新春座談会

 世紀も変わる、社会も変わる

   新しい労働運動をめざして

    ・・・21世紀の日本労働運動 その可能性を探る

出席者

     民間中小労組

    Y 民間中小労組 

     地域ユニオン

     地域ユニオン 

     教育労働者(日教組)

    司会 編集部

国鉄闘争の現況をどうみるか

司会 新世紀が明けたからというわけではないけど、「新しい労働運動をめざして」というテーマで同志の皆さんの意見や経験をお願いします。最初に、現在の情勢で重要な国鉄闘争、「四党合意」を受け入れようとする国労は、言わば新しくない労働運動、旧総評左派の限界ということになるのかなと思えるが、国鉄闘争の現況を民間中小やユニオンの側から見て、どう考えるか。

 一つ言えることは、国労闘争団として頑張れているところは闘争団として事業がうまくいっているところ、財政的にも自立化できているところである。闘争の局面が変わって行っても、そういうところは一定頑張れるだろう。それに対して、もう闘争は止めようじゃないか、という闘争団もあるし、国労本部がその意向だ。それは、企業内の闘いから見ると一つの限界に来ていると判断し、一定企業内決着を付けて、労働組合としてJR企業内で生き残れる道を考えようという判断が働いている。国鉄の分割民営化、国労解体という大攻撃があり、それに対して国家的不当労働行為であるとして闘っていく原則はあるのだけれど、企業の枠内で解決する限界性が出てきたと思う。「JRに法的責任なし」を認めて闘争の幕引きをするのではなく、仮に力尽きて敗れるなら敗れるなりの撤退の仕方があるだろうと考えるが。これまでの闘争の意義とその限界の総括をきちんとできる国鉄闘争であるのか、そのへんが十分できていないところに今の国鉄闘争の問題があるのではないか。

 十一月の東京高裁不当判決、「四党合意」支持のILO第二次勧告と、たしかに状況は厳しい。勧告自身は、労働者側とよく話し合って解決せよ、と政府に迫っているというのが主旨であって、「四党合意」を認めるのが主旨ではないのだが、政府・JRはその主旨をねじ曲げて攻撃してくる。どのように解決するのかという攻防の局面であり、組合の解決要求はこうだ、政府・JRは解決案を出せと迫っていく、ここが踏ん張りどころという感じだ。企業内で終焉し、次は連合へ、JR連合との統合へ突っ走っていく解決の仕方ではなく、まあ外在的に批判するのは良くないが、何らかの形で闘いぬいて二十一世紀の労働運動につないでいく必要がある。たたかいの中で総括していかないと、国労自身も変らないんじゃないか。

 組合の幹部の中で、組織化や闘争を指導した経験が少なくなってきている。今の国労の幹部も、争議を続けてきたとはいえ、そういう経験をくぐってきた力量を持っていないのでは。今の指導部が引っ繰り返っても、次の指導部でそういう人たちが出てこれるのかどうか。そういう意味からいうと、あまり明るい展望はもてない。やはり指導部の問題。また全労協運動も非常に低迷している。一つの柱であった国労がこういう状態であり、労戦「統一」以降の総括をもう一度し、今後の隊列をどう作っていくのか、これが問われている段階だ。

 このかんの国鉄闘争での地域からの実感を言うと、全国的争議ということで、ここ十年ほど物販やオルグで闘争団が地域に来ているが、全国的な闘争だからというより、あの人がまた来ているから支援しなきゃいけないなという感じで、そういう気持ち、人間関係ができていた。それがここにきて、そういう人たちが「四党合意」賛成・反対で分かれ、現場で混乱している。内部事情はあるだろうが、共に闘ってきたという気持ちでは一緒だったのに、上のほうのゴタゴタで、あっちの国労支部では、こっちの支部では、とタテ割りが目に付く。闘争の最後の段階で、現場から見ると、やらなくていいような分裂になっているのがやるせない。

 闘争団の人たちは、馴れない民間労組回りをやったりして、随分変ったのだろう。しかし、国鉄争議になる前に国労幹部と若干付き合いがあったが、そのころ感じた国労の親方日の丸の体質は、今も変っていないと思う。かれらは親分衆で、その決定的誤りは、当局も分割民営化に絶対反対すると思っていたこと。中曽根が断固やるとは認識してなかった。今でも、和解して、何とか生き残れるとおもっている。

司会 宮坂書記長も、和解して労使正常化すれば「国労は自ずから拡大する」という発言をしている。

 敵の攻撃はそんなに甘いもんじゃない。「名誉ある撤退」にもならないで、再生できるのか。昔、ストの時には、ストは国労がやるから中小は支援してればよい、風呂、下請け入らなくてよいという態度だった。それが資本に利用されて差別分断され、反国労に持っていかれた。本当に反省して立ち直らないと今の進退はともかく、かれらは変らない。

司会 国労大国主義ということは前から言われていて、そこから闘争団の闘いを通じて国労も変ってきつつある、という期待感があった。そういう期待感がこのかんの対応で裏切られたというショックが民間の活動家にはある。ところで、国労の企業内組合の限界が露呈したというのであれば、仮に今後JR連合と合流しても状況はそう変らないのでは、そこからまた可能性を探っていくしかないのでは。

 どんなとこでも労働者がいる限り、闘いはできるが、少なくとも国労は五分割されて軍門に下ることになる。国労が国労であることが権力は許せないのだから。

 ふりかえると、国労は、国家的不当労働行為の攻撃であると正しく認識していたが、しかし国家的な攻撃にどう総反撃するのか、他の労働者は支援すべきだとは言ったが、どう国家的レベルで対決すべきか提起できていなかったと思う。

司会 その点、国鉄闘争の基調が、労働委員会や裁判での論理で、国鉄からJRへの責任継承の追及ということになっていた。もっと国家そのものと正面から闘うやり方、当時の閣僚を被告とする裁判などのやり方はありえなかったのか。「四党合意」では、政府がJRと国労の仲介者のようになっているが、これはヘンだ。

 当時の首相中曽根は、「国労をつぶし、総評をつぶすのが目的でした」と公然と回想している。これを聞いて、当時の富塚総評事務局長は「複雑な想いだ」なんて言っているが、国家が国労と総評をつぶすためにやった、その国家と闘う闘争だと国鉄闘争を位置付けないとダメだった。もう一つのことだが、いろんな闘争状況をみて思うんだけど、自意識過剰というか、腕のいい労働者は資本も技能者としての自分を絶対必要としていると、果敢に闘っている労働者でもそう考えている。しかし、資本が技能労働者を育成できると判断すれば、優秀な労働者でも首を切る。人員合理化のためだけでなく、団結を破壊するために解雇する。国鉄解体がそうだった。今の攻撃の質、企業は利益を上げていてもリストラする、賃金・雇用破壊ということだけでなくて、団結の破壊を目的としている。

 戦後労働運動をふりかえって

司会 国労の現況で、総評左派の時代の完全な終わりとも言われている。直接国鉄闘争を離れて、総評など運動全体をふりかえってみると何が言えるか。

 このかんの長期の運動をふりかえると、地域闘争、反戦平和など地域で連帯した闘いが弱くなった。結局、労働者が広く団結して闘う要素が切り捨てられてきた。連合は、地域闘争というのではなく、連合を作って反共的な立場だが政治改革をやろうとした。総評のもっていた一面の良さは、地区労など地域のたたかい。これが、連合への過程で非常に弱くなった。もう一つは、反合理化闘争をきちんとやらなかった。総評運動をみると、結果的に反合闘争が首切り反対に収れんされて、雇用が確保されればいいとして、その中で労働者の権利を闘ってこなかった。自分の雇用を守りながら、下請けなどの増大を許してきた。また賃金闘争でいうと、職務職能給の導入を認めることによって、賃金格差を認めざるをえなかった。資本の支配の道具として、賃金制度というのが一番重要なものとしてある。それと闘えず、パイの論理になった。それが今までの弱さといえば、弱さだった。

司会 それで、賃上げが困難な現在になると、労働組合の存在価値がみえなくなってきたということか。このかんの労働組合運動全体に対する、我々左翼の関わりという点では何が言えそうか。

 ぼくらは、労働者階級のたたかいを主軸とし、労働者の階級形成を進めていくんだというのが基本姿勢だった。これは今も当然正しいし、革命党にとっては、そういう意味での「革命的労働運動」を展開すべきであって、戦後の労働運動の変遷の中で、どう階級形成を進め、社会主義と結びつけようとしたのか、個人主義の集まりでなく共同性をどう創ってきたのか、それが総括の対象になると思う。もう一つは、大衆組織・大衆運動に即した総括で、賃金など具体的課題で方針や経過をどう総括するのかということ。たとえば、企業内組合の問題は批判するにせよ、大衆組織は具体的諸条件のなかで存在し変化していくものなので、企業別か産別か、というのは間違いで、日本の条件のなかで企業別組合として形成されてきたものだから、それを否定しても総括にはならない。この企業別組合に対して、いぜんから小さくは個人加盟合同労組もあったし、形の上では個人加盟の中小単産もあったわけだけど、現在のユニオンなどの動きは、新しい歴史的登場として評価することになるだろう。

 戦後労働運動は、経済成長と共に伸張してきて諸成果をあげたが、一方で労使協調路線に指導部が買収され連合ができた。これからの時代は、日本がかって経験したことのないマイナス成長の時代、貧富の差が拡大し、「中間層」がいなくなる。正規雇用が減らされ、パート・派遣が増える。生活レベルがアメリカ同様低下する。我々はこれをどう組織し、どういう運動をつくるのかと考えるわけだ。その可能性として、ユニオン、合同労組がある。これは、これまでの春闘を引っ張ってきたような組合とはちがう、それに代わることができるかどうかは別として、産業構造の中でその非正規雇用の部分を組織しないことには、労働組合組織率を回復して影響力を作れない、これからの労働運動は成り立たない、という時代に入った。

司会 そのことは、我々の党としても、近年のユニオンなどを重視している客観的理由なわけで後でもっと議論したいのだけど、左翼の関わりという点では、「社会主義と労働運動の結合」というスローガンが以前はよく使われていたが。

 ぼくら自身もそう言ってきたが、現実と結びつかず抽象的だった。どういうふうに結合するのか、社会主義をストレートに言わなくても、大衆の要求に根ざして原則的に闘っていくのが基礎だ。

司会 「組織下層と下層未組織の階級的統一」というスローガンもあったが。

 言い方は色々あるだろうが、それも基本的に今でも間違っていないと思う。それは、党が組合方針をつくるだけではダメだということで、官公の青年労働者(組織下層)にまだ勢いがあった時代に作られたものだと思うが。そういう左翼の関わりということで言うと、マルクス主義といえる人、まだ地域にもかなりいると思うが、個人個人としてはマルクス主義であっても、運動の蓄積という点からいうとどうか。たとえば今の国労の共産党員、革同にしても、「四党合意」への対応では企業内の組合としてどう自分らの組織を防衛していくかということであって、共産党員として、世の中を変える労働運動の戦略戦術ということで対応していないわけだ。地域に行くと、いろんな左の活動家はまだ少なからずいるが、今は、そういう活動家たちが連携して仕事をしたときでも「革命的労働運動」といえるような話題はまったくないわけね。まあ信頼できるから一緒にやっていくというのはあっても、マルクス主義的な者同士としての交流はなくなっている。そういう運動の場で、マルクス主義的な議論もできるというふうでなければ、左翼の人間の思想もみがかれないわけだ。

 「新しい労働運動」の客観的根拠とは

司会 我々労働者共産党としての関わり、党の労働運動政策というのはどうなっているのか、これはまだ政綱としてはごく大まかなものしかない。九九年に党を結成したときの「共同声明」では、こう書いてある。「企業単位から個人単位の労働者運動をすすめるユニオン・合同労組、性差別の変革を求める女性労働者運動など、新しい労働運動の芽が発展しつつある。雇用・権利を破壊する資本攻勢が激化しつつある今日、既存労組の有名無実化がすすむ反面、組織・未組織、就労・失業をつらぬいて労働者のたたかう要求は底辺から高まりつつある。共産主義運動は、こうした新しい組織化の潮流を前進させることに確信を持ち、労働者の今日的要求と日本の社会主義的未来とを結びつけるために奮闘する」と。さっきKさんから、この「新しい労働運動」の必然性といったものの説明があったけど、それが伸びてくる客観的背景をさらに見てみると、何が言えるのか。

 何といっても雇用形態の変化が第一にある。非正規雇用労働者が本体と言っていいぐらい増えてきたこと。正社員は管理職候補で、非正規が二〜三割というのが、どの職場でもますます増えている。非正規をどこまでとするのか、資本側にしてもまずい面もあるので考えてるだろうが。

 以前の活動家は、日本の労働者の状況をどうみていたかというと、大企業と下請、日本経済の二重構造としてみていた。製造業でも四割が本工、六割が下請、実際生産点を担っている主力は下請労働者、それが階級闘争の主力になるだろう、と我々はそういう見方をしてきた。その後、二重構造がなくなったわけではないが、企業の大小を問わず雇用形態自体の変化が進んだ。外国では非正規が五〇%を越えている国もある。日本でも統計上二七・五%、近いうちに五〇%に近づき、さらに越えていくかも。もう一つの変化は、女性労働者の位置、以前はM字型就労とか言われたが、今は生涯労働というか、いつも働いている。また一つの変化は、具体的要求の変化、新しい要素ということで、経済成長型の大量生産・大量消費の生活向上だけでなく、環境・福祉などもう一度見直そうという気運が高まっている。

 その要求の変化ということに関わるが、情報通信の変化ということも労働運動に変化を与える。インターネットなどによる情報のグローバル化で、たとえば日本企業がアジアなどで何をやっているかということも広く知ることができ、進出先に闘う人たちがいれば国際的闘いができる。抽象的な国際主義でなく、自分が求めようとすれば、あるいは自分が発信すれば、大きな運動ができてくる可能性がある。現代帝国主義の必要がいわゆるIT革命をもたらしたわけだが、それ以上に運動側にも影響する。

 重要な状況変化として付け加えると、搾取構造の変化、ということがある。いわゆる日本的経営、日本的労使関係といわれてきたものが変りつつある。日本の経営者自身も変るだろうし、外資も入ってくる。資本は何のためにあるのか、利益を上げ株主に分配するためだということで、労働者には強烈な搾取をやる動きが強まる。本来の資本主義の強まり。全体的に搾取強化で、パートが増えるということは、正社員の労働条件も切り下げられてくる。このことが、労働運動にどう影響するか。これまでの労使協調の企業内労組が、これまでの延長線では成り立ちにくい状況となる。だから、それに代わるものを作っていかないかぎり、企業内組合の衰退と並行して日本の労働組合が衰退していくという構造になっている。

司会 そうした客観的変化があって「新しい労働運動」が出てきている。それでは、そのユニオンなどがぶつかっている課題、今の限界というものではどうか。

 それぞれのユニオンの組織が小さく、専従体制をもってないところが多い、また問題が起きた時に解決する力もまだまだ弱い。各々が力を付けていく必要があるが、この限界が問題といえば問題だろう。

 小さいというのは確かだが、ユニオンとしての発生の根拠がそれぞれ違っていて、全国一般型の系譜と違うところでは、「組織を作る」ということに活動家を含めて慣れていない。とくに共済型ユニオンから来ているところは、その傾向が強い。労働相談の解決能力はあるが、組織化能力が弱い。

司会 個人個人がユニオンに頼ってくる、個人個人で解決したりしなかったり……、組合員の歩留りが悪いのは当たり前のようにも思えるが。全国一般型だと、わりと大きい会社で企業単位の組合ができれば数は増えるが。各地に小さくてもユニオンを数多く作り、全体として組合員数が増えるというやり方しかないのでは。

 三〇〇人限界説というのがあるそうで、誰がいて何をやってという、組合員の顔が見える範囲というのはその辺が限度だから、その単位でいいんじゃないかという考え方もある。

 その論議は結論は出ていないんだけど、今はまだ、とりあえず三〇〇人に達したいね、という段階なわけだ。

司会 九月のユニオン・ネットの全国交流集会で「二万人」をめざすとあるが、具体的には?

 それぞれのユニオンの集まりなわけだから、ネットワークとして何万人にするという方針があるわけではないのでは。ネットとしては、各地のユニオンを援助するということだろう。ともかく、ユニオンはどこにでもできる可能性がある。たとえば五万人口単位でユニオンが全国にできてくると、すごいことになる。東京だと、各区ではなくてもっと狭い範囲で一つのユニオンができて、専従が置けて、きちっと活動できる態勢ができれば、かなり力をもつ。今は一つの県で一つしかユニオンがないというところから、これが力をつけ、二つ、四つ、八つにしていく、ある程度の規模になれば執行権をもった一つのユニオンが独立する、一つの県で五個、十個のユニオンはできていくだろう。

 既存の労組にも新しい芽はある

司会 そうしたユニオンなどの伸長が、既存の労働組合にどういう影響をあたえるか。既存の単組・単産にとって「新しい労働運動」の意味とは?

 新しい取り組みというか、新しい労働運動の芽は、既存の組合の中にもある。しかし労働運動としてきちんと組織されてくるのかどうか、不確定な状況。たとえば、個性を持ったというか、自分を自覚した労働者が増えてきたが、能力給に賛成する人が非常に多い。若い人の七〜八割は能力給のほうがいいという考え方になっている。いわゆる平等・公平な賃金体系とかいうものは古いとか、押しつけとか批判する。これについて総賃金としては下げられるよとか、成績というのは誰が客観的に評価するのかとか議論する必要があるのだけど、若い人の意識は、よく言えば自分の能力発揮を望んでおり、わるく言えば自己中心的で、業績給的賃金体系に迎合する形にある。もっと単純な例だと、組合をやめたほうが組合費を払わないぶん生活改善になる、という考えにもなる。そういう個人主義的な意識変化に対して、今までの労働運動がどう対応できるのか。そういう変化を一定前提としつつ、新しい労働運動の意味、自立した個人の団結という方向へ説得できるのか。これは既存の労組であれ、ユニオンであれ、同じ課題ではないのか。新しい運動の中身の提起ということだけでなく、組合に団結することの意味、また組合民主主義と共に統制をかけながら団結を守っていく組織運営の意味、これらを若い人に理解してもらえるか。たぶん、それができる労組でないと生き残っていけないと思える。

 若い人は、能力給になれば自分の給料が上がるということを前提にして、そう言っている。しかし客観的には労資の対抗関係で決まっていく。階級問題を考えられるようにしないと、個人的解決で能力給支持になる。経営者は何のために能力給、あるいは年俸制を導入しようとしているのか……理解してもらえれば若い人も反対する。

 また、今の若い人は、国際ボランティアなどで我々よりも国際的活動をやっている。それは左翼の言う国際主義とは違う形で、だけれど。今は、保守のほうが国際貢献をかかげ、世界平和のために安保は必要と主張し、平和憲法守れは一国平和主義だと非難される政治状況だ。この状況もふまえると、我々が、若い人の海外に出ていく活動を評価しながら、味方につけていくことが重要になる。

 教育労働者の現場では、そもそも若い人がいない、入ってこないという現状だ。現在の「教育改革」の攻撃、国民会議答申の先取りが行なわれている。日教組は政府と連携を取りながら、という対応になっており、答申に反対ではあるが本腰で闘うものではない。現場でもほとんど闘いはない。だから、新しい労働運動にどう対応するかというよりも、一から教育労働者の運動を作りなおさねばならないというのが現状だ。

司会 学校現場の要求には、新しい要素、変化といったものは?

 職場の要求としては、労働時間とか年休が取れないとか、教育内容に関わるものとかだが、まだ現場が地域を見るというところまで行っていない。父母と連携すると言いながら引いている、父母を中へ入れないというのが現状。そういう中で、ぼくらが勝っていくためには、教育内容での要求を重視しながら地域の諸運動と手を組んでいく、それしかないというところ。

司会 親も多くは労働者なわけだけど、親の学校や教師への要求で新しい要素は?

 やはり親の場合、基礎的な学力をしっかりつけてほしいという要求、これは今も昔もあまり変らないと思う。変ってきているのは、家庭では、こどもの生きる力、生き方の基本を充分につけられない現状があるので、学校でそういう力をつけてほしいという親の気持ちがある。その気持ちにぼくらは結びつこうとしているが、なかなか運動にはなりにくい現状がある。

司会 学校には期待しない、という新しいタイプの親もいるだろう。

 不登校問題では、そういう親も出てきている。そういう人とも結びついている。人権教育として不登校をどうみるか、という視点で父母と関わる。一人ひとりの子どもの立場に立って教師がどう変っていくか、そうでなければ子どもは心をひらかない。やはり親としては、学校に期待するものがかなりたくさんある。脱学校の新しい要求、学校だけが教育機関ではない、という立場はまだ親の一部にとどまる。そういう父母との関わりがあるなかで、今は、分会あるいは個々人で地域の市民運動に結びついているという段階だ。ぼくら日教組の組織は県段階で県教組、市段階で支部、学校に分会となるが、支部執行部で多数派を取らないと、なかなか地域での運動、支部を挙げての展開というようにはならない。まだ少数派だから、分会レベルで少しづつというところ。

 「労働」を問い直し「地域」へ根ざす

司会 教育労働者の教育実践の立場から、労働の中身を問う発言だったが、最近、「働き方」宣言を作ろうという提起もある。従来「社会的労働運動」という提起もあり、これは賃金・労働条件だけでなく、社会的諸課題も取り込んでいこうという意味かな。いま言われている「働き方」を問う労働運動というのは、今の経済情勢を背景に仕事作りということも含め、どういう労働をしていくのかということを軸に労働組合の基本的価値を再建しようという意図だと思う。この気運についてどう思うか。

 それと似た提起だが、「地域と結びついた労働」という提起、地域での協同労働が軸になって新しい福祉社会のモデルを作ろうという提起もある。ともかく、労働の意味、労働者の団結の意味をもう一度問い直していかないと……既存の組合でもそういう新しい問題意識は持っていても、運動の実際としては旧態依然にとどまっているのが現状か。

 教員もそうだが公務員とくに自治体労働者の場合、このかん市民の監査請求を使い、勤務時間等で地方議会で問題にされて負ける例が全国的になっている。これを考えると、市民側も自治体労働者の労働をよく理解せずに、ただ効率の面からしか見ておらず、また自治体労組の側も労働の質を問い、地域にアピールするというのが弱い。公務員の労働は地域と不可分だ。たとえば外勤の郵政労働者は、地域のこと、老人がどうなっているかとかよく分かるらしい。郵政労働者がその労働を通じて福祉・介護問題にも関われないか、という動きもある。これは郵政省の側にも福祉ビジネスへの進出という意味で、地域の特定局に着目した検討があるようだ。教育労働者に引き付けると、こどもの生きる力、差別を許さない力を育てることを全面でやる。労働者である以上、誇れる仕事をしっかりやっていく。労働時間など権利だけを主張しても勝てない。

司会 自治体でいうと、市民側も、財政危機だから給与を下げろというのではなく、こういう行政の仕事をしなさいという迫り方をすべきで、自治体労働者側も、こうなればこういう行政サービスが可能なのだが、と応じていく。その過程で、地方自治の制度的問題が市民にも理解されるというのが必要だろう。

 労働の中身を問う重要なたたかいとして、労災職業病闘争がある。昔の労災闘争は、日共も一生懸命やってきたが、弁護士を立てて補償を取る運動。社会主義協会系は安全闘争イコール反合闘争、反合で革命へ…なんて。今の我々の安全衛生闘争は、一人ひとりの労働者の人権をどう確保するか、ということに基本点がある。ここ十年の「参加型の安全闘争」というのは、労働者自身が労働の仕方を自分で決定していこうという方向性を持っている。このことは、別の面から言うと労働者教育の問題。六十年代から労働学校がさかんになってくるが何をやっていたかというと、マルクス『賃労働と資本』などの勉強。これは、総評が同盟に対抗して、階級意識を労働者の中に懸命に持ち込もうとしたもので、そういう労働者教育も一定の成果はあげたが、時代が代わり労働運動が後退してくると、そういう思想教育的カリキュラムはあっさりなくなって、今は社会状況のいろんな説明、福祉とかを論議するという方向になっている。いま必要なのは、自らが働き方を決定していくための労働者教育だと思う。労働者は自分の仕事に誇りを持っているから、その職業能力をどう高めていくかということに非常に関心があって、今の若い女性なんか懸命に勉強しているわけだ。ところが、そういう勉強を労働者がやる権利は、今のシステムでは保障されていない。労働者教育というのは会社がやる権利になっている。それに対抗して、労働者協同組合的なものを作り、自分たちで仕事をし、同時に職業的能力も身につけていこうという運動、それが労働と地域社会の新しい関係を作っていくという動きが出てきた。

 労働者教育と、自分の労働と自分の将来を決定していく権利ということとは不可分の問題で、革命運動の側がこのことを軽んじてきた。労働者階級への帰属意識という教育だけになっていたのかも知れない。働き方の自己決定ということを方法論として、地域で意識的にやっていべきだ。しかし、地域の運動勢力でも、学区単位、かって高野実もこの単位で最終的に勝敗が決すると言っているが、学区単位のレベルまではつかみきれていない。一つの小・中学校、公民館、子ども会……学区単位でのこちらの取り組みを考えるべきだ。

 学区単位での労働運動と市民運動の結合、それが基本かな、という感じはする。学校評議員制度というのがあって、これは教育改革国民会議の答申の中にもあるが、地域住民と学校が話し合って学校教育を作るというもの。これについては我々運動側にも賛否両論がある。今すすんでいるのは、地域のボスと学校の偉い人でやってしまうというもの。これを許さず、学校評議員制度を運動側が逆手にとって使うという可能性はないのか、検討の余地はある。また、地域の運動側が、地方議員を持つことは重要。というのは、議員と共に取り組んでいると、環境、介護、人権と課題が広くなり、地域をどう作っていくかというレベルで方針を出さねばならなくなる。労働運動もそこに入っていく必要がある。

 労働者家庭の教育の悩みなどの社会での問題解決に一緒に取り組んでいくという姿勢にならないと、労働組合の社会的存在意義がなくなっていくという状況がある。逆に地域へ打って出れば、労働組合が地域勢力として大きく闘える可能性がある。

 労組法改悪策動と個別紛争処理

司会 ぼくらが話を進めてきた「新しい労働運動」、これに対する政府・資本側の動向がある。一つは個別労使紛争処理機関、もう一つは労働組合法の改悪ということになると思うが。

 地域ユニオン、中小運動、あるいは企業内の少数派組合、これらに対抗して政府・財界が考えていることは、一つは、増大する個別紛争をうまく処理してしまうことで、労働省の構想では、この処理に労働委員会を当てず、労政事務所に個別労使紛争処理機関を設けるというもの。個別紛争処理は、本来ならヨーロッパでやっている個々人の労働裁判のような方向なのだろうが、このかんの制度論議では、裁判の方法も否定せずに、一方で処理機関設置となっている。労働運動側の個別紛争というものへの対応が問われる。もう一つの労組法改悪は、ずいぶん前から関西経営者協会が主張しているものでもあるが、企業内の少数派組合の団体交渉権を否認するもの。日本の現行の労働組合法では、多数派組合も少数派組合も平等に交渉権を持っており、法的には会社は平等に対応しなきゃならない。これに対し、過半数組合のみに交渉権を認め、少数派を弾圧する。過半数の御用組合を擁していれば、労使関係は安定するというもの。この労組法改悪案は、来年には出されてくるだろう。国鉄闘争が仮に「四党合意」で決着されてしまうと結局、労働委員会制度の否定になるが、労組法改悪は、ユニオンや少数派組合が労働委員会を活用できなくするという性格をもっている。労組法が改悪されれば、ユニオン、中小運動の事実上の否定であり、まさに労働基本権がかかった一大闘争として反対していく必要がある。

 アメリカの労働法にも過半数条項がある。それでAFL・CIOの新しい潮流も、過半数の組織化ということに必死に取り組んでいる。日本の労組法改悪には当然、最大の統一戦線で反対すべきだが、やられてもそれで闘えなくなるわけではない。法的に団交権があろうがなかろうが、地労委を使えようが使えまいが、運動で突破していくという腹構えが必要だ。

 アメリカの場合、市民意識が強いから、労働者が市の条例などで経営者に対抗するというのもある。ヨーロッパでは、少数派の組合が急に多数派になるというような、流動的状況がある。アメリカでもヨーロッパでも、そして日本でも労資関係は流動的な時代に入ったのではないか。日本の社会構造に一定合ったものでいいとおもうが、日本でも個人個人の主体性を取り戻す時代、そういう組織論が必要な時代に来ている。

司会 その「個人の主体性」ということなんだが、個別紛争処理というと、自立した個人が労働組合というものに依存せずにやるということのだから、いいじゃないかというのが一般にあると思えるが。今の女性運動では、ユニオンとしてというより、個人として裁判をやるという傾向があると聞く。

 それはそれで、ちゃんとした処理機関ができるのならば良いと思う。労働裁判所的なもので、一週間以内に決着つけるとか、ならば。個別処理制度をやらざるをえなくなったのは、いままでの労使協調で統制を続けることができなくなったという大状況があり、それへの総資本的な対応だ。ユニオンなどの組合としては、個別処理機関に訴える労働者も完全に支援しますよ、という対応になるだろう。その過程で組合を知ってもらって、そこに団結したほうがよいとなる可能性がある。

 資本の意図としては、個人加盟組合の伸長をこの制度で抑えたいというのがあるにせよ、この種の問題はその意図通りに行くかどうか判らない。我々が逆手に取れる可能性もある。

 労政事務所などでやるということだから、「機関」というよりも、今の均等法の相談窓口と同じで、労働者にとって役に立たない実態になりそうだ。年末の論議では、その権限は命令でも調停でもなく、「調整」程度とされている。

 役に立たない。組合に入り、経営者に対してがんがんやったほうが、よっぽど解決が早いということになる。また、地労委との関係で言うと、今はユニオンが地労委にいろいろな問題をもっていく、これを何とかしたいというのが資本側の考え。一方、地労委は個別紛争処理的な仕事がほとんどで、それを取り上げられたら地労委はやることがなくなる。そのため、地労委は労働省の制度案に反対している。

 差し迫っているのは労組法改悪との闘いなのだが、改悪案が出てくることを前提にして準備する、では負けてしまう。今まで労基法改悪や派遣法の反対をやってきたが、同じパターンでは負ける。二十一世紀の運動をどう作るかという全体の中で、大きな統一戦線を展望して対決していくということだろう。

司会 というわけで、若干政治的な話にもなるが、全労協などの今後ということも含めた労働戦線の今後の展望ということになるのだが。

 運動の中身とは相対的に別に、労働組合組織の共闘のあり方も追求しなきゃならない課題としてある。国鉄闘争の行方ということから、いろいろな再編論議はあるんだろうが、少なくともユニオン型でない民間中小とユニオン・ネットとが、運動で共闘できる形にならないとまずいだろう。それから、一つの組織論だが、これまでの労組はその内部を上から統制するという形で団結を守ってきたのだけど、考えられるのは「課題別共闘」という形で、たとえば反戦平和では、ここの支部と他労組のあの支部は一緒にやれる、別の課題ではこことあそこが……というようにやれて、同時に産別的な課題としては一つの単産として団結を保っていくという組織のあり方。そういう今までと違った考え方を持たないと、状況に対応できない。なぜかというと、今の連合内の単産合併というのは、一致しない課題は全部切り捨てるというやり方。そうではなくて、具体的やり方はいろいろあるだろうが、課題別共闘で運動的には倍増していくという方向でいかないと。

 同志の中には全労協所属の組合員もいれば、それ以外の組合の人もいる。我々左翼労働運動の全体問題として全労協を総括していかねばならないことだ。我々もその結成を支持した全労協、その十年を振り返ってかんばしい成果を出していないと思う。全労協が発展し、国労も応え、となっていれば国鉄闘争もより有利な局面に達していたかもしれない。現在のままでは、左翼の労働運動はさらなる後退を強いられるだろう。その後退した地平から今後どう進んでいくのか。課題別共闘、ネットワーク型運動、新しい発想で検討を深めていくべきだ。

司会 当面の労働戦線の話も出たところで、最後に、今年の抱負を一言づつ。

 このかん運動で基本的に言えることは、資本との対決という基本姿勢が弱いこと。労働者は一人ひとりでは弱い、だから団結し、闘うときはストライキという闘争手段をもって闘うんだという労働三権、それがなぜあるのかという原則。これを確認するものとして、まずは共同闘争の場として活用できる春闘を残していくことが大切だ。もう一つは、労働運動は基本的に、労働現場に基礎があると思う。もちろん社会に打って出る必要はあるのだが、労働現場での差別をなくす、人権を確立するのが基本。「社会的労働運動」と言ったとき、これがアイマイになるのはよくないと思う。で、これからの運動は、「一人はみんなのために」と言うより「みんなは一人のために」と言う、個を尊重しながら、尊重するが故に個が団結するという方向に行けないか。

 ソ連崩壊から十年、かなり後退したが、新しい闘いが始まるのは必然的。そういう希望をもって。

 一人ひとりがバラバラで全部自分で悩んでいたが、組合に結集して悩みが解決する、解決してますます組合が前進する、そういう中心としてユニオンががんばっていく。

 教育労働者も人権尊重の地域作りに関われる力を持っていく。労組間共闘だけでなく、現実の運動で一人ひとりと向き合っていく共闘を。

 最初に国鉄闘争の話がでたが、中曽根は二十一世紀までに全部解体しようとしたが、思惑通りにはなっていない、誤算だ。労働側が主流派ではないが、それなりの地歩を持ち、新しい展望を考えているのは重要なことだ。

司会 労働者共産党としては、今日のような討論を発展させ、政策を整えていきたい。そして新しい労働運動と日本・世界の変革をつなぐ党の実践をすすめていきたい。同志の皆さん、ともに奮闘しよう。(おわり)