教育会議国民会議「中間報告」を徹底批判する

   改憲を狙う教育基本法改悪

                       教育労働者 浦島 学

 

   はじめに


 九月二二日、森首相の私的諮問機関・教育改革国民会議が、中間報告を発表した。これは、七月二六日に発表された三つの分科会報告を受けて首相に提出されたものである。教育改革国民会議はこれ以降、年内に最終報告を取りまとめ、政府は来年の通常国会での関連法案提出に向けて、教育基本法改悪の策動を急ピッチで進めようとしている。

  過去の答申とは一線を画す

 この中間報告は、冒頭「いまなぜ教育改革か」の章で、「戦後日本の教育は『他人と違うこと』『突出すること』をよしとしなかった。そのため一人一人の個性を尊重し社会を牽引するリーダーを生み出すことができなかった。このことは教育機関がぬるま湯につかっていたこと、家庭と教育機関と地域社会がそれぞれの使命と役割を充分に果たし得なかったことによっている。したがって具体的な改革案を提示しなければならない」としている。続いて「人間性豊かな日本人を育成するための改革」「一人ひとりの才能を伸ばし創造性に富む日本人を育成するための改革のあり方」等を述べ、「教育基本法の見直しについての国民的議論を」が最終章となっている。つまり教育基本法の改悪を述べて報告を終えているのである。
 中間報告は、冒頭から戦後教育を批判して、エリートを育てる教育を学校が、あるいは家庭と地域が連携しながら作り上げていくべきだと主張している。それは、日本の支配層が多国籍企業の国際的展開によって生ずる競争の激化を予想し、そこで勝ち抜いていくための一握りのエリートを育て上げようとしていること、また一方では、資本のグローバルな展開を軍事的に保障するために「戦争のできる国家」の人的要素を満たすものとして、教育を位置付けようとしていると考えられる。そして、これらのことを実現するために、教育基本法の改悪をも射程に入れて提案しているのである。
 このようなことは中央教育審議会の答申にも、臨時教育審議会の答申にも見られないことであった。なぜなら中教審答申も臨教審答申も、教育基本法を前提にして、「教育基本法の精神に基づいて」提案されているからである。したがって、かっての答申とは一線を画すものとして中間報告が成されているのである。

  国家主義と奉仕活動を強制

 第二章「人間性豊かな日本人を育成する」では、「教育の原点は家庭であることを自覚する」として「『しつけ三原則』と呼べるものを作る」等と具体策を提言している。また一方では「学校は道徳を教えることをためらわない」と述べ、「小学校に『道徳』、中学校に『人間科』、高校に『人生科』などの教科を設け…人間として生きていく上での基本の型を教え」ると提案している。さらに「言葉の教育、伝統や文化を尊重、古典・哲学・歴史等の学習を重視する」と続けている。
 つまり中間報告は、道徳教育の強化を唱え、上からの一定の価値観を押しつけるべきだと主張するのである。そればかりではない。「伝統や文化の尊重」と称して愛国心などを 植え付けようとしている。つまりは、国家主義的教育を施し、子どもを戦争の道へ引きずりこまんとしている。中間報告は言い回しに注意を払い、あいまいに表現している。しかし第一分科会(人間性)審議報告(七月二六日)を見れば、そのことは一目瞭然である。そこでは「国家や郷土、文化伝統の軽視」こそが問題だと指摘し、臨教審以降の教育改革としては成果は不十分であったとしている。
 この第一分科会報告は、作家・曽野綾子による「日本を祖国として生を受け、その伝統を血流の中に受け」「共通の祖国を持つあなた達に希望し続ける」という言葉で始まっている。この前文からも、かれらの狙いが極めて国家主義的なものであり、侵略戦争の担い手作りにあることは明らかである。
 また、勝田吉太郎(鈴鹿国際大学学長)は、「日本民族の『精神』が瀕死の状態」と危機意識を叫び、さらに「戦後教育の場でナショナルアイデンティティは見失われてしまう傾向にある。むしろそうなるのを助長する勢力も厳存する。そういう勢力は、愛国心をもって『悪徳』のごとく扱い、『君が代』を弾かない、立たない、歌わないという『三ない主義』を唱道している。教育基本法を拠り所として反国家、反体制の教育がなされてきた」と、同分科会委員として述べている。この意見は、教育現場に日の丸・君が代を強制し、天皇制イデオロギーを押しつけようとする最近の政府の動きと一致している。
 さらに中間報告は、第二章の中で「奉仕活動を全員が行なうようにする」とし、「小、中学校では二週間、高校では一ヵ月間、共同生活による奉仕活動を行なう」ことを提言している。そしてそれに続けて、「一定の試験期間をおいて、満十八歳の国民すべてに一年間程度、農作業や森林の整備、高齢者の介護などの奉仕活動を義務付けることを検討する」と表明している。
 かれらは、一定の価値観を押しつけるだけではあきたらず、奉仕活動を押しつけて、「他者への献身や奉仕」の心を育てようとしている。しかしこれでは、奉仕する心は生まれてはこないのである。相手の痛みが自分の事のように思える子に育てることなくして、ボランティアの精神を育むことはできない。中間報告は、上から子どもに価値観を押しつけ、型にはめ、はみ出す子どもを許さない管理教育の最たる物である。
 報告は、「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」とし、「問題を起こす子ども以外の子どもたちの教育環境を守る」と述べている。問題を起こす子どもには様々な思いがある。そのことを一人ひとりが考え合っていくことによってクラス集団は、高まっていく。けっして報告のように押さえこむことによっては、何も生まれないのである。
 第二章で目指す教育は結局、愛国主義など特定のイデオロギーを注入し、その枠にはまらない子どもを力で押さえ込んでいくことを柱にした教育である。したがって、従順で命令に従う子どもを育てていく教育そのものである。
 この改革案には、子どもの幸せを考える人間としての思いは、何一つ存在しない。そう考えると、この「奉仕活動」が介護や農作業というように形を変えてはいるが、徴兵制と何ら代わらぬものに思えてならない。やがて、それが徴兵制に変わっていくと考えているのは、筆者だけだろうか。

  「大競争時代」の差別・選別教育

 中間報告第三章「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む日本人を育成する」では、「五歳から七歳までの幅の中で、小学校に入学できるように義務教育開始年令を弾力化する」ことを検討するとし、その実現をねらっている。また提言として、「学年の枠を越えて特定教科を学ぶことができる習熟度別学習システム」の導入や学力調査の実施、「大学入学年令制限の撤廃、高校での学力向上を目的とした学習達成度試験を実施、公立学校の半分程度を中高一貫教育校とする」ことを述べ、そして「記憶力偏重を改め、大学入試を多様化する」の項では、「高校での学習達成度試験の活用、面接、小論文、推薦…などを採用し、大学入試を多様化」等のプランをあげている。
 これらは、すでにそれ以前の改革案で掲げられているものが多く、目新しいものではない。そしてこれらは、子どもの学力によって早い内からそれぞれの進路を分け、差別選別していこうとする教育に他ならない。一人ひとりの個性を伸ばす等と言いながら、産業構造の変化や企業の要請に基づいて必要な労働力を育成しようとしている。そして、多国籍企業のグローバルな競争に勝ち抜くための一握りのエリートを育て上げようと画策している。また国内の産業構造の変化に伴って、経団連などが掲げている雇用政策にそって提案されている。つまり一握りの労働者を正規長期雇用として採用し、その他を有期雇用とし、多くを不正規の流動的な労働力とする雇用政策に中間報告は沿っている。まさに差別・選別教育を打ち出している。
 現在の児童・生徒にとって、自分の将来を自らの力で決めていく年令は、だんだんと高くなっている。大学に行ってから決めている学生も多いのである。このような現状にあって就学年令を引き下げ、大学・大学院への入学を早めていくことがどのような意味をもっているのであろうか。また、学力の高い子どもを引き上げ、そうでない子どもを早くから振り分けていくことは、教育の現場に荒廃をもたらす。教育の機会均等の立場に立つ「平等主義的教育」を全面的に解体し、戦前型の差別選別教育を制度として確立しても、それは空しいことなのである。

 報告は、以上のような「教育改革」のために、教育労働者に対しての管理・支配強化を目論んでいる。「顕著な効果をあげている教師には、特別手当などの金銭的処遇、準管理職取扱い」をしたり、「効果的授業や学校運営ができずに改善されない教師は、配置替え・免職等の処置をとる」という主張がそれである。そして「免許更新制の可能性を検討する」としている。
 これは、この改革案の方向に教育労働者を動員せんとする、かれらの意志の現れである。かれらは、差別選別教育に反対し、平和教育の実現と一人ひとりの人権を尊重して実践

を進めようとする教育労働者を排除しようとしている。「顕著な効果をあげている」とは何をもって効果をあげているとするのか、効果的授業とは何なのか、その点があいまいである。報告にそって、問題ある教育をすることが効果的なのか、部活や学力テストで良い成績を収めさせることが効果的なのか、はっきりしていない。つまり、かれらにとって都合の良い観点で評価し、教育労働者を免職したり、教員免許を更新させまいとしている。「学校評価制度」も、教育内容を統制し教育労働者を管理支配する上で有効に作用するものである。さらに、校長の裁量権を拡大することによって、統制・支配を強めようとしている。

 以上のような「改革」を行なっていくために、かれらは戦後教育の裏付けであった教育基本法の改悪を狙っている。そしてこのことが、かれらの真の目的なのである。
 中間報告は「教育基本法の見直しについて国民的議論を」と提案し、「教育基本法をタブー視する必要はない…その制定当時とは著しく異なる社会状況においては教育基本法に求められる内容が変化しているはずであり、必要に応じて改正されてしかるべきである」と、その理由を述べている。しかし第一分科会報告にあるように、「基本法には、個人や普遍的人類しかなく、国家、伝統、文化、家庭、自然の尊重などが抜け落ちている」というのが本音なのである。
 繰り返すが、教育改革に教育基本法の改正を掲げたのは今回が初めてであり、支配者どもの並々ならぬ決意がここに示されている。森首相はこれまでにも、「国民奉仕隊」の創設や「国防教育」の推進を機会あるごとに主張し、教育基本法の見直しを議論すべきだと述べてきた。森首相は、「分科会報告は、私が考えていることと軌を一にしている内容も多い」と満足の意を表した。このことは、かれらが教育基本法の改悪を狙っていることの証である。そして教育基本法が日本国憲法に則つて制定されている以上、かれらの策動が憲法改悪に向かっていることも明白である。

  教育現場と地域から総対決へ

 教育改革国民会議がめざす、差別選別、愛国主義・軍国主義の教育を進めていくかぎり、教育現場が一層荒廃するのは明らかである。かれらは、「青少年の凶悪犯罪、いじめ、学級崩壊」等について「元凶は教育基本法である」と責任を転嫁し、教育基本法を改悪し、道徳教育等を強めていこうとしている。しかし、このようなやり方で現状は一つも改善されるはずがない。そこには、子ども一人ひとりの内面に迫り、子どもの変容を図っていく手立てが何一つ感じられないのである。
 子どもは、いじめが横行する学校社会の中で自らの心にバリアをはりめぐらし、本音を語らずに生活している。そうして自らをよろいで固めているのである。このバリアをはずし、子ども同士がありのままの姿で語り合い、関わり合うことが必要なのである。子ども一人ひとりには、様々な生活があり思いがある。このことを教師と子ども自身が理解しあ

い、本音で付き合うことが必要なのだ。子どもらは、そのことをむしろ求めている。そのためには、教育労働者自身が子ども一人ひとりと寄り添って生き、ふれあうことで、自分自身を変革していくことが何よりも大切なことである。このことによって、子どもが心を開き、それぞれの違いを認め合い、尊重し合うようになるのである。いわゆる学級崩壊もこのような教育を行なうことで越えていくことができると思うのである。また、少年犯罪についても同様である。
 学校を荒廃させた原因は、産業の要請に基づいて、詰込み主義教育をやり、偏差値で子どもの能力を推し量ろうとした教育の結果であった。学校を競争社会に落とし込み、部活等の徹底化によって管理しようとする教育がこの現状をもたらしたのである。決して教育基本法の掲げる精神がそうさせたのではない。したがって教育改革国民会議の改革は、全く的外れの内容である。ましてや、戦争遂行国家を実現するために教育を利用するのは論外である。
 教育労働者は、職場の小さな声を運動に変え、小さな闘争を積み重ねることによって団結を強めなければならない。また、日々教育問題で悩む父母のもとに進んで入り、子どものことを真剣に語り、自らが変わることによってよりよい教育を目指さなければならない。そして地域と深く結びつく必要がある。また市民運動等とも連携して、教育を含めた地域作りに参加することが求められている。
 教育労働者は、このような実践を日々推し進めることによって、子どもの立場に立った教育を実現すると共に、国民会議の教育改悪と全面的に対決しなければならない。すべての働く人々と連帯し、教育基本法改悪を許さず、より良い教育実現のために奮闘しなければならない。ともに闘おう。(了)