第22回党大会で綱領全面改定へ準備

   「国民の党」へ変質する日共

                        山内文夫


 日本共産党現代修正主義集団が十一月二十日から第二十二回党大会をひらき、党規約の全面改正案と「自衛隊活用」論を含む大会決議案とを採択しようとしている。「階級闘争」や「社会主義革命」「共産主義」を言葉のうえからも追放し、党を「日本の労働者階級の党であると同時に、日本国民の党」と規定する規約全面改正は、次に党綱領の全面改正を「宿題とする」(不破委員長)ものとされている。
日共が議会主義革命路線を確定してから久しいが、近年のその「現実路線」化は党変質過程を画するものであり、不破は「党名は変えない」と言っているものの、日共が非「共産党」化へ踏み出しつつあると見ることができる。
 わが労働者共産党は昨年六月の第一期二中総決議で、近年の日共に対し「現代修正主義路線をさらに質的に深化させつつある」と批判しているが、不破・志位指導部の動向は日共を「現代修正主義党」とすら呼べない次元へ向かわせつつある。
 ソ連崩壊後も世界各国には、マルクス的共産主義を思想的基礎とし行動の指針とすることを自認する政党・政派はたくさんあるが、わが党の基本的認識は、これらが実際の共産主義潮流と革命の裏切り者・現代修正主義潮流とに大きくは二分されていると見ていることである。いろいろ意見の相違があっても、これらを等しく共産主義者であるとは見ないということである。この見地は、第二次大戦後の国際共産主義運動を見る上で欠かすことのできない見地である。しかし一九八九年に大きな変化が起きた。その年のソ連党の自壊は、この現代修正主義潮流の中からマルクス的共産主義の看板をはずす動きの号砲となった。同時期に有力な党、イタリア党が共産主義の自称をやめて「左翼民主党」となった。
 来たる日共の第二十二回大会は、こうした今世紀末の現代修正主義潮流の国際動向の一環をなしている。日共が非「共産党」化したら、日本の革命運動にとってプラスなのかマイナスなのか。一概にマイナスであるとは言えない。なぜなら、日共のエセ革命党としての姿が明瞭となり、革命を求める先進的な労働者人民が、わが党などがすすめる革命政党建設の事業に接近しやすくなるからだ。しかし当面は、ソ連崩壊が世界的に与えた影響と同様に、日本の左翼勢力全体に「転向」を加速させることになるかもしれない。その「転向」も、教条主義から一旦頭を解放し現代的課題に実践を向かわせるということならば、まだ救いようがある。不破・志位指導部の「転向」は、安保容認・自衛隊活用の入閣主義を実質とする救いようのないものであり、当面の大衆運動への否定的影響は大きいだろう。
 日本における現代修正主義との闘争は、こうした意味で一定複雑な新しい段階に入りつつある。
                             
 日共の変質過程には、三段階の歴史的過程があると筆者は考える。

 第一段階は、現行綱領の基本が提案された一九五八年の第七回大会から、それが採択された六一年の第八回大会である。この段階で、(戦後一時期までは正しかったが最早正しいとはいえない)民族民主統一戦線の形成という方針が踏襲されると共に、その統一戦線勢力が国会で多数を占めて政権を取り、その議会的政権を革命政権へ高めていくという基本的な戦術が確定された。
 この六一年綱領の議会主義革命路線は、六〇年世界党会議の主要な傾向である現代修正主義路線(そのモスクワ声明は、「社会主義世界体制」の優位などによって平和革命が可能になったなどとした)に日本で呼応するものであった。この時期に、世界・日本の現代修正主義を「スターリン主義」として断罪する党員や、当時の宮本指導部とは異なった立場でモスクワ声明を支持した党員が大量に離反した。
 その後、中ソ論争を背景にいわゆる中国派、ソ連派との分裂があったが、これを機に当時の宮本指導部は「自主独立」路線と称して、国際共産主義運動の一支隊として日本共産主義運動があることを否定し、現在の「国民の党」への下地を作った。
 日共変質の第二段階は、七〇年の第十一回大会で「人民的議会主義」を唱え、七三年の第十二回大会で「民主連合政府綱領」提案を決定し、七六年の第十三回大会で「自由と民主主義の宣言」を決定した一連の過程である。これらはワンセットであり、その核心は、議会制民主主義制度の仕組みに従ってのみ日本革命の発展コースはありうるのであり、それ以外の発展コースは拒否する、そして議会制民主主義制度を未来に渡って防衛するということを支配階級に誓約したということである。
 六一年綱領自体は、民族民主統一戦線勢力が「国会で安定した過半数をしめることができるならば、国会を反動支配の道具から人民に奉仕する道具にかえ、革命の条件をさらに有利にすることができる」と記しているのみであり、革命の発展コースについて色々な可能性を考慮する余地が残されていた。ここを、支配階級や反共野党が「日共は選挙で政権を取ったら独裁を始める、『敵の出方』論も捨てていない」と攻撃してきた。この攻撃に対応するために、日共は上記の一連の作業を行なった。この結果、日共は、ブルジョア議会制を越える高度の民主主義制度をめざすという共産主義者の綱領的立場を完全に捨て去り、議会政党の一つになってしまったのである。
 この時期の初期に、いわゆる「新日和見派」の除去があった。ある評者によると、「新日和見主義分派処分は、……先進国革命路線=民主連合政権への道を、全党的に確立する上で、決定的な里程標となった。もしこの時点で大規模な処分を行なわなかったら、これらの世代は路線転換の障害物になっていた可能性は否定できないだろう」としている。(鳴海悟郎「新日和見主義と党の路線転換」 『カオスとロゴス』九九・十)
 日共変質の第三段階は、ソ連崩壊以降の九四年の第二十回大会に始まり、現在進行形のもので、その核心は、マルクス・レーニン主義とコミンテルン系共産主義運動の原理的レベルでの清算、つまり非「共産党」化と見ることができる。

 しかし、日共は議会主義革命路線によってマルクス・レーニン主義を早くから捨てていたのではないのか、実践的にはそうだと、我々なら考える。しかし、これまでの日共にとっては、議会主義革命路線はマルクス・レーニン主義の現代的・先進国的適用として正当化されてきたものであって、(「マルクス・レーニン主義」を「科学的社会主義」に、「独裁」を「執権」に、などの小手先の言葉の入れ替えはあったが)レーニンの国家論などを原理的レベルで公然と否定することは決してなかった。レーニン主義を否定すれば、第二インター系(社会民主主義)と第三インター系(共産主義)の根本的違いはあいまいになる。
 まず日共は第二十回大会で、ソ連崩壊に対応する大幅な綱領改正を行なった。その九四年綱領は、ソ連・東欧崩壊に対し「科学的社会主義の失敗ではなく、それから離反した覇権主義と官僚主義・専制主義の破産である。これらの国々では、革命の出発点においては、社会主義をめざすという目標がかかげられたが、指導部が誤った道をすすんだ結果、社会の実態として、社会主義社会には到達しないまま、その解体を迎えた」と総括した。
 筆者は、この記述に大枠で異義はない。しかし問題の急所は、レーニンたちがどのようにして社会主義をめざしたのか、その中身をどう捉え、今日的にどう評価するのかという点にある。筆者の考えでは、その核心であるソビエト権力の創造という歴史的意義をおさえ、それがなぜ挫折したのか、という点にある。九四年綱領は、この核心について何も述べず黙殺し、その代わりに「とくに新しい政権が、民族自決、平和、男女同権、八時間労働制や有給休暇制、社会保障制度などを宣言し実行したことは」「人類史的な意義」があるとしか述べていない。これでは、レーニンとロシア社会主義革命の意義を、ブルジョア民主主義的成果の次元に低めることになる。ブルジョア議会制民主主義者の立場からの、ロシア革命評価である。九四年綱領は、スターリンを強く断罪しつつレーニンが指導していた時期は基本的には良かったと述べることによって、一見レーニン主義を救っているかのようであったが実はその反対であった。
 そのことは、九九年から不破が公然とレーニンを攻撃し始めたことによって明瞭となった。不破は今年一月三日の『赤旗』で、「彼が、『国家と革命』で、マルクス、エンゲルスの国家論、革命論の誤った整理を行ない、議会の多数を得ての革命という道を原理的に否定してしまったことは、その後の世界の共産主義運動に深刻な影響を与えた誤りでした」と断言し、その新たな党派性を決定的に明らかにした。
 これまでの現代修正主義者の見解では、レーニンの暴力革命論は過去の時代には、あるいは特定の条件下では正しいが、今日的には一般的適用はできないとするものであった。不破の茶坊主・山口富男は同紙上で、「不破さんの研究では……強力革命の絶対化とか、国家機構粉砕論とかのレーニンの命題を、マルクス、エンゲルスの革命論をふみはずした誤りとして、きっぱりと批判しています。これは四・二九論文の時点から、さらに研究を発展させたものですね」と述べ、不破の原理的突破を称賛している。(六九年の四・二九

論文「極左日和見主義者の中傷と挑発」とは、日本の毛沢東派などによる議会主義批判に対して、六一年綱領の党路線こそレーニン主義の今日的具体的適用であるという反批判を行なったもの)
 以上から言えることは、日共がレーニン主義を公然と放棄しただけではなく、マルクス、エンゲルスを議会主義者として描きだすことによって、マルクス的共産主義をも公然と放棄しつつあるということだ。
 マルクス、エンゲルスもレーニンも、権力の平和的移行の可能性を原理的に否定したことなどはない。マルクス、エンゲルスが、軍事・官僚機構が強力でなく普通選挙制が確立しているいくつかの国では、平和革命の可能性があることを指摘したことがあるし、ロシア革命ですら、レーニンがソビエトへの権力の平和的移行を実際に追求した局面もある。権力の移行が平和的か暴力的か、ということは主客の情勢によってきまることであって、共産主義者の国家論・革命論にとって本質的問題ではない。本質的問題は、「労働者階級は、できあいの国家機構をそのままわが手ににぎって、自ら自身の目的に使うことはできない」(マルクス)ということであり、敵の抵抗を粉砕できる実力をもって、労働者階級が自らを支配階級として組織された階級へ高めあげることである。
 マルクス、エンゲルスは議会主義へ到達していた、それをレーニンは見誤ったとする不破の珍論は、革命の戦術問題にとどまらず、マルクス階級闘争論の否定に行き着くだろう。
 不破がレーニンを攻撃する前の九八年九月の三中総で、安保容認の「入閣方針」を党史上初めて打ち出したことも、日共変質の第三段階の重要な特徴である。
 この中総では、「暫定政権としては、安保条約に関わる問題は『凍結』するという合意が必要となる…政権として安保廃棄をめざす措置をとらない」との志位書記局長報告を採択した。日共躍進か、との下馬評があった来たる総選挙で民主党などとの連立政権を想定したのである。安保破棄通告を行なう連立政権(民主連合政府)の成立の以前に、安保容認の連立政権でも与党になります、という新方針は綱領路線と矛盾しないのか。当面の政策上の右翼的突破とレーニン公然否定という理論上の右翼的突破が、手を携えてすすんでいく。
 しかし今年六月の総選挙は、日共の大敗北であった。これをどう総括するか、は分岐点だったかもしれない。しかし不破・志位指導部は、第三段階の変質を行けるところまで行こうと決断した。こうして、今年九月の七中総で「自衛隊活用」論と規約全面改正案が出てきた。
 七中総で確認された第二十二回大会決議案は、「憲法九条の完全実施への接近の過程では、自衛隊が憲法違反の存在であるという認識には変わりないが、これが一定期間存在することは避けられない……その時期に、必要にせまられた場合には、存在している自衛隊を、国民のために活用することは当然である」と言い切っている。「必要にせまられた場

合」とは何かというと、志位の言によると「急迫不正の主権侵害がおこり、警察力だけではそれに対応できないケース」などであるという。
 これは、日共の決定的な政策転換である。日共は伝統的には「武装中立」論であったが、平和憲法下ではそれを擁護し、民主連合政府の安全保障政策では、第九条と矛盾しない自衛措置すなわち国民の決起や警察力の動員などによって、中立侵犯に対処するとしてきた。有事立法制定と第九条改悪が策動されている今になって、なぜ自衛隊活用論か! 違憲の存在だ、しかしいざという時には使いますよ、では世間で通用しない。平和運動・改憲阻止運動への害悪は計り知れない。
 日共第二十二回大会は、これら近年の飛躍的変質のすべてを確定しようとしている。第三段階での離反者は出るのか。出たとしても、それが現行綱領の防衛という立場にとどまるのであれば、さほど積極的的意味はないだろう。日共変質の背景には、その内部の批判者もそして我々も共有しているところの国際環境・国内環境がある。日共への理論的批判はその次に、その内外環境の理論的解明と実践的批判へ向かわなければならない。この課題については、また稿を改めたいとおもう。(了)