子どもの立場に立つ教育実現を

                   浦島 学


 昨年十二月二十二日、森首相の私的諮問機関である教育改革国民会議が最終報告を発表した。「教育を変える十七の提案」と題された報告は、教育内容の改悪、教育基本法の改悪等を打ち出し、国家主義教育、差別選別教育の実現を露骨に表明した。
政府はこの提案を受け、今春、関連法案を通常国会に提出しつつある。教育基本法改悪から改憲をめざしたこれら学校教育法改悪等の攻撃を許してはならない。今国会での教育改悪策動に対決し、教育基本法改悪、憲法改悪のもくろみを打ち砕こう。

教育改革国民会議の最終報告は、昨年九月二十二日に発表された中間報告とほぼ同じ内容で提案され、大きく異なる記述は、次の四点ほどであった。
その第一は、最終報告の内容に「1、私達の目指す教育改革」の項を新たに書き加え、教育の意義、教育の現状を述べている点である。そこでは、「教育を考える視点」として教育改革国民会議の基本的考え方をも提起している。
 そして第二に、最も重要な違いは、「6、新しい時代にふさわしい教育基本法を」の項で「教育基本法の見直しに取り組むことが必要である。」と教育基本法の改悪を明言した点である。それは、「教育基本法の見直しについて国民的議論を」と中間報告で記述した事をさらに進め、改憲をも射程に入れて発言されているのである。
 三つめの違いは、中間報告での「3、一人ひとりの才能を伸ばし創造性に富む日本人を育成する」という表題等の「日本人」を「国民」に変えた事である。
 四番目の違いは、「おわりに」という項目を書き加えて、教育改革国民会議が二十六名で構成されている事や審議の様子を記述している点である。以上の四点が主な違いである。
 新たに書き加えられた第一章「私達の教育改革」では、「これからの教育を考える視点」として三つの視点を提示している。その第一は、「子どもの社会性を育み、自立を促し、人間性豊かな日本人を育成する教育の実現である。」と述べている。そして、この内容を明確にするために報告は、「自然を愛し、個人の力を超えたものに対する畏敬の念を持ち、伝統的文化や社会規範を尊重し郷土や国を愛する心や態度を育てる」と記述している。
 この文からも明らかなように彼らの言う日本人を育成する教育とは、郷土や国を愛する心、つまり愛国心の育成と超自然的な存在を敬まう心を育てるという事である。個人の力を超えたものとは神の存在を意味し、科学とは無縁な存在である。しかもそれが天皇を指している事を見落としてはならない。つまり報告は、愛国心を育て国家主義的教育を実現し、天皇制イデオロギーを子ども達に教え込もうとしているのである。
 報告は、第二の視点として、「一人一人の持って生まれた才能を伸ばすとともに、それぞれの分野で創造性に富んだリーダーを育てる教育を実現する」ことを提案している。しかし、こう述べてから、その舌の根も乾かないうちに「初等教育から高等教育を通じて必ずしも早く進学し卒業することを良しとする訳ではなく、一人ひとりがそれぞれのやり方生き方に合った教育を選択でき」と述べ、飛び級などを容認するのである。つまり彼らは、子どもの学力によって早い内からそれぞれの進路をふり分け、差別選別していこうとしているのである。「社会が求めるリーダーを育てる」等々の記述も産業構造の変化や企業の要請に基づいて必要な労働力を育成しようとする彼らの意図を表わしたものにすぎない。
 報告は、「大競争時代」に勝ち抜くための差別選別教育をもくろんでいるのである。
 以上の二つの視点からも教育改革国民会議の最終報告は、子どもの立場からは無縁の反動教育である事が明らかである。そしてこれらの事から考えると、第三の視点もおのずと予測がつくのである。
 報告は第三の視点を、「新しい時代にふさわしい学校作りと、そのための支援体制を実現する」ことであると述べている。そして「それぞれの学校が不断に良くなる努力をし、成果が上がっているものが相応に評価されるようにしなければならない」等と発言するのである。しかし、この章がいかに欺瞞に満ちたものであるかは、その後の内容によって明らかである。奉仕活動を押しつける事がどれ程教育的なのか、道徳教育を強要する事が子どもの心に何を培うのかはなはなだ疑問である。つまり「成果の上がっているものが相応に評価されるようにする」という事は、教育改革国民会議の提唱する反動教育に抗し、子どもと寄り添って生きる教育労働者らを排除するという事なのである。日の丸掲揚、君が代斉唱に反対する教育労働者の処分を正当化しようとする事なのである。
 この三つの視点からも読み取れるように、最終報告は、中間報告と何ら変わりのないものである。むしろ「6、新しい時代にふさわしい教育基本法を」で述べているように、教育基本法の見直しを明言した点で、より反動的な代物である。
最終報告は、すでに本紙(統合16号)の「中間報告」批判で詳述したように、愛国心を育成し、国家主義教育、「大競争時代」の差別選別教育の実現をねらっている。そして、そのために教育労働者の管理と支配強化をもくろみ、教育基本法の改悪から憲法改悪を展望しているのである。
子どもにとって、父母にとって、そして教育労働者にとって最終報告は、許す事のできない反動的な代物であり、たたきつぶさなければならない事柄なのである。
 たとえ「日本人」という言い方を「人間」と言いかえても、その反動性は何ら変わる事はないのである。

教育改革国民会議の最終報告を受けて、教育改悪の策動は、今国会での諸教育法規改悪や中央教育審議会での審議と法案提出という形で今後進行することになる。
 その主な内容は、「問題行動を起こす児童・生徒を出席停止にするための措置」、「奉仕活動の促進」、「大学への飛び入学を一般化する」、「教員の評価と配置転換および免職」等である。
 「問題行動を起こす児童・生徒を出席停止にするための措置」については、出席停止を命じる事ができる子どもの行為として、 他の中学生の心身に損害を加えるか財産に損失を与えること、 職員の心身に損害を加えること、 学校の施設または設備を損壊すること、 授業その他の教育活動の実施を妨げること等の点を示している。そのうえで出席停止にした子どもに対し、「学習に対する支援その他の教育上必要な措置を講ずるものとする」としている。
 また、教育改革国民会議が、「小中学校で二週間、高校で一か月」と提案した奉仕活動については、「社会奉仕体験活動、自然体験活動その他の体験活動の充実に努めるものとする」といった条文を加えるにとどめ、内容・期間は、各教委・学校の判断に任せると述べている。
 飛び入学についても、「現在は、学校教育法施行規則で、数学や物理の分野で例外的に認めている高校二年生からの大学入試を一般化するため、各大学が定める分野で『特に優れた資質を有する』と認める者まで拡大して法律に明記する」と明言している。
 以上の三つの内容は、学校教育法改正案として三月六日提出予定である。
 「教員の評価と配置転換および免職」に関する件については、「 児童・生徒に対する指導が不適切で 研修等必要な措置を講じても指導が適切に行なえないと都道府県教委が判断した場合、小中学校教員を市町村職員から事務職等教員以外の職に配置がえできる」としている。そして、その上で、「指導力が不足している事実の確認や、二つの要件に該当するかどうか判断の手続きは、都道府県教委が規則で定める」とした。文部科学省は、「改正案」の施行通知の中で、都道府県教委に対して、判断は第三者機関で行なう等手続きの基準案を示す方針である」と述べている。
 以上の内容は、「地方教育行政の組織運営に関する法律(地教行法)改正案」として、二月二七日に提出された。
  しかし、これらの「改正案」の内容は、最終報告が子どもの立場からは無縁の代物であったように、何一つ人間的な温かみを感じさせない法案である。
 「問題を起こす児童・生徒を出席停止にするための措置」についても同様である。文部科学省は、問題を起こす児童・生徒の心の奥を何一つ省みないのである。
 第一に、問題行動とは何なのかも深く掘り下げられてはいない。そして、何故かれらがいわゆる「問題行動」を起こすのか考えてもみないのである。児童・生徒が「問題行動」を起こすには何らかの原因があるはずである。心の中に満たされないものが存在して、かれらは行動を起こすのである。それは、成長するための一つのステップでもある。児童・生徒は、家庭や友達関係、日々の学習の中で様々な悩みをかかえている。その子どもらの思いに教育労働者が寄り添い、かれらの思いを知る事こそ、まずもって大切な事ではないだろうか。子ともらの悲しみや怒り、不満や悩みにふれてこそ、教育労働者自身の心が変わり、児童・生徒と教師がともに成長するのではないだろうか。「問題行動」を起こす子ども達こそ、今教育労働者とのふれあいを求めて精一杯訴えているのである。
 学び・ともに育つ場である学校が出席停止を命じて、いったいどのような教育ができるのであろうか。また「教育上必要な措置」をとる等という言葉も管理以外の何物でもない事は、道徳教育によって一つの価値基準を子どもに押しつける態度からもはっきりと読みとれるのである。出席停止の措置は、何一つ子どもの思いにこたえていない非人間的な代物であり、してはならない排除の論理である。むしろ政府や文部科学省は、現在の受験体制や教育制度が子どもの心に重圧となってのしかかっている現実を深く反省するべきなのである。
 奉仕活動についても、同じ内容である。
 「奉仕活動」を世論の動向から「体験活動」と言いかえても、かれらのねらいは同様である。上からの奉仕活動を押しつけ、子ども一人ひとりを枠にはめ込もうとしているのである。児童・生徒の内面に迫らない限り、真の教育はあり得ない。まして徴兵制を展望する奉仕活動は、子どもの教育にとって無縁の代物であり、子どもを戦場へ送り込む、許すことのできない「教育改革」なのである。
 三つめの「大学への飛び入学を一般化する」ことも、子どもの立場に立った教育とは無縁のものである。
 これはむしろ、「大競争時代」に資本が生き抜くために一握りのエリートを育てるための教育である。詳しくは本紙統合16号で述べられているが、教育の場に差別と選別をもたらす以外の何物でもない法案である。子どもどうしの間に差別意識やエリート意識を持ち込み、学びの場をより一層競争の場に変えていく教育である。学園には、いじめや差別が強められ、より教育が荒廃することは、火を見るよりも明らかである。
 政府・文部科学省は、これらの誤った教育を実現するために、「教員の評価と配置転換および免職に関する」法改悪を成立させようともくろんでいる。
 指導が「不適」ということは、かれらの求める『子どもにより添った教育を否定する立場』に立った教育ができなかったという意味である。つまり、子どもとともに生きる教師許さないと言っているのである。むろん教育労働者が、日頃から研修を積み、子どもから学び、自らを変革していく事や力量を高める事は大切な事である。しかし、この法案は、その事をねらっているのではなく、政府の求める教育を実現させ、それに反対する事を許さないといっているのである。かれらは、良心的な教育労働者を排除し免職させ、日教組等の労働運動をも押しつぶさんとしているのである。
 従ってこのような教育改悪策動に対決し、今国会での諸教育法規改悪に全力で対決しなければならない。そして教育基本法の改悪、改憲のもくろみを完膚なきまでに打ち砕く事が求められているのである。
 
 教育改革国民会議の最終報告や今国会での諸教育法規改悪等、教育の反動化は、すさまじい勢いで進んでいる。「新しい歴史教科書をつくる会」の明らかに謝りである教科書も執筆者側が記述の修正に応ずれば、教科書として採用する可能性が高まっている。
 このような情勢にありながら、日教組中央は政府とのパートナー路線をとり、最終報告についても一応反対はするものの闘う体制をとることができないまま、今日を迎えている。そして、七月参議院議員選挙の勝利や日教組のめざす教育改革のみを唱えているのである。労働運動全体が後退する中で、日教組運動も弱体化し闘う姿勢を失っているのである。しかしこの流れに抗して各職場・分会から運動を作っていくことが求められている。仲間の小さな要求を運動にかえ一歩一歩団結を強めていくことが必要なのである。
 日の丸・君が代闘争は、厳しい弾圧にもかかわらず果敢に闘い抜かれている。この運動にも連携し、ともに行動できる力量と戦術が必要なのである。そして、運動を下から作りあげ、闘う日教組を再現しなければならない。
 それと同時に、地域の労働運動や市民運動とも連携し、教育反動を許さない闘う陣型を作りあげなければならない。父母と教育について対等な立場で語り合い、よりよい教育のために奮闘するものである。学校評議員制度も、教委側の意図とは別に、その視点から考えてみる必要があるのではないだろうか。今国会での諸教育法規改悪は決して許してはならない攻撃である。職場から地域から闘う体制を作りあげ、反動的な法案を打ち砕き、教育基本法改悪・憲法改悪(改憲)を許さない運動を作りあげていこう。ともに行動しよう。 (了)