長野脱ダム宣言

 ダム建設に群がる利権体質の打破を

  自然保護と住民自治への一歩


長野県の田中知事が二月二十日、「脱ダム」宣言を行った。
 旧建設省出身の土木部長が反対し更迭され、自民党が多数の県議会も反発しているが、かれらの「多くの国費が投入されるダム建設を止めてしまっては、国費が他県にもっていかれるだけだ」との反論には、見事なまでに利権体質が具体化されている。
 さて、ここでは大規模ダムの日本資本主義における役割とダム建設の裏に潜む支配者階級の意図を見てみよう。
もし仮に日本を征服しようとする者がいたとしよう。最初に思いつくのは原発の破壊であろう。確かに日本は滅びるであろうが、放射性物質が半永久的に残存し、人類が住めなくなったら征服者としても意味がない。
最も効果的なのはダムの破壊である。ダムの崩壊に伴う水の流出は下流に甚大な被害を与えるだろうが、それも一過性のものである。それよりも深刻なのは貯水が無くなり、工業用水や住民の飲料水が枯渇し、日本は死に体となることだろう。それだけ日本は利水をダムに大きく依存しているのである。かつて中国はソ連の攻撃に備えて、大規模なダムを造らなかったと言われるが、水の集中管理がもたらす危険性を察知していたといえよう。 日本のダムの発達は、重化学工業中心の日本資本主義の発展と軌を同じくしたものであった。日本の地理的特徴は、国土が狭く、山間部が多くを占め、梅雨・台風期に多量の雨が降るというところにある。ここから帰結される資本の論理は、山間部に大型ダムを造り、降雨期の雨を貯水し、下流域の投下資本を洪水から守り、貯水は工業用水として利用しようというものだった。
 つまりダム建設は、国策そのものでもあったのだ。現に河川法は、河川及び河川を流れる流水の管理は一元的に国にあるとして、重要な水系は一級河川として国が直轄管理している。所轄省庁は、元の建設省であり、河川局である。
旧建設省には道路局、都市局、住宅局などがあるが、河川局が最も権限が強いといわれる。というのは道路で橋梁を架けるにしても、下水道建設で河川に放流するにしても、さらには宅地開発する場合でも、河川管理者の同意が必要なのである。さらには旧運輸省所管の港湾埋め立てや空港整備・地下鉄事業、旧厚生省所管の水道事業、農水省所管の潅漑事業や干拓事業などの場合も同様である。また、ダムのような大規模工事には、中小業者が入る余地はなく、資本家階級の代表者の一つであるゼネコンの独壇場でもある。地方分権に最も強固に反対したのも河川局である。このように権限が強いところに、利権が集中しているのは言うまでもない。そしてこの利権に多くの利害関係者が群がっているのである。
私の手元に一冊の本がある。自民党を除名された元衆議院議員の栗本慎一郎が記した『自民党の研究』(1999年光文社刊)である。この書では自民党議員は官僚出身が多いことを紹介しており、掲載されている官僚出身議員一覧によると、河川局長から現職参議院議員になった者が二人もいる。元法務大臣の陣内孝雄と岩井国臣であり、二人とも京大出身キャリアの河川局の先輩、後輩であり、建設省族の田中角栄派の本流を継ぐ小渕派に二人とも所属している。またこの書によると岩井国臣は比例代表であるが、建友会(全国の建設業界関係団体の集まり)と「全国不動産政治連盟」(全国宅地建物取引業協会連合会)の支持を受けている。
このことからもわかるように、治水、利水の大義名分のもとに権限、利権を集中し、それに群がる多くの利害関係者の選挙の票を集めているのである。そしてこれらを背景に政治力を行使し、大蔵省から予算を引き出しているのであり、その象徴が大規模ダムなのである。
 さて次に具体的な治水工事の手法を見てみよう。過去最大の雨量もしくは過去の統計から百年に一回の確率で想定される洪水の雨量を基に治水計画が立てられる。本来この雨量は河川で流出される以外は流域全体で保水できるのが最も望ましいのだが、市街化調整区域を除いては流域は全て都市化すなわち全面コンクリート化されることを想定し、降った雨は全て河川に注ぐものとして計算される。当然のごとく河川の少々の拡幅だけでは洪水は防げないとの計算となり、都市部を扱うのは困難という簡単な理由で農村部の上流部にダムを造ろうという結論に至るのである。おまけにダムに都市用水が貯水できれば一石二鳥というわけだ。
 治水と利水の大義名分のもと、大蔵省からこの短絡的な論法でダム建設予算を獲ってきているのである。つまりは都市部の金で農村を買収し水没してもらうという関係である。 しかし、ダムを造れば解決するわけではない。ダム建設に際しては、貯水量を増やすために農地の水利権を一括して買収することも多く、都市部の農地の地主にとっては利権の対象であり、そのため保水機能を持った農地が激減していくという悪循環をもたらしている。また、ダムには必ず土砂が堆積し、ダム機能は経過年数とともに衰えていくのである。浚渫には膨大な費用と年月がかかるし、さらには別のダムを造らざるをえなくなる。そこには解決の目処が立たない悪循環が生まれるだけである。
鮎が泳ぎ、清流が流れる農村部がある。しかしその清流はそこの地域住民のものではないのである。都市部の治水や利水の目的のために、いつでもダムを造られ、鮎を、清流を、そして地域社会を奪われてしまうのである。河川法では、河川と流水は公共のもので国が管理し洪水対策を行うとしているが、本当の姿は治水・利水の権限を国が一元管理することによって地方自治体や人民を支配下におき、資本家階級の利権を調整するという国家独占資本主義そのものである。
他の地域に犠牲をもたらすことなく、その地域だけで治水・利水ができるような社会を創っていくのが、今日の民主主義的課題であり、そのためには地方分権と自治体行政への住民参画を推し進めていかねばならないし、田中知事の「脱ダム」宣言はその一歩ともいえよう。 (自治労M通信員)