省庁再編でも「政治は変わらない」78%

  利権と主権者無視の元凶

 

「官僚主導」から「政治主導」の行政へを大義名分に、一府二二省庁から一府一二省庁に「整理・統合」された中央省庁が、一月六日スタートした。

新たな省庁の構成は左図の通りである。一見して明らかなのは、国土交通省に代表されるような省の肥大化である。たとえば国土交通省は、旧来の運輸省、建設省、国土庁、北海道開発庁を合併したもので、この結果、公共事業予算の約八割りを扱う巨大官庁に変貌したのである。これでは担当する高級官僚の権限は、ますます強大になりうる。

政府・自民党などは、たしかに副大臣や政務官の制度(これで政府入りした国会議員の数は、旧体制の約一・五倍となった)、あるいは内閣府の新設(経済運営や予算編成の基本を策定するなどの権限をもつ)などにより、「政治主導」が実現しうるといっている。しかし、とても旧来の政治体質も変えないままで、巨大官庁を統御し「政治主導」を貫くとは思えない。

このように思う意見は、庶民の間では圧倒的に多い。一月の朝日新聞のアンケートによると、「今度の省庁再編で政治変わると思」う人は、わずかに一三%で、変わらないと思う人が七八%にまでのぼっている(一月二十三日付け)。ここにきて、さらにKSD問題で額賀経済財政担当相が辞任し、外務省では機密費の私的流用問題で大揺れという事件が追い打ちをかけている。中央省庁再編による新たな政治の進展など、多くの人民がとても期待できるものではない。

  地方分権と住民自治を

中央省庁再編によっても、「政治が変わらない」のには、さまざまな理由があるが、大きな理由の第一は、自民党など政治家の体質が依然として、利益誘導型の政治、既得権益維持・拡大型の政治から変わっていないからである。

自民党などの政治家は高度成長いらいますます経済成長第一主義で、癒着する大企業などの利益や地元利益を優先し、公益などはないがしろにしてきた。これは基本的にいまも引きずり、いわゆる政治改革を押し止めている。戦前からの体質を色ごくもつ官僚は、高度成長の波にのり官僚機構をとてつもなく肥大化させ、天下り先を拡大させるなどして、官僚の本性ともいうべき自己保存のための権益拡大に走ってきた。

自民党などの政治家や官僚のこうした態度―公益よりも私益を優先させる態度がもたらす不正は今もスキャンダル露呈でマスコミをにぎわしている。これでは中央省庁の再編(しかも従来をもさらに上回る巨大官庁を出現させている)ぐらいで「政治が変わる」などというのは全くの幻想である。

このような腐敗した政治家や官僚を一掃する第一歩は、機構改革の観点からいえば、地方分権を大胆にすすめ、財政権限を大幅に地方に移譲することである。中央の政治家や官僚が関与できる経済問題、とくに財政については大幅に縮小し、腐敗をもたらしうる基盤そのものを無くす、あるいは決定的に縮小することである。

 この見解に反対する意見として想定できるものとして、“地方に財政権限を移しても同じ腐敗が繰り返される”という考え方がある。それは政治体質が変わらない限りその通りなのだが、決定的に旧来と違うのは、政治家や官僚の行動に対し住民の監視しうる条件が違う所にある。地方や地域の人間関係の濃さからみれば、情報公開などの諸条件の獲得とあいまって、人民が監視しうる度合いは飛躍的に異なるのである。そうであればこそ住民自治も前進しうる。

官僚機構を廃止する将来社会の以前の段階でも、官僚はできるだけ少なく、しかも住民の監視、点検がしやすい制度は必要なのである。今度の中央省庁再編のように、主権者である人民とかかわりのない所で、いくら制度をいじってもなんらの改革にさえならないであろう。

  自己統治がら政治への変革を

第二の大きな理由は、自己統治型の政治が依然として弱いところにある。

 戦後憲法で明示された主権在民原則は、象徴天皇制の存在によってあいまいなものとなっている(こうしたあいまいな状態である限り、主権在民原則に対立する「神の国」発言や「滅私奉公」などという考え方がまかりとおる素地があるのである)。そして戦後日本の政治は、「国会が国権の最高機関」などと憲法でうたいスタートしたが、戦前からの官僚機構が一部をのぞき温存されたため(象徴天皇制とともに)、実際の立法、行政は官僚に依存してきた。いわゆる官治システムへの依存である。ただ立法優位という憲法規定があるため、官僚は政治家(議員)が了承しない限り、官僚の描く政治は合法性をもちえないという構造になっているだけである。政治の二重構造である。

こうして戦後日本の政治は、(近代国家での政府の役割は、諸個人の人権を実現するところにあるというのが常識なのだが)、自己統治型の政治ではなく、「お上」による上からの支配のための政治が主流となっている。「お上」による政治は、高度成長期からの財政規模の拡大、官僚機構そのものの肥大化で(ある意味で)ますます堅固となったが、その根底には戦前とは形をかえながらも上からの政治として、基本的に同じように継続されているのである。

 そうした政治が支持されてきた土壌には、目下の者が目上の者に従う上下の分(ぶん)秩序や、「滅私奉公」にみられるような公と私を対立的にとらえ公を優先させる(その裏返しとしてのエゴイズム)垂直的公私観、公を「お上」が独占する誤った考え方などの再生産がある。

こうした秩序観やイデオロギーの変革なしに、いくら官僚機構をいじっても、「お上」による上からの支配のための政治は、変わりうるはずがない。

グローバリズム資本主義の浸透によって改革を迫られている行政機構は、今度の中央省庁再編にみられるように、単なる組織いじりだけでなく、政府は規制緩和の名のもとに労働者人民が長年の血のにじむ闘いによって勝ち取ってきた労働法や独占資本の規制法などをも次々と改悪している。これら動きに対して労働者人民は反撃し、さらに教育基本法、や憲法の改悪策動に対決し、主権在民原則に基づく自己統治型政治への変革が緊要となっている。(H)