日雇全協再構築の為に

        激闘十数年の総括視点

                   深山 和彦

 十月二十一・二十二・二十三日、反失業全国行動が開催される。闘いは、いよいよ中央政府との攻防に入ってきた。反失業闘争が広がり、中央政府との闘いが始動する中で、日雇全協の立ち遅れの克服が焦眉の課題となってきている。以下、日雇全協の総括に関して若干私見を述べ、その再構築に資したいと思う。

    結成の地平の評価


 第一は、結成の総括である。
 日雇全協は、釜共闘・山谷現闘委以降十年の総括の共有を基礎に結成された。だがその内容には、今日の反失業闘争における日雇全協の牽引力の喪失を導く限界が孕まれていた。
 釜共闘・山谷現闘委は、七〇年代初頭、「暴力手配師追放」を目標に掲げ闘った。それは、寄せ場の労働運動が、寄せ場労働者自身の闘いとして運動展開していく出発点を画すものであった。
 このたたかいは、「労務者でなぜ悪い」「寄せ場労働者こそ最も革命的」という開き直りの思想が大きなバネになっていた。この思想は、寄せ場労働者自身の運動の始動を導いた積極面と裏腹に、寄せ場労働者のあるがままの現実を売り物にする思想、憤激の自然発生性に拝跪する思想、下層主義・寄せ場排外主義の思想、組織性の弱さを美化する思想、など政治第一で方針を立てることが出来ない思想で満たされていた。こうした思想を運動の指導原理としていた当時の主流的部分は、運動が政治的に発展し切り、警察の弾圧が強まり、後退戦が求められる段階に入るや、方針喪失に陥った。
 当時の運動の主流を成したこの傾向の人々は、ブルジョア社会における寄せ場労働者の経済的地位(=相対的過剰人口)を正しく把握していなかった。この傾向にとって寄せ場労働者は、「働き人」であり、その意味で「最も労働者らしい労働者」だった。つまりこの傾向の人々は、寄せ場労働者の現役層(現役的側面)にのみ依拠していた。したがって、一九七三年の石油ショックを契機とするアブレ地獄の中で寄せ場労働者の失業労働者としての側面が前面化してきたとき、この側面の要求を組織し闘うことが出来なかった。ここでこの傾向の人々は、運動から一旦撤退していった。
 「仕事よこせ闘争」は、釜ヶ崎において爆発的に展開された。釜共闘運動は、その否定的側面を克服した地平で、「仕事よこせ闘争」の推進部分によって継承されたのだった。これと対称的な推移を辿ったのが山谷であった。山谷では、主流の傾向を超える潮流が形成されず、運動そのものが一旦途切れてしまったのである。このことが後日、日雇全協の結成の中味に関係してくる。
 釜ヶ崎の運動の方は、その後石油ショック後の景気回復による深刻な失業情勢の解消と共に、就労過程における闘いに転じ、政治闘争へも積極的に踏み出し、新たな地平を築いていく。それは釜日労の結成へと結実する。そして八〇年代に入って春闘を開始する。センターを利用する三百もの手配師・人夫出し業者に最低賃金を提示し、受け入れない業者には対しては、朝のセンターで大衆の前に引きずり出し確約させていった。こうして釜ヶ崎では見事に最低賃金が確定し、毎年引き上げられていくことになる。この闘いを準備する過程で、七〇年代半ばに一旦運動から後退した部分との共同闘争関係の再建も闘い取られた。
 山谷では、経済情勢の同様の変化のなかで、山谷現闘委の解体と共に運動そのものから撤退した部分が再登場し、この人々を中心に共闘関係が形成され、争議が連続的に展開されるようになる。そこでは、山谷現闘委を導いた思想の破産は自覚されていなかった。とはいえ、釜ヶ崎に山谷が連動することで、日雇全協結成へ流れが創り出されていくのである。
 日雇全協は一九八二年六月、「総括の共有」を土台に据えて結成された。総括の内容は、釜共闘・山谷現闘委の運動を牽引した指導原理の破産を切開し、その破産を超えて運動を継承発展させた経験をそれとして評価するものになっていなかった。それは、痛み分け的、折衷的な内容でまとめられた。そうした内容は、運動の全国的統一のためにはある程度避けられなかったし、それはそれで大きな前進であった。しかし、総括が痛み分け的、折衷的内容となったことは、日雇全協の運動に影を落とすことになる。
 一九八二年六月、日雇全協は、「帝国主義と対決する階級的労働運動の下層からの推進翼」と自己を位置付け船出した。

   対金町戦の教訓


 第二は、対金町戦の総括である。
  日雇全協は、対金町戦でその意義を如何なく発揮した。しかし、対金町戦の戦闘遂行態勢を解除せざるを得なくなるとともに、生命力の消失過程に入ったのだった。大失業時代の到来と反失業闘争の勃興にもかかわらずである。まさに対金町戦は、日雇全協としての闘いのほとんど全てだった。この事実こそ、日雇全協の積極面ととともに、限界をも示しているのである。
 対金町戦は、一九八三年十一月、金町一家西戸組が「皇誠会」と称して山谷争議団に武装襲撃をかけてきたのに対し、千名の労働者が暴動でこれに反撃したことで開始された。
 金町一家西戸組の目的は、山谷において手配師・人夫出しから上前をはねる利権を確立することにあり、その為に山谷争議団を叩いて力を誇示ことにあった。日雇全協は、この西戸組の企てを、第一期の「皇誠会戦」(八三年十一月から八四年四月)と第二期の「互助組合戦」(八四年四月から同年十一月)において、大衆的実力闘争で打ち砕いた。
 ここで金町一家は、一家としての戦闘に入る。合わせてテロというやくざ流の闘争形態に踏み込んでくる。日雇全協がこの変化に気付くのは、佐藤さんが刺殺された時点である。闘いは、第三期の「金町一家戦」(八四年十二月〜)へと突入する。
 第三期は、国粋会からの応援をも得た金町一家の部隊を相手に、日雇全協の総力を挙げた闘いとなった。八六年一月には山岡さんが射殺され、反撃の暴動が展開される。大衆的力で都電通りを制圧し、部隊による地域内での示威・偵察行動を一歩一歩拡大していった。国粋会・金町一家の大挙した武装襲撃も撃退した。
 しかし八八年、転機が訪れる。闘いは長期化・膠着し、山谷労働者の大衆的盛り上がりに陰りが現れてくる。大後方の釜ヶ崎では、派遣団を支えることで運動基盤が疲弊し、不満が先鋭化しつつあった。そうした中で、天皇ヒロヒトの下血(九月)があり、警察権力の介入形態が大喪・即位式モードに移行する。金町との闘いの結果を捉えて逮捕する形態から、金町と闘わせない形態への移行である。警察は、金町一家に話をつけて引かせ、間に割って入り、日雇全協の側の金町一家に対する「報復・解体」の闘いを封じ込め・沈静化する作戦を開始する。警察の壁の背後に金町一家が隠れてしまう中で、一時の大衆的高波は退潮に転じた。ここから日雇全協は、闘争終息過程の試練に晒される。
 闘争終息過程の試練は、運動の内部に孕まれていた以下の四つの要因から生じた。
 一つは、「ファシスト戦」規定である。
 この規定が問題なのは、金町一家との闘いが、就労過程の労働者統制をめぐる攻防だという主要な側面を捨象してしまっている点にある。この闘争目的と山谷労働者の政治動向とを方針設定の土台とすべきところを、「ファシスト戦」規定は、金町一家の天皇制右翼としての側面に対する(どちらかというと寄せ場との関係が相対的に浅い)活動家の憤激から、山谷における闘争方針を導くものであった。
 二つは、「報復戦」を前面に押し出す傾向である。
 とくに、金町に一方的にテロられたままであることが、この傾向を強いものにしていた。「報復戦」の強調は、テロリズムへの誘惑を不断に生み出しつつ、大衆的基盤のなくなった状況下での闘争態勢の長期維持を正当化し、その意味で山谷現地の闘争体制を支える各寄せ場の運動を疲弊させる要因でありつづけた。これは、活動家の憤激だけから方針を導く誤りの典型であった。
 三つは、軍事問題の扱いである。
 「ファシスト戦」「報復戦」という雰囲気が先行する中で、大衆の後退という現実から乖離したところで、部隊行動の強化が語られ続けた。その結果、山谷の大衆的後退を全協戦闘部隊の増強で補う、全協戦闘部隊の増強を他の寄せ場からの応援で実現する、日雇全協各支部が疲弊し支援が滞る、という闘争態勢崩壊へのシステムが出来てしまったのである。
 このことのより根本的な問題性は、労働者大衆から目線が離れたということである。対金町戦から後退した労働者大衆の在りようが見えず、労働者の要求と闘い、労働者の団結、労働者の政治意識、労働者の共同闘争関係の発展に助力する立場を失って行ったということである。
 四つは、「労働者本隊論」(労働者階級の就労部分をプロレタリア革命の本隊とする論)である。それは、対金町戦から反失業闘争への運動の主軸の転換に際し、山谷において桎梏となって表面化した。
 九〇年代に入って大失業時代が到来し、多くの労働者が生存をも脅かされる深刻な事態を前にして、日雇全協は反失業闘争へ、各支部の運動の再建へ、大きくに転換する。釜ヶ崎では、九二年に反失業暴動が組織された。
 しかし、山谷争議団の内部には、「労働者本隊論」に深く染まり、アブレ地獄に苦闘する労働者の要求と闘いを組織しようとしない傾向が存在した。この傾向の人々は、対金町戦の旗を押し立てて(実際は何も出来ないのだが)、反失業闘争を妨害し、結局山谷争議団から分裂していった。
 第三は、今日の反失業闘争に関する、日雇全協としての総括である。

   反失業闘争方針の総括


 日雇全協の反失業闘争方針は、唯一「両輪論」であった。すなわち、反失業闘争と就労過程の闘いを両輪として展開するというものである。
 だが「両輪論」方針の意図は、主軸としての反失業闘争だけでなく、就労過程の闘いも組織する、という点にあった。このため、その後の大会のたびに、反失業闘争そのものの総括はなされず、「両輪論」方針を確認するということを繰り返すことになる。反失業闘争の経験が総括されないことから、反失業闘争が広がりを持てばもつ程、日雇全協としての反失業闘争の路線的共同性がなくなり、日雇全協は分散・解体過程にはまり込んだのである。
 まずこのことを確認した上で、最低限、次ぎの諸点についての合意を形成する必要があるだろう。
 一つは、問題の根本的解決の道についてである。
 今日の失業問題は、これまでのように景気回復によっては解決されない。行政施策によっても根本的には解決できない。資本主義を廃絶し社会革命を行うことが必要である、という点を確認することである。
 野宿労働者の運動において、問題の根本的解決の構想を語り、それを実践の指針として運動を牽引する立場にあるのは、日雇全協であるだろう。また問題の根本的解決のために不可欠な就労労働者層との協力関係の建設を牽引する立場にあるのも、日雇全協であるだろう。反失業闘争が全般的に生活保障を闘い取る活動なっている現状に対して、就労保障を闘い取る活動の重要性を強調することは前進的であるが、肝心なことはそれらの闘いと失業問題の根本的解決を準備する活動とを結合することである。
 それにはもちろん、政治革命を準備する活動も含まれる。
 二つは、釜ヶ崎NPOなど、運動が事業を組織することの意義についてである。
 この点についての見解の相違を克服することも、ポイントの一つである。
 今日の国家は、ケインズ主義的財政出動で社会を統合するということがもはや出来なくなってきている。大失業時代の到来により、資本主義のシステムの内部で生存を保障されなくなった大量の労働者が、国家に保障されない・統合もされないで、自らの力で生存の在り方を形成しなければならず・形成できるようになりつつある。労働者が日々の闘いと結合して、事業と地域社会の建設に踏み込む流れの拡大は、必然である。それは、ブルジョア階級支配の末期症状一つに他ならない。
 大失業時代における失業労働者の事業建設は、釜ヶ崎NPOのように行政とのたたかいの成果をテコに立ち上げる仕方、東京で試みられているような仲間同士が自力で立ち上げる仕方、と出発形態は様々であるが、そうした事業は必要であり、各地に生まれてきている。運動がやらなければ、運動と関係ない形で生成・発展し、右翼も組織するという具合になり、運動は土台の所から掘り崩される。
 三つは、攻防の発展段階についてである。
 いまだに「排除か、反排除か」が攻防の中心環であるとする主張は誤りである。初期の攻防は、まさにそうだった。しかし野宿労働者の運動の発展が、国家・地方行政府との攻防の中心環を、野宿労働者の自立の在り方と対策をめぐる領域に移行させたのである。そこにおいて「排除か、反排除か」の攻防は、なくなった訳ではない。副次的環の位置に後退し継続している。
 今日国家・地方行政府は、一定の対策を介して排除を展望する路線に転換している。その対策が社会的に承認されないレベルの場合には、非妥協的対決が正しい戦術になるだろう。しかし、その対策がある程度社会的に受け入れられるレベルの場合には、野宿労働者の側も対策の中味を巡る攻防に移行しないならば、政治的に孤立し敗北することになる。
 四つは、組織路線についてである。
 日雇全協と各支部の組織のあり方は、従来の寄せ場労働者の労働・生活形態に適合していたものであり、寄せ場に限定され、就労と失業の不安定なサイクルの中におかれた・経済的地位や心情的側面からしてもそれなりに一体性のある寄せ場労働者総体に依拠した運動体であった。しかし今日、寄せ場労働者は、就労部分と失業部分に分化し、寄せ場を越えた社会全体の現役層と野宿層のそれぞれの構成部分に転化してきている。また、野宿層が圧倒的に増大している。したがって日雇全協と各支部の組織のあり方も、この変化した現実に適合する形態への改変が問われている訳である。これは、とりあえずは、模索課題であるだろう。
 以上、論議を促進するための参考意見である。団結し、運動の新局面を切り開こう。