新春日本史

 東アジアの小中華と豊臣政権の対外構想

                               堀米純一

はじめに


日本側でいうと「文禄・慶長の役」、朝鮮側でいうと「壬辰・丁酉の倭乱」(中国側では「万暦朝鮮役」)と呼ばれる一六世紀末の日本による朝鮮侵略は、前近代における日本の侵略戦争で最大規模のものの一つである。
そこにはさまざまな特徴があるが、その中の重要なものの一つは、東アジアの華夷秩序のもとでの日本の自立が、小中華意識と不離不即の関係で意識され展開されたことである。 「文禄・慶長の役」は、近代の日本帝国主義のアジアにたいする侵略と差別の前提としても、大きな要因をなしていたといえる。

  華夷秩序と小中華


前近代における東アジア文明圏の国際関係の基本は、中華思想にもとづく華夷秩序である。華夷秩序は、文明の光のあたる中華と、その光がまだ及ばないとされる夷狄(東夷、西戎、南蛮、北狄)の地=化外の地とに区分される。中華の天子(=皇帝)の役割は、天の大命を受けその徳をもって、中華を統治するのみならず、この夷狄を教化・王化し、文明世界(中華世界)に導くことである。
このように中華は絶えず、「華」による「夷」の教化をもって膨張させる傾向をもち、そこでは近代国家のような厳格な国境線をもっていない。だがその反面、(文明を担う文字<漢字>の普及を背景に)中華思想を受容するかぎり、中華帝国の支配エリートへの登用は出身民族のいかんを問わない。一方、華夷秩序に包摂されてきた諸民族、諸国家は、その国力の充実にともない自立を求めるが、その際、中華思想を受容しそれ自身から脱却しえない状況下で、自国を中心としたミニ中華としての小中華に走る。それは古代世界では、高句麗、百済、新羅、渤海、日本などにみられる。小中華の動きは、その後もたえず中国の周辺国家で繰り返しおこる。
たとえば朝鮮では、「李氏朝鮮は明に対する事大、日本に対する交隣の姿勢を固守して平和な外交関係の維持に努めた国家として知られる。しかし、その『平和国家』李氏朝鮮ですら、宗主国明・清の外征への従軍を除き、少なくとも、二種類の自発的な外征を行なっている。一つは、一四一九(世宗元年、応永二六)年の対馬への外征(乙亥東征、応永の外寇)であり、もう一つは、一四二四(世宗六)年の申叔舟による二回の女真征伐をはじめとして、幾度か繰り返された北方民族女真にたいする軍事行動」(荒野泰典著「日本型華夷秩序の形成」─『日本の社会史』1に所収)に現れている。それは自らの国家領域外ではあれ、自らの華夷秩序の範囲内と朝鮮が考えていたからである。
ベトナムは、一〇世紀に中国の直接支配から脱し、一五世紀には儒教と科挙官僚制に支えられた中国的な集権国家を作り上げる。一四七一年黎朝聖宗は、今日のベトナム中部にあるチャンパ王国に大規模に侵攻し、その後同王国は滅亡した。ベトナムの版図はビンディンにまで拡大する。北方には大国中国があり、ベトナムは版図拡大に南進路線をとったのである。北部の鄭氏政権と対立する阮氏政権は一六九七年には、ほぼ中部海岸平野全体を支配下におき、ついでクメール人の居住地帯であるメコン・デルタを狙い、翌年サイゴンを奪取する。以後一世紀の間にベトナム勢力は、今日の版図に近い形でメコン・デルタを支配下に置く。一九世紀には、シャム(タイ)との間でインドシナ半島の覇権を争う。ベトナムは、同等の力をもつシャムにたいしては対等な国交を意味する「邦交」関係を実質的にとり、カンボジアやラオスなどは小国としてあつかった。そして、阮朝の明命帝時代には一時的に直接カンボジアを支配したが、一八四七年には妥協し、カンボジアをシャムとベトナムに両属し、朝貢する緩衝国として位置付けた。ラオスにたいしては、一八三八年に六つの羈縻(きび)州をもうけ支配したが、実効統治は思うようにはいっていない(羈縻とは、占領地に唐と同じ州県政を布き、その長官には現地人の首長を任命する間接統治の方法)。 日本は古代、主に蝦夷を圧迫、征服、差別し、南島人とともに日本の華夷秩序に組み込んだ。室町時代の足利義満は、一四〇三年中国との勘合貿易を目的に明に臣従し、翌年には勘合符を獲得している。しかし、鎌倉時代いらいの武家政権のなかで室町幕府はもっとも不安定な政権で、倭寇の活動を取り締まることができなかった。近世統一政権の登場は、全国統一の武力を背景に、この倭寇を取り締まりながら対外活動の転換をもたらした。

 豊臣政権の小中華的な対外構想


豊臣秀吉が、小中華を具体化するための海外派兵の意志をもっとも早くしめしたのは、一五八五(天正一三)年九月三日、長浜時代いらいの家臣・一柳末安に「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候(そうろう)心に候歟(か)」(「伊予小松一柳文書」)と、述べたものといわれる。
この時、秀吉は未だ関東以北、九州を征服していなかったが、前年に徳川家康との和をとりつけこれを服属させ、この年七月には関白職(翌年一二月には太政大臣となり、豊臣の姓をうける)についており、最大の武装集団(全国の約四割り)の長として既に日本国の統一のめどはたっていたと思われる。
一五八七(天正一五)年五月、島津を降し九州を平定した秀吉は、長崎を直轄地(翌年に鍋島直茂をその代官とする)としている。そしてこの年は、秀吉の対外活動が活発化する年である。秀吉は、薩摩の島津を通して琉球に、対馬の宗を通して朝鮮に、それぞれ服属要求をつきつける。
朝鮮への書簡では、「しからば国王日域に参洛有るに於いては、諸篇先規のごとくたるべく候、もし遅滞有らば、即時に渡海を仰せ出され、御誅罰を加えられるべく候」(一五八七年六月一五日付け、「宗家文書」)と、高麗国王の京都の天皇のもとへの出仕による服属の形を要求している。もしぐずぐずするならば、ただちに兵を派遣し、成敗するという高圧的なものである。
琉球に対してはさらに高飛車である。一五八八(天正一六)年八月の琉球中山王にあてた島津義久の書簡では、秀吉の天下統一をつげ、朝鮮の服属と明・南蛮の使者来航の趨勢を述べた上で、「しかるに貴邦無礼の段、たびたび仰せ出されるにより堅く申し通し候といえども、その験無く候、首尾無く成り行かば、愚拙本懐失うのみに候、天下違背の族、球国あい究むるの間、直ちに武船を催され、かたわら(ついでに)属減(滅カ─引用者)せらるべきは却りて地躰候(そうろう)」と頭ごなしに脅迫されている(この書をもった使者の派遣はこのときは実現していないが)。
朝鮮国王を参洛させるために使節を派遣せよという、秀吉の宗への命令はなかなか実現しなかった。それは日本・朝鮮に両属する対馬の宗が、両者の抜き差しならない対立を最も恐れていたからである。また宗の使節が朝鮮で交渉に入っても、朝鮮側は、「日本を簒弑(さんし。君主を殺しその位をうばうこと)の国」(北島万次著『朝鮮日々記・高麗記』<そしえて>)とみなして、日本への通信使派遣をしぶった。
朝鮮通信使がようやく聚楽第で秀吉に謁したのは、一五九〇年一一月七日である。これは秀吉の全国統一を祝賀するものであったのだが、秀吉は服属使節と誤解する。その後、宗は朝鮮側にしつこく「明に入るので朝鮮の道を借りたい」という「仮途入明」を要求する。これも秀吉の「征明きょう導」を宗がかってにすり替えたものである。
 一五九二(天正二〇)年四月一二日、ついに日本軍は朝鮮侵略にふみきる。以後七年間にわたり、朝鮮軍民を苦しめる朝鮮侵略が展開されるわけである。
秀吉の小中華の対外構想は、朝鮮侵略の準備過程でさらに拡大する。すなわち、一五九一(天正一九)年七月二五日付けの、ポルトガル領インド総督への返書(同年閏正月、天正遣欧少年使節が帰国した。そのときに総督の使節がともにやってきた)で、秀吉は次のように威嚇している。「一に、大明国を治めんと欲するの志有り」と侵略目標を明らかにし、「不日、桜船を泛(うか)べ、中華に到らば、掌(たなごころ)を指すが如くその便路を以(もっ)て、其地(インドのこと─引用者)に赴くべし、なんぞ、遠近異同の隔(へだて)をなすや」(異國叢書『異國往復書翰集・贈訂異國日記抄』雄松堂書店)と。しかし、この書簡の眼目は、「ただこの地(日本のこと─引用者)に於いて修好を欲するの心有り、すなわち海上は盗賊の艱難無し、域中さいわいに商売の往還を許す」(同前)というように南蛮との交易にある。
同じ年の九月には、秀吉はルソン(フィリピン)諸島のイスパニア長官へ入貢を促す書簡を書き送っている。一五九二年六月十一日付けの、ルソン長官のイスパニア国王への報告に秀吉のこの書簡の訳文も含まれているが、それによると、秀吉の日本統一を述べた後、「三韓、琉球及び他の遠方の諸国は既に予に帰服して貢を納む。予は今シナにたいし戦をなさんとす。而(しこう)して是(これ)予が力に因るに非(あ)らず、天の予に与えたるなり。其國(ルソンのこと─引用者)未だ予と親交を有せず。因(よっ)て予は行きて其地を取らんと欲せしが‥‥(商人・原田孫七郎がちょうどルソンに赴くところで、彼が行って説得するというので、猶予をあたえるという内容がある─引用者)。是(こ)れ旗をたおして誠に予に服従すべき時なり。若し服従すること遅延せば、予は速やかに罰を加ふべし。後悔すること勿(なか)れ。」(同前)と、威嚇しながら入貢を求めている。 そして、一五九二(天正二〇)年五月十八日、朝鮮の都・漢城陥落の報をうけた秀吉(在肥前名護屋)は、遠大な小中華構想、いわゆる「豊太閤三国処置太早計」を表明する。その概略は、「朝鮮の漢城が落ちたいま秀吉自らも渡海して明国を平らげ、明後年には後陽成天皇を北京に移し、前年(文書作成の翌年)には渡海しているはずの秀次をその関白として付け、天皇家内裏御料所や公家領として中国の都回りの一〇カ国を進上し、大唐関白秀次にも同じく一〇〇カ国を渡すとしている。日本の帝位は皇太子良仁親王か皇弟智仁親王に継がせ、日本の関白職には豊臣秀保か宇喜田秀家を当てる。‥‥さらに、秀吉は諸大名に対しても大陸において『十そうはい・廿そうはいのちきよう』(十倍、二十倍の知行─引用者)宛行を言明しているが、なかでも天竺(インドのこと─引用者)に近い国々を与えられた大名には自発的に天竺への侵攻をおこなうことが要求された。秀吉自身はしばらく北京にとどまったのち、日明交通の要衝である寧波府に移ることになっている。」(中野等著『豊臣政権の対外侵略と太閤検地』校倉書房)というものである。とどまる所を知らない膨張主義だが、それはあまりにも現実に無知な誇大妄想としかいいようがない。 さらに第一次朝鮮侵略が頓挫し、明と講和交渉中の一五九三(文禄二)年十一月五日付けの書簡で、秀吉は高山国(台湾)へも入貢を促している。この書簡でも「其の国未だ幕中に入らず、不庭(不逞)の罪、天に彌(あまね)し」(同前)と威嚇しながら入貢を要求している(ただしこの書簡は、手渡すべき相手に適切な者がいなくて、使者の原田孫七郎は空しく引き返している)。
あまりにも空想的な秀吉の対外構想ではあるが、ただその全体をみると、「明とインドそれに南蛮は対等で別格の交易国、フィリピンまでの諸国すなわち朝鮮・琉球・台湾・フィリピンはいわば琉球並の服属国、つまり国内の大名に準ずる惣無事令の対象国というように、二元的ないし重層的に構成されていたらしい事情がうかがわれる。」(藤木久志著『豊臣平和令と戦国社会』 東大出版会)のである。それは牢固とした華夷秩序の思想を前提とした小中華であるかぎり、必然的なことである。

 神国イデオロギーと天皇制への依存


華夷秩序の特質は、徳治主義である。しかし、中国・朝鮮が文の国なのに対し、日本は武の国といわれる。秀吉自身も明・朝鮮は「長袖国」(公家の国)で、日本は「弓箭」の厳しい国だという自覚をもっていた。そこでは徳治主義と武威の国意識の間で、矛盾関係に陥ることとなる。そもそも、いかに封建国家ではあれ武力支配のみでは支配の不安定性を脱することはできない。ましてや中華思想のつよい東アジアでは、武威の国などといってはとても通用しない。かえって野蛮な国として、軽蔑の対象でしかない。
そこで秀吉が対外関係で振りかざしたのは、伝統的な日本=神国イデオロギーである。前述のポルトガル領インド総督への書簡でも、「それ吾朝は神国なり、神は心なり、森羅万象一心より出でず、神にあらざれば、その霊生ぜず、神にあらざれば、その道ならず、‥‥ゆえに神を以って万物の根源となす」と汎神論的な神道をかかげ、「この神、竺土(インド)にありては、これを喚(よ)びて仏法となし、震旦(中国)にありては、これを以って儒道となす」といいつのる。これは逆本地垂迹説(本地すなわち本来の神が仮の姿を現したのが仏法や儒道)によって、神道の「普遍性」なるものを主張しようというものである。そして、キリスト教に対しては、「なんじの国土(ポルトガル)、教理をもって専門(唯一)と号し、而して仁義の道をしらず、この故に神仏を敬せず、君臣をへだてず、ただ邪法をもって、正法を破らんと欲するのみなり」と、説得的内容もなくただ排除するだけなのである。こうした程度では、キリスト教国はもちろんのこと、中国・朝鮮にたいする思想的権威をもつどころか、かえって軽蔑されるだけである。とても徳治主義の中身をみたすものでありえない。
神国イデオロギーへの依存は、必然的に天皇制との癒着と依存となる。秀吉が関白、太政大臣となったのは征夷大将軍になれなかったからだという俗説があるがこれは間違いである。当時公家側は、秀吉のおもいのままの官職を提供していたのである。このことが示すものは、秀吉が積極的に天皇制下の位階制的権威を利用したということである。日本の武家政権はすべて、独自の精神的権威の体系を創造できないで、結局は天皇制の位階制原理に包摂された。日本の儒教受容は、易姓革命を拒否した(天皇制との矛盾)ところでなりたっていたのであり、中国・朝鮮の儒教とは異なる。ただ君臣の義など上下の分(ぶん)秩序などでは共通性をもっていた。だがそれはほんらいの徳治主義ではなかったのである。

おわりに


明治維新による北海道開拓、一八七三(明治六)年の政府首脳による征韓論議、一八七四(明治七)年の台湾征討、一八七九(明治一二)年の琉球処分など、日本近代はその初頭から近代国家の論理をもって小中華の拡大につとめた。それは琉球をもふくめた国境線の明確化であり、朝鮮、台湾への侵略あるいはその策動である。
 それは維新政府の中枢が、琉球を服属させてきた薩摩の旧藩士や、アジア侵略の思想をもつ吉田松陰の門下生などに占められ、世に言う薩長藩閥政府による近代化がもたらした外交路線の本性である。