞台に異性があがることさえ禁止してはいまい。
 かつては神輿をかつぐことから女性は排除されていたが、今ではすべてとはいわないが解禁されている。「伝統」も変わっているのであり、そんなことは当たり前である。ときには不合理な「伝統」は、廃止することも大事なのである。
女人禁制を“伝統だから”といって擁護する者は、論点をはぐらかしゴマカシている。まず「昭和時代」の始め頃までは、女相撲もあったのであり、けっして「伝統」ではない。いやそうではない、「伝統」というのは日本相撲協会の「伝統」だと、反論があるかもしれない。では日本相撲協会は何故、女人禁制(土俵に上ることさえ許さない)を固執するのか。「伝統」なるものに固定化されるまでには、何らかの論拠が必ずあったはずである。 その論拠で最大のものは、“女は不浄だから”という女性蔑視、女性差別の考えである。お産をし、月経のある女性を不浄視する差別思想の元凶は、仏教である。歴史上、ケガレ意識がとりわけ強まったのは、平安時代であり、その推進者は神道や陰陽道(おんみょうどう)であり、それらと競争する仏教ももともと保持した差別思想をもって、ケガレ意識を強化したのである。相撲協会の女人禁制は、明らかにケガレ意識の一環としての女性差別の思想を肯定したうえで成り立っている。だから、“伝統だから”という論拠は、この女性差別を隠蔽する役割しか果たしていないのである。
この例からも明らかなように、「伝統」というのは非常にくせ者であり、しばしば不合理なことや差別、さらには国家による人民支配のイデオロギー的装置として利用されやすい。「伝統」なるものの中身も吟味せず、ただ“伝統だから”というのは、思考の停止であり、安易によりかかるべきものではない。「伝統」はアプリオリな公理なのではない。 教育改革国民会議の「伝統的文化」なるものの強調は、こうした「伝統」観を意識的に利用した、国家による人民支配強化の策動である。 (H)